2
一回目の「授業」は、そんなにうまくいかなかった。いくら「こんにちは」を繰り返しても、「おんいいが」が精一杯だった。
真似してくれただけでいいのかもしれないと思いながら、家に帰る。玄関を開けたとたん、むっと空気がこもっているのに気が付いた。廊下の隅にホコリがたまってる。そろそろ掃除したほうがよさそうだ。
とりあえず、家の窓を片っ端から開けいった。居間、台所、最近は滅多に使われてない客間。
父さんと母さんの部屋に入ると、母さんが布団にくるまっていた。
「窓開けていい?」
いちおうきいてみると、母さんは半開きの目をこっちに向けて、ほんの少しうなずいた。窓を開けたけれど、空気が新鮮になった気がしない。
「あのね」
母さんが小さな声で言う。
「お母さん、今日、起き上がれなくて。ご飯、自分で作れる?」
つまり、今日も作ってくれということだ。冷蔵庫の中身を思い出してみる。
「作れるけど。そろそろ買い出し行かないといけないから……明日車出せそう?」
数秒の間があって、
「分からない」
そう言って、母さんは弱々しい目でじっと俺を見てきた。
「
答えられずにいると、母さんは布団に顔を伏せた。
「……だめなお母さんだと……」消え入りそうな声だった。「……思ってるでしょ」
布団の中からすすり泣きが聞こえてきて、俺は何も言えなくなった。この部屋にはいたくない。窓を閉めて、また廊下に出た。
仏間の襖を恐る恐る開ける。仏壇の前では、ばあちゃんがいつものように念仏を唱えていた。邪魔をしてはいけない。声をかけずに、足音を殺してばあちゃんの後ろを通る。障子を開けると、向かいの家の屋根越しに、あの山が見えた。そんなに高い山じゃないのに、歩いて行ける距離にあるから、どこか空が狭く思える。
「襖を開けるな!」
斜め後ろから怒鳴り声が飛んできて、思わずびくりとした。ばあちゃんが数珠を持ったまま、こっちをにらんでる。
「でも、換気くらい……」
「開けるな」ばあちゃんは繰り返した。「山が見える」
それきり俺がいないかのように、また仏壇の前で手を合わせた。
俺は言われた通りに障子を閉めて、部屋を出るしかなかった。扉を閉じるまで、ばあちゃんの低い念仏の声がずっと聞こえてきた。
廊下や居間、台所のホコリを掃除機で吸って、コンロも軽く拭いて、開けた窓をぜんぶ閉めると、どっと疲れが出た。自分の部屋に入って、ベッドに寝転がる。
家の前を、誰かが笑い合いながら歩いていく。たぶん相田と渡邊だろう。同じ部活だったはずだし、いつも下校のときはこの道を通るから。
もうそんな時間なのか、と今さらながらに思う。最近曜日と時間の感覚がおかしくなってるのが分かる。
明日はあの神様に、「こんにちは」を覚えてもらえるだろうか。そう考えて、我ながらおかしくなってしまった。
俺みたいな人間が、神様に「おはよう」や「こんにちは」や「こんばんは」を教えるだなんて。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます