Paradise LOST - 5
空気が変わった。
どんな風に、と問われると答えようがない。
けれど確かなざわめきを、この胸の中に感じる――。
*
「あなた、は……」
エマニュエルは頬に伝っている涙を拭うことも忘れて、ジェレスマイアを見つめた。
彼はさっきと同じ姿だ。服装は派手すぎず、しかし華やかで隙が無い。
上質の布には染み一つないが、おろしたてとは違うしなやかさがある。とにかくジェレスマイアは、そんな品のある格好をしていた。
漆黒の髪──は、無造作のようでいて整っている。
襟筋のもっとも長い部分が、肩に届くか届かないかといった程度の長さだ。
濡れるような質感は、たとえ手を触れなくても伝わった。わずかな癖っ毛が、毛先で遊んでいる。
そして、瞳──だ。
痛いくらいに冷たく研ぎ澄まされた、灰色。
夜の色とも朝の色ともとれる、不思議な色。空のように澄んでいるのか、海のように深いのか──。
一歩、一歩とジェレスマイアがベッドに近付くたびに、木張の床が音を立てる。
ミシリ……と響くその乾いた音が、エマニュエルの心の奥にまで届いてくる気がした。
圧倒的な存在感。
それは、ただ安穏と過ごしてきたばかりの人間が持てるものではないのは、若く世間を知らないエマニュエルにも分かった。
この男には、人を飲み込む力がある。
──そんなことを、本能が察した。
「こ……」
『来ないで』──エマニュエルはそう告げるつもりだった。
けれど同時に分かってしまう。エマニュエルがそんなことを言ったところで、この男は足を止めない。
逆に、来てと懇願しても、彼にその気がなければ来ないだろう。
数度の短い邂逅を重ねただけの、未知の男──。
だが、その冷めた瞳と今までの態度で、彼がお世辞にも優しい穏やかな人物でないのは、見て取れた。エマニュエルは近付いてくるジェレスマイアに、せめてもの抵抗の目を向ける。
が、もちろん……
そんな物は存在しないとでもいう風に、ジェレスマイアはすぐにベッドまで辿り着いた。
辿り着いて。そして、ふたりは視線を合わせた。
──しかし無言だ。
ジェレスマイアが口を開く気配はなかったし、エマニュエルとしても、自分を殺すと宣言した男と話すことなどなにもない。
泣き喚いてしまいたい気もしたが、それでどうなるとも思えなかった。
しかも怪我を負ったエマニュエルの身体は、まだ大声を出そうとするだけで軋む。
「…………」
「…………」
──数分。
本当はもっと短かったのかもしれない。が、とにかく、そう思える程の長い時間、ふたりはそのまま無言で見つめ合っていた。
ジェレスマイアの視線は、なにかを観察しようとする者のそれ──。
今すぐエマニュエルをどうこうしようという雰囲気はない。
けれど同時に、今、彼から目を離してはいけない……そんな気がエマニュエルにはした。
野犬に遭遇した時と同じだ。先に目を離したほうがやられてしまう、自然の掟。
「…………」
「…………」
しばらくするとエマニュエルの気力も削られてくる。
それをどうにかしようと、シーツをきつく握った。
目の前に置かれたスープが冷めていくのを感じたが、それに構っている余裕はない。
またしばらくそのまま時間が過ぎて──ジェレスマイアは突然、バサリと、肩から流れるように垂れていたマントを翻すと踵を返した。
そしてまた入ってきた時のように、一歩一歩確かな足取りでもと来た方向へ戻る。
そこには扉があった。
マスキールやギレンが使ったものとは違う。
『その』扉はこれまでジェレスマイアしか使っていない。
「ま、待って……っ!」
エマニュエルは声を上げた。
途端、膝の辺りにあったスープが跳ねてシーツに染みを作る。
身体の芯も僅かに軋んだ。が、もう遅い。
「ここに、なにをしに来たんですか……? 私が逃げていないのを確認するために?」
言い終わったとき、ジェレスマイアはすでに手を伸ばせばその扉に届くほどの位置まできていた。
腕をドアノブに上げようとする。けれどエマニュエルの言葉に、彼は動きを止めた。
「……逃げられるとは、思っていない」
「なに、を……」
エマニュエルに背中を向けたままで。ジェレスマイアはそう言うと手を下ろした。
「逃亡は不可能だ。それだけの警備を敷いている。ただ」
「…………」
「──ただもし、妙な気を起こして自殺でもされては困る。そして──」
それは淡々とした調子で、声は驚くほど低い──エマニュエルには、どこかその声が他人事にさえ思えた。
黙っているとジェレスマイアは続ける。
「隣の部屋で眠る者が、私の寝首を掻こうとしてはこないかどうか──確かめたまでだ」
そして、そのままもう一度手をノブに掛け、扉を開くと、去っていった。
扉はパタンと静かな音を立てて閉まった。
エマニュエルは静まった部屋と共に、沈黙した。
いま なんて ──?
*
ただの小娘ではないか──。
確かにそう思ったはずだった、初めてあの少女を見たあの日。
──父、母。
この地上で、信じられた唯一の血縁。
それは儚くもあっけなく散っていった。まだ己が十七を数えたばかりだった、あの年に。
──皇子よ、ダイスの王国を継ぐ者よ。
偉大だった父王は亡くなった。さあ、お前が王座を継ぐのだ──この尊き王国を背負う者として。
期待と喜びを持って、民はジェレスマイアをダイスの王として迎え入れた。
若き獅子王……氷の瞳を持った、賢き王として。
ジェレスマイアは国を愛している。そこに、噓はない。王家に生まれついた者として、その血が与える当然の結論だった。
この国を支え、継承し、歴史を紡ぐこと。
『皇子よ、お前には具現者がいるよ──』
老婆がそう言った。預言者だ。城の奥の塔に引き篭もって、滅多な事では外に出てこない不可思議な存在。
それがある日、まだ父王と母君が生きていた頃──それも彼らが亡くなる数ヶ月前に、突然、ジェレスマイアの前に現れた。
今なら分かる。あの老婆はまさしく、父と母の死を予言していたのだ。
だからこそ人目を忍ぶように、突然ジェレスマイアの元に現れた。
『その者はお前の願いを叶える。その命をもって、お前の本当の願いを成就する』
(私の、本当の願い――)
分かりきったことだ。今のジェレスマイアにとって願うことはただひとつ。
この国のを守ること──。
今、ダイスを囲む大国はどこも激しい勢力争いを続けている。そしてそのどこもが、小さくも豊かで民の教養の高いこの国を狙っている。
(今度こそ、奇跡以外はなにも、ダイスを救うことは出来ない――)
それが現実だった。避けることの出来ない、確かな事実。
父と母もその大国の謀略によって殺されたのだ。迎賓として迎えられ、その地で『不幸な事故』により命を落とす。
後に続くジェレスマイアはまだ若く、御しやすいと踏んだのだろう。
しかし彼らの思惑通りには行かず──ジェレスマイアはこの小国を護り続けてきた。
十二年──。
息を付く間さえなく。
両親を弔う時間さえ捨て。
女性も、愛さえ、振り返る時間もなく──。
けれどもう限界だった。
戦が始まれば、絶対数の少ないダイスが他の大国に敵うことはない。
今まではそれを外交でなんとか乗り越えてきた──が、すでに相手は迫ってきている。
『だから、本当に必要になった時、その娘をお前のもとに呼ぶといい』
──そう、老婆は最後に言い残した。
気付いている者は少ない──しかし、このままなら一年以内に戦が始まるはずだ。誇り高いダイスの民がただ大人しく降参することは有り得ない。
血が流される。何千、何万の血が──。
『その者はお前の願いを叶える。その命をもって』
逃げ続けていたエマニュエルとその一家を探し当てたのは、差しも当たってダイスが本格的な危機に直面しだした半年前だった。
(私の願いを叶える者……)
不必要な好奇心がジェレスマイアに芽生えたのは、あれが初めてだっただろう。
見に行くべきだと思った。
今すぐ、この目で見てみたいと思った──。己の願いを、その命をもって叶えるといわれた者。
どんな屈強な大女なのか、それともこの世の者とは思えぬほど聡明な女か──。
少数の護衛のみで訪れた遠い北の大地は、荒涼としてした。
見つけたのは、金に輝く髪を持った少女だった。
まだ極秘だったため、無理に近づき気付かれるわけにはいかなかった。
遠目に、外に佇んでいる彼女を見ただけだ。
確かに美しいのかも知れない……が、王宮の貴族の女達に比べれば随分と垢抜けない……そんな、平凡な娘。
(ただの小娘だな。このような者が、なぜ)
事情を知らぬ護衛たちは訝しがっていた。ジェレスマイアの身の安全の確保もある。そう長くは居られない。
ジェレスマイアは落胆に似た思いを抱えながら、去ろうとした、その時。
一羽の鳥──白い、小さな鳥がエマニュエルの肩へ舞い降りた。
その小鳥が肩で羽を振ると、風で金髪がそよぐように揺れる。
エマニュエルはその鳥に向かって微笑んだ。
そしてなにかをささやいていた──まるで、その鳥と会話をするように。
もっと美しいものを幾つも見てきた。
しかしあの瞬間、確かになにかが変わったのだ。この魂のどこかで。
そして今、最も強大な隣国・ジャフが、ダイスに最後通牒を突きつけてきている。
高すぎる関税、不利な取引──とても国として飲み込めるものではない。
しかしそれを受け入れなければ、戦も辞さない……と。
つまり相手は、攻め入る口実が欲しいだけなのだ。
一年、いや半年。その程度なら時間を稼げるだろう。しかしそれ以上は、奇跡が起きない限り不可能だ。
『本当に必要になった時、その娘を呼ぶといい』
これは、マスキールをはじめとする一部しか知らない話だ。
しかし彼らも、預言者が忍びでジェレスマイアを訪れた、あの日の言葉を知らない。
この国の王の願いを叶えると予言された、運命の娘──それが彼らの知る全てだ。
(私ひとりの思いなど)
──数十万の命の前で、なんの価値があるというのか。数千年の歴史を護るための、たったひとつの犠牲。
なにを躊躇する必要があるだろう。
『その者はお前の願いを叶える。その命をもって』
本来なら、最も厳しい危機が訪れるまで、エマニュエルは監視されつつも放っておくつもりでいた。
思い余って我が身を捨てるような真似をされる可能性もある。
戦争が始まってしまうその直前まで、放しておくべきだ、と。
そうすれば彼女に情が移ることもない。
──そして半年が過ぎた。しかし突然、まるで発作的に、ジェレスマイアは彼女を王宮へ連れ帰った。
その、理由は……?
(──下らん)
なんという気まぐれだ、そう己で思う。
気まぐれだったのだ。そして多分に、この状況でエマニュエルを放任しておくことに、危険を感じたのだ。
それだけに過ぎない。
戦が始まるのは明日かも知れない。その可能性はもう拭えないのだから。
連れ帰った彼女にあてがったのは、己の寝室の続き部屋──。
もちろん、間に狭い一室を挟んではいるが、回廊に出ずとも扉で続いている。
王であるジェレスマイア……。
そしてエマニュエル本人の安全の為、事情を知る大臣や重鎮達は彼女の処遇を決めかねていた。
ある者はそのまま牢に繋ぐべきだと言い、ある者は後宮の最も安全な場所を指定した。
しかし、どれも色々と粗が出る――。
後宮では人目に付きすぎる。特に姫君達は、口が軽い。
牢でエマニュエルはあの様だ。場所を変え看守を代えたとしても、結局牢獄は閉ざされた特殊な場所だ。同じ惨事にならないとは言い切れない。
──ならば、彼女は王の間によこせばいい。幸い部屋ならい空いている。警備も万全だ。
そうジェレスマイアが告げると、彼らは目を剥いた。
確か、ひとりマスキールだけが、面白そうに瞳を輝かせていたが──。
結局、ジェレスマイアは押し切ったのだ。
そして今、エマニュエルは数枚の壁を隔てた向こう側にいる。
ジェレスマイアは自室に戻ると、大きな執務机の椅子に腰掛けた。
(やはりただの小娘にすぎぬ)
そして今、彼女を目にして分かった。
あの時の……初めてエマニュエルを見た時の衝撃は、やはりただの気の迷いであったのだと。
その証拠に、あの時のような衝撃はなにも感じなかった。
個人的にはなんの恨みもない少女だ。哀れではあるが、国民全ての命と引き換えとあらば、彼女を犠牲にすることに躊躇はない──。
(そう。国を救う──それが私の願いだ)
まるで己に言い聞かせるように。
ジェレスマイアは心の中でそう反芻すると、静かに目を伏せた。
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