Paradise LOST - 4
マスキールはしばらく、見開かれたエマニュエルの両瞼を推し量るように見つめて、そしてベッドから静かに離れた。
咳払いを軽く一、二回すると、短い溜息を吐く。
「……失礼しました。とにかく、ここに居る限り、貴女の望む物はなんでも差し上げよというのが王からのお達しです」
「お、王……」
あの灰色の瞳の男だ。エマニュエルにとっては全ての元凶。
冷たい、彫りの深い彫刻のような顔立ちの男だった。美しいと言っていいのかは分からない、が、一度目にすれば心から離れなくなる、そんな迫力を持った姿。
氷の奥に、ちらつく炎。
「でも、あの人が……本当にこの国の王、なんですか? 若いのに……」
自分の身に降り掛かってくる出来事が、あまりに許容範囲を超えていると……それとは別の方向に感心がそれてしまうものらしい。
いつか自分を殺すと言ったあの男に、今は恐怖よりも、その理由を知りたいと思った。
「王様、なんでしょう。願いなんて、何もしなくても何でも叶うし……どうして」
エマニュエルは真っ直ぐマスキールの目を見ながら、素直に言葉を続けた。
だがその喋り自体は、年齢にしては少したどたどしい気がした──エマニュエルは今年十七歳になったはずだ。
マスキールは猜疑に片眉を上げたが、しかし、すぐに理由が思い当たる。
彼女の両親はずっと彼女を隠していたのだ。当然学校にも通わせていない。
ダイスは教育について非常に熱心な国柄として知られていて、他国ではまだ珍しい女性の就学も盛んに行われているが……。
「──王だからといって、何でも叶うというのは違いますよ。エマニュエル様」
マスキールはゆっくり話し始める。その口調は子供を教え諭すようで、それでいてどこか、寂しげだった。
「それどころか、王だからこそ叶わない願いも多い。そして、王だからこそ叶えなければならない願いも」
エマニュエルは瞳を瞬いた。
それに気が付いて、マスキールはもう一度咳払いをする。
「とにかく。あなたは大丈夫なようですので、私はこれで一旦下がります。外には警備が張っておりますので、逃亡は考えない方が身の為です。昼食までには侍女をよこしますので、お休み下さい」
*
「ふ…………っ」
マスキールが去って、扉が閉まり、部屋に静寂が戻る。
と──エマニュエルの瞳に涙が溢れてきた。両親の姿がちらつき、彼らの声が心に空しく響く。
──あの人達はなんなんだろう。
そう思った。まだ大勢と顔を合わせた訳ではないけれど。
王、マスキール、そして牢の看守たち。顔を合わせたのはその程度だ。が、誰もがエマニュエルには知りえない種類の、心の荒みを持っている様に感じた。
良い、悪いという問題ではなく……例えるなら皆、渇いている。
エマニュエルが今まで知り得なかった種類の人々だった。
これまでのエマニュエルの行動範囲は、確かに、自然をのぞけば広いとはいえなかった。
交流があったのは精々、街や村から遠く離れた場所に住んでいた老夫婦、家の傍の森で働いていた木こり……そんな種類の人々だけだ。
彼らはたとえ素っ気無くてもどこか温かみがあった。
それが突然、目の前から綺麗さっぱり消え去ってしまったような気分だ。
あの痩躯長身の男──マスキール──だけは丁寧に接してくれたが、それでもどうしても、心の距離を感じる喋り方だった。
(痛い……。いろんなところが……)
身体だけじゃない──どこかもっと深いところがじくじくと痛んでいるような気がして、エマニュエルは白いシーツに顔を埋めた。
まるで籠に捕らえられた蝶だ。どうする事も出来なくて、ただ涙を流すだけ……。
マスキールが出入りした扉から、そう言ってエマニュエルとそう変わらない年頃の少女が現れたのは、あれから数時間後だった。
エマニュエルが泣きはらした瞳を上げると、そこには茶色の巻き毛の少女が頭を下げていた。
「私、ギレンと申します。本日からエマニュエル様にお仕えいたしますので、どうぞお見知りおきを」
「つ、仕え…………?」
乾いた声で、エマニュエルがギレンと名乗った少女の言葉を反芻した。
ギレンはまだ仰々しく頭を下げている。
「はい。お着替え、お食事、湯浴みなどのお手伝いを……」
……そして顔を上げる。と、ギレンとエマニュエルの目が合った。
エマニュエルの赤い瞳に気が付いて、ギレンはぎくりとしたように背を正した。
「あ、あの……とりあえずお食事をご用意したのですが」
ギレンの口調は丁寧だったが、その態度はやはり少しよそよそしい。
(また……)
とエマニュエルは思って、無意識に下唇を噛んだ。
こんな状態で、一体なにを、どんな顔をして食べろというのだろう?
食事よりも一刻も早くここから出ることを考えたかった。が──同時に、言われてみると急に、自分の空腹具合に気付かされる。
「ご飯、食べたいです。どこに行けばいいんですか……?」
エマニュエルは出来るだけ丁寧に、ギレンと名乗った少女に尋ねた。
──そうだ、逃げるにしても空腹ではどうにもならない。身体の痛みを治すためにも、まずきちんと食事を摂らなくては……病気や怪我の時は、よく寝てよく食べるのが最善だと、父も母も言っていたし……。
と、エマニュエルはごく当たり前の質問をしたつもりだった。
しかしギレンは、驚いた顔をして瞳を瞬く。
「もちろん、こちらにお運び致します。姫君は皆、そうなさいますし、マスキール様からエマニュエル様を外に出さないよう申し付かっておりますので」
──今度はエマニュエルが驚いた顔をする番だった。
『姫君』? なぜ急に、自分が姫君と比較されるのだろう?
しかも『マスキール』、その名前もエマニュエルは今初めて聞いたものだった。
「マスキールって、あの、背の高い男の人のこと……ですか?」
エマニュエルがベッドの上で姿勢を整えながらささやくと、ギレンは驚いたような顔をしつつ、わずかに頬を赤く染めた。
「彼をご存じないのですか? マスキール様は王の右腕であり、同時に王の従弟様でもあられます。この王宮で知らぬ者はおりません」
もちろんエマニュエルには知り得なかったことだ。
──けれどこのギレンという少女は、エマニュエルの知らないことを沢山知っていそうな気がする。
好奇と必然から、エマニュエルは更に質問を繰り返した。
「それに王様って……あの若い灰色の目の男の人ですよね……? もっとお爺さんじゃないんですか?」
「現王は十七歳で即位されてから、もう十二年王座に就かれておられますわ。……エマニュエル様、もしや熱でなにかおかしく……」
「ううん、私の知らない事ばっかり……口止めされていないのなら、教えて下さい」
ギレンは首を傾げた。
詳しい事情はギレンも知らされていない──しかしエマニュエルは、王の間の一角に部屋を与えられているのだ。王の、王宮の事情をなにも知らないとは何事だろう……と、疑問に思って。
『王の大切なお方だ。失礼の無いように仕えなさい』
──マスキールからは、そう言われているだけだ。
王からの身分違いの寵愛を受けた娘なのだろうと、漠然と想像していたが……。
「エマニュエル様……ご質問なら、出来る限りお答えいたしますわ。今はお食事を先におすましになった方が……」
ベッドの上で、エマニュエルの前に低いテーブルが据えられ、食事が供された。
なんとも繊細な装飾を施された皿の上に供されているのは、エマニュエルが見たこともないほど透き通った、飴色のスープだ。
備えられたスプーンもまた美術品のような飾り付き。
持ち辛いのではないかと恐々と手を伸ばしたが、それは意外にもよく手に馴染んだ。
そしてエマニュエルのベッドの横には、給仕用と思える腰の高さほどの車輪付テーブルと、その傍に立っているギレンが居る。
エマニュエルのベッドが大きすぎるため、そこまでそれなりの距離があった。
「美味しい…………」
──いつか自分を殺すと言った男の王宮から出された食事だ。
それでも、美味しいものはやはり美味しい……。エマニュエルはスープを喉に通すと、束の間の安堵のため息を吐いた。
「マスキール様から、最高の物をお出しするようにと申し付かっておりますから……。何か別に物が欲しければ仰って下さい、すぐご用意いたします」
エマニュエルは首を振った。
なんだか、残忍な扱いと丁寧な扱いとを交互に受けている気がする。
牢獄に豪華なベッド。ジェレスマイアの言葉、ギレンの対応。
「ううん、充分です……。あの、貴女も食べた方がいいんじゃないですか?」
ベッドの上からエマニュエルがそう言うと、ギレンは目を剥いた。
「ま、まさか! エマニュエル様が食べ終わる前に私が口を付けるなど、もっての外です!」
「? そうなんですか?」
ギレンはつい高い声を上げて、そしてしまったという風に口に手を当てた。
エマニュエルはきょとんとするばかりだ。ギレンは今までの疑問に答えが出るのを感じていた。
──やはりエマニュエルは何も知らないのだ……と。
「ゆっくり召し上がって下さい。しっかり療養なさらないと、王が心配されますから」
「し、心……っ」
『心配』と、ギレンの言葉を繰り返そうとして、エマニュエルはスープにむせて咳き込んだ。
もちろん、侍女などというものが自分に就いたのは初めてだし、実際に目にしたのさえ彼女が初めてだ。 しかしギレンの言動にエマニュエルは驚かされ続きだった。
──それはもちろん、ギレンの方も同意見だったのだけれど。
「ど、どうして、あの王様が心配なんてするんですか? 私の具合なんて、命さえ無事ならどうでもいいって言ってたのに」
「まあっ」
ギレンは驚きの声を上げて、またハッと指の先で口を塞ぐ。
エマニュエルもまた、きょとんと瞳を瞬くばかりだ。
「そんな筈ありませんわ……エマニュエル様。この王の間にお部屋を頂けるというだけで、ご正妃様と同等か、それ以上の扱いなのですよ。しかもあのマスキール様が直々にお目付け役を受けるだなんて……本当に特別なのですから」
「特別……?」
エマニュエルはスプーンを盆に戻した。
『王の間』とやらの正確な重要性はよく分からない。
しかし特別は特別、なのだろうか……。いくら王とはいえ、最初から殺すことを前提に人と向き合う機会は少ないはずだ。
……と、そこまで考えて、エマニュエルはギクリとした。
ジェレスマイアが自分をあの牢獄からここに移したのは『今死なれては困る』からだったらしい……。
怪我を負ったエマニュエルを放っておいては命に関わると判断したからだろう。
今は怪我を治させなくてはいけない、とここに置かれているのだ──だったら、怪我が治ったら?
またどこか、牢へ繋がれるのだろうか……?
死に繋がるような暴力は──彼にとって不都合なのだから──無くなるのかもしれないが、いつまでもこんな風に豪華なベッドで寝かせてもらえるとは思えない。
「でも……きっと、怪我が良くなったらどこか別の所へ行かされると思います」
エマニュエルが目を伏せてそう言うと、ギレンは首を横に振った。
「いいえ、そんな筈はありませんわ。ずっとここでお仕えするようにと、申し付かっていますもの」
「ここ、で……? ここがずっと私の部屋になるんですか?」
「そう、うかがっておりますが……」
(どうして……)
自分の立ち位置がまだ分からない。エマニュエルはスープを見つめたまま考え込んだ。
ギレンは王宮の事情には通じているようだが、エマニュエルの立場まで知っている訳ではなさそうだ。
もちろんエマニュエル自身が分からないのだから、彼女が分からなくても、不思議ではないのだけれど。
「王の間に部屋を頂けるのは、本来ならご正妃様のみです。王のお部屋もこのすぐ近くなのですよ」
ギレンの言葉にエマニュエルは顔を上げた。
──なんだか、いくつか聞き捨てならない台詞が混ざっていた気がする。
「あ、あの王様って、結婚……して……るの?」
エマニュエルが恐る恐る尋ねると、今度はギレンの瞳に好奇の色が宿った。……のにすぐ気が付いて、エマニュエルは少し身を引く。
「いいえ、エマニュエル様。現王は即位してこのかた、側室は数人いらっしゃいますが形ばかりで手をつけず……お妃様は迎えられておりませんわ。これも有名な話です」
「有名?」
「ええ、一生迎えるつもりも無いと公言されておりますわ。理由は、噂ばかりで誰も分かりませんが……」
「…………」
エマニュエルはますます混乱してきた。
「お后様がいないから部屋が空いてて……それで私にあてがったのかも……」
自然と浮かんだ結論を、エマニュエルはぽつりと口にしてみる。するとギレンはまた口に手を当てた。しかし今度は恥じらいからではなく、笑いを止めるためだ。
「まさか、エマニュエル様……この部屋はずっと主がいなかったのです。現王が即位されてからずっと。それを、突然部屋が必要になったからといって、誰それとなくあてがったりはいたしませんわ。空き部屋なら後宮にも客間にもまだ沢山あります」
「でも、じゃあ」
「やっと王の心に入り込める女性が現れたのだと、皆、浮き足立っているところですのよ……?」
「!」
──エマニュエルは確かに、人里離れた北の大地で両親によって隠されて育った。
が、別に学がないわけでも、一般常識に『そこまで』疎いわけでもない。
