Secret of Paradise - 2

 エマニュエルはしばらく、呆然としたままその場に佇んでいた。

 あのあとすぐにマスキールは部屋を出ていき、今はエマニュエルがひとり、ぽつねんとベッドに残されている。

 マスキールの言葉が、ぐるぐると頭の中を何度も行き来した。

 それは何度も何度もしつこく反芻されるのに、痛いくらいに響くのに、現実として身体に沁み込んでこない。


(戦争……幾万もの命……、奇跡)


 幾つか、鍵になる言葉だけが断片的に思い出される。


(王が望んでいるのは……)


 ──なにか、彼の個人的な願いなのだろうと思っていた。

 思い込んでいた、といってもいいのかも知れない。何故かそんな先入観がどこかにあったのだ。

 それは最初に受けた乱暴な扱いのせいかもしれないし、あの、冷たい灰色の瞳が、そんな思いを抱かせたのかもしれない。


 今に始まったことではないが──またも、エマニュエルの目の前に突き付けられた事実は、余りにも衝撃的だった。


 驚きも、自己の許容範囲を大きく超えていると、どこか遠くに感じるようだ。

 エマニュエルはまるで、それが他人事であるかのような気分で、マスキールの言葉を理解した。


 ──戦争が始まろうとしている。

 強大な隣国ジャフが、このダイスを飲み込もうとしている。

 そしてこのダイスの王である男──ジェレスマイアは、国を救う為に自分を必要としている。

 王の願いを、その命をもって叶えると。そう予言された、自分を……。


(『幾万もの命を救うことの出来る、奇跡──』)


 それが、あの男の望んでいることだ、と。

 手元に散らばった本が、急に空しいものに感じられた。自分は何をしていたのだろう……?

 そんな数刻前のことさえ、はっきり思い出せなかった。


 人目から切り離されて育ったエマニュエルに、戦争のなんたるかを実感するのは、容易ではない。

 すとんとは腑に落ちてこないのだ。けれど、この言葉は、そんなエマニュエルさえも恐怖に包んでしまう力がある。


 ──命の尊さを知らないわけではないからだ。

 そして、その儚さをも……。


(奇跡……)


 心臓が高鳴り、息苦しくなる。急に、強い吐き気が湧き上がる。

「……ん……っ」

 ベッドから降りようとした時にはもう遅く、湿った咳と共に胃液が込み上がってきた。

 頭が、自分の物ではないように重い。


(そんなの……)


 どうして起こせるというのだろう?

 国を救う奇跡──?

 エマニュエルはただの小娘だ。生まれた時からそうで、それは今も変わらない。

 王家に生まれた者でもない。豪商の娘でも。格段に美しいわけでも、なにかに素晴らしく秀でているわけでも。


 ただ、自分が王の為に命を捧げるという──それだけの事実で、一国の命運を右左できる、と……?


 それが預言の意味なのだろうか?

 だとしたら、それはなぜ……?


 浮かぶのは、すでに、疑問ではなく懇願だった。

 答えを、教えて欲しい。この迷路から出して欲しい。この背に突然乗せられた重荷を、振り解いて欲しい、と。



 不思議と涙は出てこなかった。

 ただ一夜が重苦しいまま過ぎてゆき、朝日が昇り出す。

 そんな時間になってやっと、エマニュエルに気だるい眠気が襲ってきた。





 ──王が、エマニュエルの元に最後に顔を出してから、既に十五日を数えようとしている。

 エマニュエルの侍女ギレンはまだ若く、瑞々しくピンと張った桃色の肌を持つ──しかし今日ばかりは、そんなギレンも眉間に深い皺を寄せて、思い詰めたように両手を胸の前で組んでいた。


(余り過ぎたことは出来ないけれど……)

 しかし放って置くことも、また、出来ない……ここ数日のエマニュエルの様子が、明らかにおかしいのだ。


 元々不思議な所のある少女ではあったが、世間知らずな所はあっても、いつもきちんとしていた。

 ギレンが話しかければ戸惑いながらも言葉を返し、数日前までは何気ない談笑を交わすまでになっていたのだ。


 それが、一昨日の朝だっただろうか──。


 いつも通りギレンが部屋に入ると、エマニュエルは伏せったままだった。

 声を掛けると放っておいて欲しいと言うので、まだ寝足りなかったのだろうと、ギレンは一旦部屋を下がった。しばらくすればいつも通りに起きてくるだろうという、楽観に任せて 。


 ──けれど数刻を過ぎた頃ギレンがエマニュエルの床へ行っても、彼女はそのままだった。


 それ以来ほとんど食事も摂っていなければ、起きてもこない。

 風邪か熱を心配したが、その気配はないようだ。

 ただ床に伏せ続け、そこから離れるのを拒む。小さな赤ん坊のようだ。


(マスキール様もマスキール様だわ……)


 ギレンの直接の上司に当たるのは、マスキールだ。

 もちろんギレンはすぐに、ことの次第を彼に報告した。彼ならすぐにエマニュエル本人と話をするなり、医師を呼ぶなり、王に話を通すなりしてくれると思ったのだ。

 けれど意外にも、マスキールは『心配しなくていい』と言い張り、当面は好きなようにさせておけと言うのだ。

 ギレンには理解し切れなかった。


(王に……いえ、それは……)


 王に話を通すべきだろうか……? それともマスキールがすでに伝えているのだろうか。

 ──エマニュエルは、王が突然外から王宮に連れて来た娘だ。

 おまけに、本来なら王妃しか滞在を許されない王の間に──しかも、王本人の部屋のすぐ傍に──置いて、それなりの身分の侍女をつけている。


 詳しい事情を立ち入って聞くことは許されない。ギレンも詳しい事情は知らなかった。

 しかしエマニュエルは、多少素朴すぎる所はあっても、若く美しい少女だ。当然、王の目に留まり、王妃とまではいかずとも、側室として望まれているのだろうと考えていた。


 それが……王はもう十五日も彼女の元を訪れることはなく。

 後見人である筈のマスキールは今のエマニュエルの状況を、事実上、見てみぬ振りをしている。


 とても不思議な立場だった。

 不思議で、不安定だ。


 血は繋がらないとはいえ、ギレンも王家と多少の縁を持つ家の娘。それなりに世間を見てきたつもりだ。

 王族や貴族が側室や愛人を囲うことがあるのは、一つの事実として、ギレンも受け入れている。

 けれどそれでも、エマニュエルの立場は、彼女の理解の枠を外れはじめていた──。


 彼らが彼女になにを望むのか。


 なんの為に彼女がここに居るのか──

 分からないことばかりだった。が、確かなのは、このままエマニュエルを放っておくのは良くない……ということだ。


 ギレンは机の上に置かれたままのトレーと、そこに乗っている食器に視線を落として、また難しい顔をした。

 この昼もまた、エマニュエルは食事に口を付けなかった。

 怪我も治ったばかりだ。元々華奢な体つきでもある。


 一つだけ深い溜息を吐くと、ギレンは、決心したように顔を上げた。


(この夜まで──)


 今夜もまたエマニュエルが食事を拒み、マスキールもそれを関知しないのなら……。

 『そう』するべきだと、決心して。





 ダイスは長い歴史を持つ由緒正しい国である──。

 その歴史の中で、強大な力を持つ時代がなかったわけではないが……基本的に、常に、小さくはあるが裕福で進歩した土地として栄えた。

 王家をその主柱とし、時と共に整えられた法律を有し、貴族と平民の隔たりは他国に比して低い。


 この地に生を受けた者なら誰もが、その事実に敬意と感謝を示す。

 ──それがダイスという国だ。


 平民までもが意欲次第で勉学を志し、その成果次第で国政に関わる大臣の地位まで上ることができる。そんな数少ない国の一つでもあった。


 誇り高い民──そんな言葉もよく聞かれる。

 服従を良しとしない、自立心の強い国だと。それはただの噂でも、風潮でもない。

 紛れも無い事実だ。


 しかし今は、このまま行けば、それが命取りになる可能性も……



 ジェレスマイアは、閉じていた両瞼を静かに開けた。

 視界に入ってくる光は弱く、穏やかだ。すでに日が暮れかけ、今日も一日が終わろうとしている。

 当然だ。しかし今は、それが恨めしくさえ思えた。

 一日が一日ではとても足りない──

 それほど、最近のジェレスマイアは国政に時間と精力を注いでいた。


 やっとこの日、この時間になって、短い時間が空いた。自室に戻り短い休みを取るつもりだったが、なぜか落ち着かず、睡眠をとるには至らないまま。


 ──こうして自室に戻ったのさえ、すでに久しい気がする。

 執務室に隣接する部屋がジェレスマイアの私用になっており、そこで夜中に短い睡眠をとることが多かった。


 それはある意味、自ら進んでそうしていたのだ。

 他の者に任せられるはずの執務さえ、今は自らの背負っていた。

 できる限りことを内密に進めたい。そして──


(──もし、救いがないのならば)


 ゆっくりと──ジェレスマイアは無言で、部屋の端に視線を移した。

 この部屋は豪華ではあるが、多くの者が予想する程の広さはない。寝具と執務机を除けば、目立った家具もなかった。

 回廊へと繋がる大きな扉の他に、もう一つ。

 寝台からそう遠くない壁に、もう一つの扉がある。隣の部屋へ続くものだ。


 一つ、間に小さな控えの間を挟み、そこからエマニュエルの部屋に続いている扉……だ。


 もし救いが、奇跡が、有り得ないのならば。

 ──そしてその可能性は、あまりにも高いのだが……。


 その時は犠牲にするつもりである娘を、滞在させている部屋、だ。


 普段、ジェレスマイアは、自らの行動に疑問を感じることはなかった。

 王家に生まれた者。

 王に成るべく育ち、教育を受け、そうして生きてきた者。


 外には別の世界があり、自分が背負っている責任や執務、期待とはかけ離れた場所で生きている者もいることを、知識として知っていても、感覚として知ることはない。


 己が王であり、国を背負う者であるという事実。

 あまりにも当然として受け入れてきた。受け入れるだけではない。自ら進んでさえもいただろう。

 それほどに自然だったのだ。


 それを……


(──気の迷いか)


 あれ以来、『なにか』が邪魔するのだ。

 当然だったはずの己の道を、なにかが、邪魔をする。

 道を塞ぐのではない。行く手を塞ごうとするのではなく──疑問を投げかけてくるのだ。

 『なにか』が。


 そしてその『なにか』を思うとき、思い出されるとき、必ず、あの青い瞳が脳裏を横切った。


 ──私は、なぜ、ここに居るのだろう。

 ここに、王としておわし、玉座に就き国民を導く。それがなぜ、我でなければならないのか……と。


 他の何者でもなく、なぜ、運命は自分を選んだのだろうかと。

 そして多分に、あの青い瞳が思い出されるのは、同じ思いをあの娘に投影させられるからだ。


 なぜ、運命はあの娘を選んだのだろうか──と。


 巡り合わされたのだ。尊く強大な何かが、我々を選んだ。

 そんな思いを抱かせるほどに、事態は切迫し始めてきた。このままいけば、思ったよりも早くことが起きてしまうかもしれない。


(疲れか──情けないものだ)


 視線を扉から離し、ジェレスマイアは窓から覗く空を見上げた。

 まどろみ。夜が始まろうとしている……そんな空模様。

 このままいけば、近いうちに始まってしまうであろう戦争は、灼熱の季節を渡らなければならなくなる。海洋を有さないダイスには、それもまた不利に働く。

 なにもかもが良くない方向に進んでいる気がした。


 時々、心と身体が切り離されたような感覚に襲われる時がある。

 今のジェレスマイアはまさにそれだった。


 腕を組みながら空を眺め続けた。

 ──つい先刻まで視線を預けていた扉が叩かれたのは、そんな時だった。




「ご無礼は承知しております、ギレンと申します。エマニュエル様付きの侍女でございます」

 ──誰だ、とジェレスマイアが声を掛けると、そんな、柔らかくも緊張した声が返ってくる。

 確かにその声には聞き覚えがあった。

 エマニュエルのためにと、マスキールが親戚筋から探してきた若い娘だ。

 入れと短く告げると、ギレンは仰々しい動作で、ゆっくりと扉を開いた。


「重ねまして、ご無礼を承知で失礼致します。エマニュエル様のことで、ご相談が出来たらと……」


 ギレンは顔を上げず、頭を垂れた姿勢のままそう言った。

 ジェレスマイアが僅かに眉を上げる。


「あれについてはマスキールに任せてあるはずだ。どうしたのか」

「それが……ここ数日、お食事を拒まれ続け……床から降りることもなく……ご病気ではないかと心配になって」


 ギレンはそこまで言うと、恐る恐るといった表情で、静かに顔を上げた。


「差し出がましいとは存じていますが、王がお顔を御見せになれば……エマニュエル様のお加減も優れるのではないかと」


 ──あれから考えて、ギレンは思ったのだ。

 マスキールは多分に、王にエマニュエルの容態を伝えていないのだろう、と。


 多忙を極めている王を、色恋沙汰などで紛らわさないため、だろうか……。


 ギレンがここに就くことになったのは、マスキールの好意で、偶然ともいえる処遇だった。

 直接ではなくとも王の近くに仕えるなど、思ってもいなかったことだ。

 そんな訳で……ギレンは多きな緊張と共に顔を上げた。


 しかし次の瞬間、そんな緊張など吹き飛んでしまうような衝撃が、ギレンの背筋を走った。


 『烈氷の王』──そんな呼び名を、どこかで聞いたことがあった。

 ジェレスマイアに対し、側近や国民さえもが、敬意と畏怖を込めてそう呼ぶことがあるのだ。

 今まで、それはジェレスマイアの瞳の色や、雰囲気を表現しているのだろうと思っていた。しかし違う──


「──しばらく下がっていろ」


 低い声……ギレンは息を呑んだ。

 ジェレスマイアはそんなギレンを無視するように、真っ直ぐ彼女の傍を交差して通り抜けると、一つの扉に吸い込まれるように入っていった。


 入っていったのはもちろん、エマニュエルのいる部屋だ。



 烈炎──燃え滾る業火。

 すべてを飲み込み燃え尽くし、すべてを凍てつかせる。

 あまりにも熱い、氷塊。相反するはずの二つの温度が、またあまりにも絶妙な均衡の上に、立ち並ぶ。


 それがジェレスマイアなのかもしれない……。


 ギレンは立ち竦んだ。

 なにか──取り返しの付かないことをしてしまった予感がして、後ろを振り向くことが出来なかった。

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