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 外に出たくない母さんでも、病院に行くときは車を出す。そんな日はついでに買い物をするから、俺も荷物持ちでついて行いていかなきゃいけない。

 母さんが運転する車の後部座席に乗ってるときは、いつも数秒後には車がガードレールかコンクリート塀に突っ込むんじゃないかと思ってる。


 だから車が無事に家のガレージで止まると、そっと息をつきたくなる。

 

 野菜や肉、冷凍食品がぎっしり詰まったビニール袋をふたつ持って、台所まで運ぶ。もうふたつは母さんが持ってきてのるかと思って振り返ると、玄関のスリッパ置き場の前に、ビニール袋が置きっぱなしになってるのが見えた。母さんの部屋のほうから、ドアが閉まる音がする。

 

 俺は買い物袋から食べ物を取り出すと、片っ端から冷蔵庫や戸棚に放り込んでいった。冷凍食品でいっぱいになった冷凍庫を乱暴に閉める。卵のパックを冷蔵庫の奥に突っ込んだとき、ひとつかふたつ、卵が割れたような感触がした。

 


 何回作っても、俺はあまり料理が上達しないらしい。キャベツと豚肉の炒め物も、あまり味がしなかった。

 付けっぱなしのテレビの音、食器の触れ合う音、俺と母さん、ばあちゃんの咀嚼音だけが台所に響く。ちょうどニュースの時間で、熊がどこかの町に降りてきている、という騒ぎが報じられてた。


「熊ってさ」しゃべりたくはないけれど、黙ってるとどんどん自分の料理がまずくなる気がした。

「食べ物がほしくて、降りてきてるってこと?」

 ニュースの内容を言い換えただけだ。ばあちゃんが無言でうなずいた。

「ここらへんの山にも熊はいるん?」

 ばあちゃんは少し眉をひそめたけれど、「滅多に降りてこんけど、いる」とだけ答えた。

「じゃあ」言いかけてから、胸の奥で声がした。

 これは言ってはいけない。

 でも口が勝手に動いた。

「父さんも熊に遭ったことがあるんかな」

 母さんが箸を置いた。というより、テーブルに叩きつけた。

 じっと俺を見る。目が充血してる。

「ごちそうさん」とだけ言って、ばあちゃんが席を立つ。まだ茶碗のご飯も、小皿の炒め物も残ってるのに。

 

 母さんは口を歪ませて、黙ったままでいる。


「ここらへんの熊が肉を食べるんだとしたら」

 冷たい口ぶりを意識して言う。

「父さんは熊に食べられたのかもしれないね」


 母さんが目を見開いて大きく息を吸った。俺は身体を固くしながら、どこか期待もしてた。きっと怒鳴る。そしたら、俺も言い返す。ケンカするんだ。三ヶ月ぶりに。


 小さなため息が聞こえてきた。


 母さんの身体がみるみるしぼんだようになった。何度かまばたきをすると、ふらりと立ち上がる。俺の横を通って、台所を出て行く。小さな嗚咽おえつが聞こえてきた。


 テレビは天気予報に移っている。明るい声が、熱中症に注意を、と呼びかけてる。

 しばらくそのまま座ってた、と思う。でも気が付くと立ち上がって、玄関に真っ直ぐ向かってた。鍵も持ってないけど、外に飛び出す。


 道を走っていくうちに、街灯も家も少なくなってくる。一階建ての家の前を通り過ぎると、もう民家はない。軽トラックが駐車してあるトタン屋根のガレージ、竹藪、それもこの時間になるとほとんど見えない。

 あたりが真っ暗闇になると、さすがに走れなくなって、俺は速度を落とした。腕一本分の先も見えないはずなのに、神様がいるところがなんとなく分かった。


 ゆっくり歩きながら、手を伸ばしてあたりを探る。ざらりとした石の感覚が指先に触れた。お地蔵様だ。手探りを続けると、柔らかい髪に触った。

 神様にぶつからないように、少しずつ位置を変えて、神様の前にしゃがみ込む。暗闇に目が慣れてくると、神様の輪郭がぼんやり見えてきた。


「神様」

 そう呼びかけたものの、何を言っていいのか分からなかった。神様、と繰り返して、ようやく言葉が浮かんでくる。

「俺がどんな顔してるか、神様には見える?」


 神様はしばらく答えなかった。やっぱり見えないのか、と思ったとき、頬に冷たいものが触れた。指だ、と分かったときには、額や口をあちこち触られていた。蒸し暑い空気の中で、神様になで回されたところだけがひんやりとする。


 手が離れると、静かな声が聞こえてきた。


「ぐちゃぐちゃ」


 体育座りをして、額を膝につける。ふふ、と裏返った笑い声がした。自分の喉から出ているということに、数秒経って気が付いた。


「そう。たぶん、当たってる」

 また笑い声が漏れた。違う何かかも知れなかった。

 神様が触れた頬や口には、まだ冷たさが残っていた。

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