学校には確かに通わなかったが、両親は出来るだけの知識をエマニュエルに与えてくれていた。ただその理由を、王から身を隠すためだとは知らなかっただけで……。
「ち、違いますっ! それは絶対に違うはずです……っ」
「王が突然、狩りにお発ちになって、鹿ではなく娘を見つけてきたのだと。噂ですけれど」
「そんな、それは本当に違います。彼は私をこ……っ」
(殺すつもりで)
そう、言いかけて。エマニュエルは言葉を止めた。
──簡単に口にしていい言葉だとは、思えなくて。
「…………?」
ギレンが首を傾げた。
せっかく話が乗ってきたところ……だったけれど、エマニュエルが口をつぐんだことによって、ふたりの少女の間に沈黙が流れる。
おそらくギレンはエマニュエルに関する預言も、ジェレスマイアの真意も知らないらしい。
「とにかく、そういう理由じゃないはず……です」
どこかぎこちない感じで、エマニュエルはゆっくりと答えた。
ギレンは不思議そうな顔をしたが、さすがにきちんと訓練された侍女だ。エマニュエルが話を続けたくない雰囲気を醸し出すと、それ以上は訊こうとしなかった。
「……どちらにしても、お怪我を治すのが先決ですね。さあ、パンもいかがですか?」
「は、はい」
エマニュエルがうなずくとギレンはパンの入った籠を持ってベッドに近付いてきた。
近づいてあらためてギレンを見ると、陶器のような白い肌が印象的だった。頬に少しだけそばかすが散っているのが可愛い。同姓同年代でも分かる、ギレンは明らかに美少女だ。
「でも……どうして貴女は私の侍女に……?」
世話をするより、世話をされる方がよっぽど合っていそうだ。
エマニュエルはバスケットから一つ、パンを受け取りながらギレンに質問した。
ギレンは急に頬を桃色に染めた……ように見えた。バスケットをエマニュエルからさげると、はにかみながら答える。
「マスキール様の……ご好意で。遠い親戚なんです、もちろん、王家とは繋がりのない……マスキール様のお母様の姪が私の母で……」
(わぁ……っ)
と、エマニュエルは純粋に驚いた。マスキールの名前を出した瞬間のギレンは、いいようのない可憐な笑顔をたたえていて、綺麗で、可愛らしくて。
そんな女性の美しさを知っている。
母だ。父を見つめるときの、母の表情──。
『恋』だ
知ってる。けれど、知らない。
いつか自分にも訪れるのだと、信じて疑っていなかった、想い。
ギレンは知っているんだ。『恋』を。それは経験のない自分にさえ、すぐに分かる──。
いつか。ずっとそう思っていた。はにかむギレンの可憐な表情。自分も。
(でも──……)
──だけど、今の私は?
この豪華なベッドと広い部屋に閉じ込められて、どこにも逃げられない。
『時が来るまで』──そう、マスキールもジェレスマイアも言っていた。
時が来るまで。私はここで、憧れていたあの想いを知らずに、殺されてしまうの……?
「え、エマニュエル様……っ!? 私、なにか気に障ることを?」
突然エマニュエルの頬を伝った一筋の涙に、ギレンが慌て出す。
持っていたバスケットを車輪付の給仕机に急いで戻すと、ハンカチを手に取ってエマニュエルの傍に寄ろうとした。
けれどその瞬間、ガタンという乾いた音が部屋に響いて、ギレンは動きを止めて顔を上げた。
「…………え」
エマニュエルは声を出した。
ギレンはなにも言わず、ただ、慌てたように頭を下げ、数歩下がった。
「下がっていていい、必要になれば呼ぶ」
「はい、ジェレスマイア様」
──そう、短い会話がギレンとジェレスマイアの間で交わされた。
突然部屋に入ってきたジェレスマイアは、そのまま真っ直ぐにエマニュエルのベッドへと向かう。
ギレンは慌てた様子で数歩あとじさると、給仕用の台を押して部屋から出て行った。やはり、ジェレスマイアが入ってきたのとは違う扉を使って。
「…………」
それは、誰によってもたらされたのか……
残されたふたりの瞳と瞳が合って、張りつめた沈黙が流れる。
エマニュエルはジェレスマイアの鋭い視線にからめ取られて、動けなくなった。
エマニュエルの瞳には涙が。
ジェレスマイアの瞳には、灰色の、冷たくて熱い、なにかが──。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます