3
「こ、こん、にち、は」
神様がぎこちなく口を動かす。俺は思わず、神様の両肩を掴んでいた。
「もう一回。できるか? 『こんにちは』」って
「こん、にち、は」
やった、と思わず声に出していた。神様は赤い目で俺を見つめて、
「やっ、た」
と、平坦な声で繰り返した。
一通りの発音ができるようになるまで二日。これが早いのか遅いのか分からない。俺が「幹人」であることも覚えてくれた、と思う。神様の名前なんて知らないし、あるかどうかも分からないから、俺は神様を指さして「神様」と何度も繰り返した。神様は自分の胸に指を当てて、
「かみさ、ま」
と言った。意味なんて分かってないかもしれない。ただ、俺がこの子を「神様」だと呼んでると知ってもらえれば、それでいい。
俺が神様に話しかけてから二週間ほど経った、七月の終わりごろ。何を言っても繰り返すのが精一杯だった神様が、急に言葉を理解しはじめた。空気は蒸し暑いけれど、ちょうど樫の木陰が覆い被さって、いくらかしのぎやすかった。風が吹くたびに、木漏れ日が舗装もされていない土の上で、
俺はときどき「授業」に飽きて、なんでもない話を独り言のようにすることがあった。二本買ってきたアイスバーのうち一本を渡して、自分の分を一口食べてみると、俺をじっと見ていた神様は同じようにした。神様はこんなものも食べるのかと思ったけど、特に吐き出す様子もない。
「これさ、俺が小さいころに、母さんによくねだったアイス。今はもう、ほとんど食べないけど」
そう言ってまた一口食べる。合成っぽいソーダの味がした。
「嫌いになったわけじゃないんだ。ただ、昔は母さんが『お腹冷やすでしょ』って怒ったから、余計にほしくなってただけ」
神様がこの話を分かってるとは思ってなかった。ただ聞いてほしかった。
けれども神様はアイスをかじると、しばらくうつむいて、ふいに俺のほうを向いた。
「いま、は」
アイスを取り落としそうになる。俺の話の意味が分かってるのか、それとも俺が言った「今は」を繰り返しただけなのか。
面食らってるうちに、神様がまたきいてきた。
「いまは。かあさん、アイス、おこる。いまは」
樫の葉が揺れる。廃屋の、ガラスの割れた窓枠ががた、と鳴る。
神様は、俺の言うことが分かってる。
何と返せばいいのか分からなくて、黙っているうちに、アイスが溶けて俺の指先を伝った。
「……今は、何も言わない。もっと高いアイスをカゴに放り込んでも、何も言わないんじゃないかな。母さんはさ……」
形を失いつつあるアイスを、俺は袋に戻した。
「……怒れなくなったんだ」
神様は俺と同じようにアイスを袋に突っ込んだ。そういうものだと思ったんだろう。
「みきと、は」
ゆっくりと、神様がこっちを覗き込む。
「みきと、は、おこれる?」
俺はとっさに立ち上がった。神様から顔が見えないように。
「怒ってるよ」自分の声が低くなってるのが分かった。
「いろんなものに怒ってる」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます