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 一回目の「授業」は、そんなにうまくいかなかった。いくら「こんにちは」を繰り返しても、「おんいいが」が精一杯だった。

 真似してくれただけでいいのかもしれないと思いながら、家に帰る。玄関を開けたとたん、むっと空気がこもっているのに気が付いた。廊下の隅にホコリがたまってる。そろそろ掃除したほうがよさそうだ。


 とりあえず、家の窓を片っ端から開けいった。居間、台所、最近は滅多に使われてない客間。

 父さんと母さんの部屋に入ると、母さんが布団にくるまっていた。

「窓開けていい?」

 いちおうきいてみると、母さんは半開きの目をこっちに向けて、ほんの少しうなずいた。窓を開けたけれど、空気が新鮮になった気がしない。

「あのね」

 母さんが小さな声で言う。

「お母さん、今日、起き上がれなくて。ご飯、自分で作れる?」

 つまり、今日も作ってくれということだ。冷蔵庫の中身を思い出してみる。

「作れるけど。そろそろ買い出し行かないといけないから……明日車出せそう?」

 数秒の間があって、

「分からない」

 そう言って、母さんは弱々しい目でじっと俺を見てきた。

幹人みきと。お母さんのこと、だめなお母さんだと思ってる?」

 答えられずにいると、母さんは布団に顔を伏せた。

「……だめなお母さんだと……」消え入りそうな声だった。「……思ってるでしょ」

 布団の中からすすり泣きが聞こえてきて、俺は何も言えなくなった。この部屋にはいたくない。窓を閉めて、また廊下に出た。


 仏間の襖を恐る恐る開ける。仏壇の前では、ばあちゃんがいつものように念仏を唱えていた。邪魔をしてはいけない。声をかけずに、足音を殺してばあちゃんの後ろを通る。障子を開けると、向かいの家の屋根越しに、あの山が見えた。そんなに高い山じゃないのに、歩いて行ける距離にあるから、どこか空が狭く思える。

「襖を開けるな!」

 斜め後ろから怒鳴り声が飛んできて、思わずびくりとした。ばあちゃんが数珠を持ったまま、こっちをにらんでる。

「でも、換気くらい……」

「開けるな」ばあちゃんは繰り返した。「山が見える」

 それきり俺がいないかのように、また仏壇の前で手を合わせた。

 俺は言われた通りに障子を閉めて、部屋を出るしかなかった。扉を閉じるまで、ばあちゃんの低い念仏の声がずっと聞こえてきた。


 廊下や居間、台所のホコリを掃除機で吸って、コンロも軽く拭いて、開けた窓をぜんぶ閉めると、どっと疲れが出た。自分の部屋に入って、ベッドに寝転がる。

 家の前を、誰かが笑い合いながら歩いていく。たぶん相田と渡邊だろう。同じ部活だったはずだし、いつも下校のときはこの道を通るから。

 もうそんな時間なのか、と今さらながらに思う。最近曜日と時間の感覚がおかしくなってるのが分かる。


 明日はあの神様に、「こんにちは」を覚えてもらえるだろうか。そう考えて、我ながらおかしくなってしまった。

 俺みたいな人間が、神様に「おはよう」や「こんにちは」や「こんばんは」を教えるだなんて。

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