Secret of Paradise - 3

 扉はなんの予告もなく、素早く開け放たれる──

 ノブを操る音が短く響いただけで、扉自身は音を立てない。しかしその動きに風が起こった──

 そして空気が変わる。


 その時のエマニュエルは部屋の隅、大きな出窓のそばの床に、まるで一つの置物のように枕を抱えてうずくまっていたところだった。

 突然現れたジェレスマイアは、彼女に伏せていた顔を上げるだけの時間も与えず、大股で彼女の前へ進んだ。


「え……」

 エマニュエルが顔を上げたときにはすでに、ジェレスマイアは一寸と間のない先まで来ていた。

 突然の来訪──エマニュエルには、身構える猶予さえなく……。


「きゃっ!」

 と、短い叫びを上げたと同時に、エマニュエルの腕の中にあった枕がスッと消えて、それが遠くに投げ飛ばされていた。

 詰められていた白い羽が幾つかふたりの上に舞って、目の前に散る。


「──立て」

「あ……っ」

 ジェレスマイアは低く声を上げた。

 それに従う義理があっただろうか。しかし、その声は王者のものだった──王という立場の者の言葉だから従わなくてはいけないという意味ではない。

 支配者の声。否応なしにすべての者を従わせる、声の力。


 エマニュエルは立ち上がろうとした──が、既に数日、ろくに食事を咽に通していない身体だ。

 ふらりと頭が揺れ、簡単に重心を失って、座り込んでいた床にまた落ちそうになる。

 しかしジェレスマイアはそんなエマニュエルの身体を乱暴に振り起こした。


「立てと言った筈だ」

「ま……って」


 ジェレスマイアは細く白いエマニュエルの二の腕を握ると、乱暴に彼女を立たせた。

 そして自身の視線とエマニュエルのそれを合わせようと、もう片方の手で彼女の顎を持った。

 しかし、ジェレスマイアの方が頭一つ分長身だ。

 当然エマニュエルは上を向かされる形になり、それがひどく身体に負担になる。支えられているというのに、それに従う力さえなかった。


 エマニュエルは必死に目の前の人物の目を見ようとした──けれど意識がぼうっとして、焦点が上手く合わない。


 うつろに己を見上げる瞳に、ジェレスマイアは苛立った表情を見せた。

 支えていなければ立つことも出来ないようなエマニュエルの身体に、さらに焦燥をつのらしたように、腕に力を込める。そして入ってきた扉に向かって声を上げた。


「ギレンと言ったな、来い! 桶と水を持て!」

「え……は、はいっ、今すぐ」


 扉の外に立ち竦んでいたギレンは、ジェレスマイアに呼ばれハッと正気を取り戻した。

 ジェレスマイアが扉を開けっ放しにしていたせいで、ギレンもその一部始終を目にしてしまっていたのだ。

 慌ててスカートの裾を持つと、小走りに部屋を出て行く。


 そんな一連の出来事を、エマニュエルは、まるでどこか次元の違う世界の出来事のように感じていた。


 正しく理解できないし──しようとも、思えない。

 世界と自分が、切り離されてしまったような感覚だ──


 ジェレスマイアはエマニュエルの腕を掴んでいた手を、彼女の背と腰に滑らせた。

 力無げに浮いていた身体が、背を支えるジェレスマイアの腕のお陰で、幾分か立て直る。

 その瞬間うつろだったエマニュエルの青い瞳に、ほんの少しの生気が横切った。ジェレスマイアはそれを見逃さなかった。


「なにが不満だ──私に対する当て付けのつもりか」

 そんなジェレスマイアの声は、背を支える腕からさえも、振動を通してエマニュエルの全身に響く。


「言ったはずだ。あれは最高預言者の言葉──お前が生まれた瞬間から決まっていた運命。私を恨んだところで、なにも変わらぬ」


 ジェレスマイアの低い声に、エマニュエルはなぜか悲しい気持ちになった。

 なぜだろう……それを考えるだけの力も、理性も、今のエマニュエルにはなかったけれど……。


「泣けば助けが来ると思うか。こうしていれば、私の同情を誘うとでも──」


 ──彼はなにを言っているのだろう。なにを言われているのだろう。

 エマニュエルはそう思った。

 背を支えるジェレスマイアの手に力が入り、細い身体に長い指が食い込む。痛いという生理的な反応は感じるのに、それが現実かどうか定かではない。


 エマニュエルの瞳が潤みはじめたその時、ギレンが、言われた通り銅製の桶にはられた水を抱え部屋に入ってきた。

「ジェレスマイア様……こちらに」

 慌てたせいかギレンの息は上がっており、顔は、色を抜いたように蒼白だ。


 ジェレスマイアはそんなギレンにただ一言、「下がれ」と、エマニュエルの瞳から視線を外さないまま短く命令した。


 ギレンはただ急いで水の張った桶を床に下ろし、一礼すると逃げるようにその場を離れる。


 他にどうしようもなかったのだ。

 ジェレスマイアが王であるという以前に、口を挟める空気ではなかった。止めるなど論外──





 勢いよく頭から水を浴びせられ、エマニュエルはやっと正気を取り戻した。

「な、にをするんですか……!」

 と、声を上げたと同時にまた、冷たい水が頭から降ってくる。エマニュエルは咳き込んで、ジェレスマイアの腕から逃げようともがいた。

 それに反してジェレスマイアの腕はさらにしっかりとエマニュエルの腰を包む。

 エマニュエルは自由になっている手で、ジェレスマイアの胸を数度叩いた。しかしジェレスマイアは眉一つ動かさない。


「放し……てっ」

「放してどうする。数日食事を摂っていないと言っていたな……逃げることも出来ないはずだ」

「きゃっ」


 ジェレスマイアは確かにエマニュエルを放した。

 突然支えを失ったエマニュエルがふらりと倒れそうになると、また片腕を掴みエマニュエルを立たせる。

 そんな彼女を見下ろすジェレスマイアの灰色の瞳には、今まで以上の冷酷さが見えて──

 エマニュエルの萎えていた心に、カッと火をつけた。


「放して! もう嫌なの……分からな、の!」

「ならば床にうずくまっていれば気が済むか、なんの違いがある」


 冷静な口調のジェレスマイアに対し、エマニュエルは疲れと興奮でたどたどしい物言いだ。

 エマニュエルは目の前の男を睨みつける。

 同時に、一度は止まったと思えた涙がすうっと頬を伝った。


「お、王様のくせに……っ。どうして、私なんかに頼るの……!」


 ──その時やっと、ジェレスマイアの瞳に驚きのようなものが浮かんだ。


 エマニュエルはまた自分を掴む腕から逃れようと身をよじったが、ジェレスマイアは無視した。

 彼女が何を言いたいのかを、咄嗟に胸の奥で考える。

 当然と言えば当然の反応ではある。自分はいつか彼女を殺すと宣言している。そして、その理由も。


 疑問は、なぜ今になってなのか、だった。


 エマニュエルが部屋を逃げ出そうとしたり、預言者についての本を読み出したりしているという話は聞いていた。

 それが今になって突然の食事拒否と、この有様。


 なにかがある――と、ジェレスマイアはすぐに感じ取った。


「なにが言いたい。このまま飢え死にする気なら、私に殺されるのと大差あるまい」

「逃げようと……思ったの、に! あんなこと言われても、私、分からな……っ」

「──なにを」


 ジェレスマイアがさらに問い詰めると、エマニュエルは搾り出すような声で叫んだ。


「私を殺して、それで皆が助かるなら……もうっ、もういい! 早く殺して! どうしてこんな所に私を置いておくの!」




(それで皆が助かるなら──)

 それはエマニュエルが、マスキールからことの真実を聞かされてから三日三晩考え続けたことだ。

 ──逃げようと思っていた。

 なにか、殺されずにすむ方法があるかもしれないとも思った。


 しかしそれは、ジェレスマイアがエマニュエルを手に掛けようとしている理由が、彼の個人的な願いの為だと思い込んでいたからだ。


 自分の死は幾万もの命を救うかもしれない……

 そんなことを知らされて、どうしてのうのうと逃げることが出来るだろう。


 父や母に会いたかった。だから逃げたかった。彼らと一緒に生きたかったから……。


 しかし、そのせいで彼らの命を危険に晒してしまうとしたら。

 そのせいでこの国が他国に侵略され、大勢を殺され、助かったところで奴隷同然の低い身分に彼らを落とされてしまうかもしれないとしたら。


(だとしたらなんのために――)


 ここで贅沢な暮らしをする理由がどこにあるのだろう。

 分からなくて、受け入れられない。いっそのこと、早く殺してくれればいい。それで戦いが起こらずに済むのなら、今、ジェレスマイアは一体なにを待っているのか、と。


「それで……全部上手く行くんでしょう!? だったら早く……してっ!」


 エマニュエルが最後にそう声を上げると、ジェレスマイアは手を放した。

 今度は突き放すふうではなく、ゆっくりと、エマニュエルの身体が倒れないようにそっとだ。

 エマニュエルが自分の足で立ち、落ち着くのを見て、ジェレスマイアは声を落とす。


「誰に聞いた、マスキールか」

「そ、そうです……戦争を止めるためなんだって……沢山の命を救うために……って……それに」


 エマニュエルが喋り出したのを、ジェレスマイアはしばらく黙って聞いていた。


「そのために、奇跡が……必要だって。だったら予言通り、わ、私が……貴方に命を捧げれば……」

「それで? 私がどうしたいと」

「それで戦争は避けられるんでしょう……? そうしたら、誰も殺されずに……」


 エマニュエルはジェレスマイアの前に立ちながら、白い寝着の裾を両手でキュッと掴み、途切れ途切れに話し続ける。

 周囲は静かだ──しかし、扉はギレンが出て行ったまま開け放たれていた。

 ジェレスマイアは踵を返すと、開いていた扉を静かに閉めた。そしてエマニュエルを振り返る。


「座れ、少し話をする必要があるようだ」





「あの予言は時期を限定していない」

 出されたスープに恐る恐る手をつけ始めたエマニュエルに、ジェレスマイアはそう切り出した。

 エマニュエルはベッドの背に身体を預けた形で座っている。ジェレスマイアは、立ったままだった。


「お前はその命をもって私の願いを叶えるだろうと……しかし、それはあくまで最後の手段だ。私はそれほど深く預言者を信じていない。戦を止められる方法が別にあるのなら、預言などどうでもよい」

「それは……」


 エマニュエルが食事の手を休めると、ジェレスマイアがそれを睨んだ。

 びくっとしてエマニュエルは再び手を動かす。

 食べろ、と言われたところだ。それを休止しようとすると、途端にジェレスマイアの厳しい視線が突き刺さる。


「私はまだ、無闇に人を殺めるほど堕ちてはいない」

「…………」

「しかし状況は厳しい──お前は、その為にここに居る」

「じゃあ」


 エマニュエルはごくりとスープを飲み干した。

 今まで不安定だった身体が、食事を咽に通したことによって素早く潤されていくのを感じる。

 すると不思議なことに、興奮して熱くなっていた思考も安定してくる。エマニュエルはうつむいて下を見た。


(じゃあ、なぜ……)

 素朴な疑問。そうとしか表現できないような単純な謎が、頭を擡げる。


「でも、マスキールさんは……」

「あれがなにを言ったのかは知らぬ。しかしあれもすべてを知っているわけではない」


 エマニュエルはジェレスマイアのピンと張った強い口調に、一々動揺していた。

 初めて逢った時からそうだ。ジェレスマイアの低い声は、周りを緊張させる力がある。震い上げさせるといっても過言ではないだろう。

 声だけではない……その、冷たい灰色の瞳も。


「…………」

 ずっ……と、小さな音を立てながらエマニュエルはスープを口に運び続けた。

 ジェレスマイアはエマニュエルの居るベッドから少し離れた端に立ったままだ。服装は、以前会った時よりも軽装な気がする。

 白く襟元や袖に控えめなレースが加えられたシャツ、そして飾り気は無いが息を呑むほど整った腺の黒いズボン。

 今まで見てきた上着やマントも、今日は纏っていない。


「──私もできるだけのことはすべてしているつもりだ。外交、取引、駆け引きに経済……」


 びしょ濡れになったエマニュエルの髪は、拭きはしたがまだどこか湿っぽい。

 言いたいことがまだ頭の中で纏まらず、エマニュエルはただジェレスマイアの言葉を聞き続けた。


「楽ではない、相手も大した物だ。しかし我がダイスにもまだ勝機はある」


 考えようとすればするほど、答えから遠ざかる気がして、ある時点でエマニュエルは思考に蓋をかぶせた。

 今はただ、ジェレスマイアの言葉を聞いていた方がいい、と。


「戦いを回避出来る可能性は、無きにしもあらず──つまり、早まればお前は無駄死にすることになるだろう」

「……………」


(じゃあ……)


 エマニュエルは顔を上げた。

 ジェレスマイアの冷たい色の瞳は、怒っているようにも、苛立っているようにも取れる。


 確かに、ジェレスマイアが寝食さえ惜しみ執務に打ち込んでいるという話は、マスキールから多少聞いた気がする。それがこの、戦いを回避する為だというのだろうか……?

 だが、疑問が残るのも事実だ。

 執務の内容はエマニュエルには窺い知れない。しかし一筋縄ではいかないだろうことくらいは、彼女にも想像できた。

 想像を絶する労力のはずだ。ジェレスマイアだけでなく、それに従う者達にとっても。


 しかしジェレスマイアはそれをこなしている。

 エマニュエルという一種の──滑り止め、が居るにも関わらず。


『無闇に人を殺めるほど堕ちてはいない』

 ──そうだろうか?

 いや、それ以前に、それほどの努力が必要ならば、もはや無闇とはいえないだろう。さっさと彼の願いを叶えてしまえばいい事だ。


 そしてそれ以上に……

 このすべての疑問も、最後の最も大きな疑問には、辿り着かない。


 エマニュエルが出されていたスープを飲み終えると、部屋に静寂が訪れた。

 ジェレスマイアとエマニュエルの瞳が、短い間だけ交じり合う。ジェレスマイアの視線にはなにか、思い詰めたものがあるように思えて……エマニュエルの背筋がジンと疼いた。


「あの……」

「明日も来る。愚かなことは考えない方がいい」

「で……でも、あの……」


 エマニュエルはなにか言おうとしたが、ジェレスマイアはそれを聞こうともしないまま視線を外すと足早に扉へ向かった。

 そして慣れたように扉を開く──そしてジェレスマイアは部屋を出て行った。



 ──教えて欲しい。

 自分だけではとても、この答えを見つけられそうにないから……。

 私が取るべき行動、するべきこと、成すべき未来──


 そしてもう一つ。

 今ジェレスマイアが語った真実も、結局のところエマニュエルの疑問には答えていない。

 ──もし彼が言ったことがすべてならば、どうして。


 どうして私はここに居るの……?

 どうして貴方は、私を貴方の傍におく必要があるの──

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