Paradise LOST - 3
『時が来れば、私はお前を殺す。それが、私とお前の運命だ』
いつしか自らを王であると名乗ったその男は、それだけ言うと乱暴にエマニュエルの身体をベッドに放り出し、部屋から出て行った。
あとに呆然としたエマニュエルを残したまま、挨拶もなく──しばらく、エマニュエルは呆然としていた。
あまりにも沢山の事が急に自分に降り掛かり、現実と幻の境界線を見失う。
──何が起こったというのだろう?
平和な日々が一瞬にして失われ、それに取って代わったこの現状……。
突然見た事もない男に攫われると、薄暗い牢獄に投げ込まれ意識を失うほどの暴力を受ける。気が付くとベッドの上で、自分を攫ったその男はいつか自分を殺すと言う。
(ここから出なくちゃ…………)
出てきたのは、そんな本能的な結論だけだった。
悪いようにはしないと言ってはいたが──。
それが具体的にどんな扱いになるのかは、想像もつかない。
確かにあの牢獄から助け出してくれたのはあの男だった気もするが、元はといえば彼が原因であそこに入れられたのだ。
たとえよくしてもらったところで、ここには愛する父も母もいない。
そしてあの灰色の瞳の男の説明によれば──最終的に、自分は殺されてしまう。
エマニュエルはシーツをたくし上げた。
ベッドから降りようと身じろいだが、そう単純な話ではない。
なにしろエマニュエルが寝かされていたベッドはそれだけで今までの自分の部屋がすっぽり入りそうなほどの大きさで。
おまけに身体は、少し動かそうとするだけで眩暈がしそうな痛み走る。 しかも一糸も纏っていないまま──。
せめてもの衣服を期待して辺りを見回したが、それは奇跡を探す行為に似ていただろう。
一見しただけでも分かる。この部屋にはとにかく生活感のあるものがなにも無かった。
ただこの大きく豪勢なベッドと、煌びやかな装飾の壁が続くだけだ。
その壁さえも、部屋が広すぎるせいでひどく遠い。
エマニュエルは途方にくれ、シーツを握りながら目を伏せた。その時。
「目を覚まされたようで、エマニュエル様」
「き、きゃあ……!?」
それは、突然。
ジェレスマイアが消えていった扉とは別の、部屋の端から知らない男の声が響いた。
エマニュエルが驚いて振り返ると、そこにはひとりの男がいた──確かな足取りで、エマニュエルのいるベッドへ向かって歩いてくる。
「……っ!!」
逃げるには身体の痛みが許さず、エマニュエルは咄嗟にシーツを引っ張ってそれを全身に被った。端から見れば、大きなベッドの上にもっこりと、ささやかな小山が出来ている状態が出来上がる。
男──マスキールは、それを見て眉を上げた。
焦って隠れた『つもり』らしいエマニュエルは、しかし、その長い金色の髪をシーツの端からちょこりと覗かせている。
──数日前までの容態を考えれば、ずいぶん回復したということか。
マスキールは、エマニュエルからは見えないと分かっていながらも、胸から上を折り曲げ敬礼の格好をとった。
「衣服をお持ちさせて頂きました。他に必要なものがあれば、それもお持ちいたします」
ベッドの上の小山──エマニュエル──が、ピクッと反応したのが分かった。
数秒はそのままだったが、しばらく辛抱強く待っていると、シーツがおずおずと引き上げられる。
「ふ、服……ですか?」
エマニュエルは顔を半分だけ覗かせ、震えた声で言った。
「はい、お気に召されれば良いのですが」
マスキールは慇懃な調子でさらりと答える。シーツから覗くエマニュエルの青い瞳が、わずかに輝いた。
服。それは差し当たり、エマニュエルにとって最も必要なものだ。
欲しいことに変わりはない。が、ゆっくり声の方を確認するとやはり、そこに立っているのは──まぎれもなく赤の他人の男性だった。
「な、投げて貰えますか……?」
「はい?」
「ふ、服を……」
「ああ」
言われて、マスキールは己の左腕に掛けられている白い布に視線を落とした。
デザインこそ簡素ではあるが、上質のシルク布を贅沢に使い込んだ、美しい室内着だ。
投げるなどという行為が似合う代物ではなく──どこぞの姫君が聞いたならば、悲鳴を上げるところだろう。
「分かりました。どうぞ」
しかしマスキールは口元に微かな笑みさえ浮かべ、言われた通り服を投げた。
真っ白なそれがふわりと羽のように舞うと、綺麗にエマニュエルの目の前に着地する。
いつのまにかシーツから首元まで出していたエマニュエルは、その様子を目で追っていた。
「わ……」
その、声は。うっすらと漏れてしまった小さなものだ。
けれどなにもない広い空間では、すべての音がはっきりと周囲に響く。
エマニュエルは投げ渡された服に恐る恐る手を伸ばすと、自分の方へ引き寄せた。
「……あ、あの……着てもいいですか」
「どうぞ、そのための物ですから」
「いえ、そうじゃなくてあの、き、着替えるので」
言い辛そうに、エマニュエルの語尾が弱くなっていく。マスキールは彼女の言わんとしている事がなんとなく分かったが……ここで素直に言う事を聞くのも、つまらない気がする……。
「お手伝い致しましょうか」
「…………!」
エマニュエルの青い瞳が大きく見開かれて、頬がほのかに染まる。
マスキールは喉の奥を鳴らすような感じで低く笑った。
「冗談です。では、私は少しの間失礼しますので、どうぞお好きなように……侍女をお呼び致しましょうか?」
「い、いいえっ、何もいりません、大丈夫ですから……っ!」
「仰せの通りに。何かご入用になりましたらお呼び下さい、外にいますので」
そして──あとに頬を赤く染めたままのエマニュエルを残して、マスキールは彼が入ってきたらしい扉から出て行った。
パタンと扉が閉まる音が響いて、エマニュエルはまた、ひとりベッドの上に残される──。
*
マスキールは扉の前に立ち、考えを巡らせた。
ジェレスマイアがエマニュエルを連れ帰って、今日でちょうど七日を数える。
二日間は地下の牢に、それから五日間はずっとあのベッドの上だ。
ジェレスマイアの手によって牢から出されたエマニュエルは、酷い怪我を負わされていた。
三日程高熱に浮かされ、意識もほとんどない状態で。やっと数日前にそれが落ち着き、今朝やっと目が覚めたのだ。
(あの人にも参ったものだ……)
宮廷の医師が付き切りで看病をしていたものの、エマニュエルの意識が戻り始めるとジェレスマイアは人払いをし、他の者を部屋に入れなかった。
──ただマスキールだけが、扉の外で会話を耳にする事を許されたが。
(孤高、とはあの方の為の言葉だな)
困惑と感心が混ざったような、複雑な心境。
マスキールはまだ、ジェレスマイアの意図がよく掴めなかった。
従兄であるはずのあの王は、最も近いであろう自分にさえも、必要以上に心の中を晒さない。
──両親により隠されていたエマニュエルの存在が発見されたのは、すでに半年ほど前だった。
それ以来密かに密偵と護衛を付け、定期的に様子を伺っていた。もちろん、本人や両親に気付かれぬように、ひっそりとだ。
時期がくればいずれは連れ去るつもりでいたが……今回の事は予想外だった。
少なくとも、マスキールにとっては。
エマニュエルが手違いにより二日間牢に押し込められたのも、元はといえばそのせいだ。あまりにも急にジェレスマイアが彼女を連れ帰ってきたため、準備も場所も警備も、まだ調っていなかったのだ。
この玉石混淆の王宮で、彼女のような複雑な立場の人間の安全を確保するのは、そう単純な話ではない。
その結果がエマニュエルの惨状だ。
(しかし……)
マスキールはふっと口元を緩めた。
寝顔は何度か見たが、目を覚ましたエマニュエルを目の前にしたのは先刻が初めてだった。
もちろん見えたのは顔だけ──しかも、病み上がりの素顔だ。
が、随分と可愛らしい。まるで小動物の様な雰囲気の、幼い顔つきだった。しかし磨けば輝くのだろう。そんな感じだ。
──最終的に、ジェレスマイアは彼女を殺す気でいる。
少なくともそうまわりに公言している。もちろん、その『まわり』とは、マスキールも含めたほんの数人の側近達のみではあるが──。
ジェレスマイアは捕らわれている、のではないだろうか──マスキールにはそう思えた。
あの預言者の言葉に。
『この娘はその命をもって、この国の王の願いを叶えるだろう』
具体性に欠けた、非常に曖昧な預言だ。あの少女を殺すことでジェレスマイアの願いが叶うと明言されたわけではない。
その『王』でさえも、ジェレスマイアだとは確定していない。
これから先、別の王が──例えるなら、ジェレスマイアに嫡男ができたとして──即位したとすれば、その王にも可能性はできる。
マスキールは考えを巡らせながら、数回、首を横に振った。
これが預言の厄介な所だ。はっきりと詳細までは語らない。
特に時の最高預言者、エマニュエルの預言を行った者は今、宮廷の奥に篭ったまま滅多なことでは出てこない。一癖も二癖もある老婆だ。
ある意味、王よりも権力があるといえるかもしれない。
例えジェレスマイアが面会を申し込んでも、彼女が首を縦に振らない限り、それは叶わないのだ。逆に彼女から王に謁見したいと申し入れられれば、断ることは出来ない。
一説には彼らを、太古の昔、神からその力を分け与えられた者の末裔だという。
いくら時が移り変わり、王朝が代わり、時代が進んでも、彼らはその影でひっそりと生き延び続けてきた。
ダイスの歴史の深層を──静かに、しかし確実に支えてきた。
(しかし……そうだな……)
マスキールは再び表情を引き締めた。
ジェレスマイアは、願いを叶える必要があるのだ。
そうだ、悠長に待っている時間はない。彼にも、我々にも──。
幾千幾万もの命の前に、儚く散るであろう一輪の花。
烈火の前に立ち上がる氷の王。
舞台は整ったのかもしれない。そして運命の劇場は幕を開ける──。
*
エマニュエルはなんとかその服を着終わった。
最初はその着なれない作りの服に、戸惑う。
──が、なんとか試行錯誤で袖を通して見ると、最終的には驚くほどびったりとエマニュエルの身体に合った。
(とりあえず服は手に入れたけど……これからどうすれば)
さし当たっての問題がひとつだけ解決し、エマニュエルは次にするべきことを考えた。
とにかく結論は変わらない。ここから出るべきだ。
いや、逃げるべき、という方が正しいのだろうけれど──。
「…………っ」
しかし身体の隅々が傷むのも、変わらなかった。
大きく動かそうとすると胸のあたりが鈍く軋む。もしかしたら肋骨あたりにひびが入っているのかもしれない。そのくらい痛かった。
(で、でも……っ)
なんとか必死で、ベッドの縁へ這うような格好で向かった。大きなベッドの端まで辿り着き、足を落とそうと下を見る。するとやはり、この煌びやかなベッドはその大きさにかなった高さを誇っていた。
(どっちへ)
エマニュエルは周囲を見回した。
よく見ると、この部屋には扉がふたつあるらしい。
ひとつは王──ジェレスマイアが使ったもの。もうひとつはあの、服を持ってきた男が使った出入り口……だ。
エマニュエルは男の姿を思い出した。
ほんの数分しか目にしてはいないが──長身痩躯の、柔らかい感じの人物だった。
雰囲気は大分違うが、彫りの深い顔つきがどことなく、あの王様……ジェレスマイアを彷彿とさせる感じもする。
態度からすると当然、彼はジェレスマイアの為に働いているのだろう。
『外にいます』ということは、彼が出て行った扉から逃げるのは当然無理に思えた。
当然の結論として、もうひとつの扉を使うべきになる。
エマニュエルはゆっくり床へ足を下ろし、体重を掛けようとした。
と──身体の芯に雷が落ちたような衝撃的な痛みが、全身を駆け抜ける。
「きゃあっ!」
悲鳴と派手な音を立てて、エマニュエルは床に転がり込んだ。咄嗟に引っ張ってしまったシーツが、身体の上にかぶさる。
「どうしました!」
──間髪を入れず、マスキールは部屋へ入ってきた。
すぐにエマニュエルに駆け寄り、かぶさったシーツをはがす。白い服に白いシーツ。そして勢いで舞った枕の白い羽が、エマニュエルを包んでいた。
マスキールは片膝を折り床に足をついた。
エマニュエルの安否を確認するためだが──シーツから顔を出したエマニュエルと、意外にも近い距離で目が合った。
「……なにをなさっているんですか、エマニュエル様」
呆れと、そして叱責がふくまれた声だ。
マスキールはエマニュエルの答えを待たずに、彼女の身体をすくいあげた。そして素早い動作で彼女をベッドに戻す。
横たえさせられ、エマニュエルは泣きそうな瞳でマスキールを見上げた。
「言い忘れていましたが──逃げる事を考えても貴女の為になりません。部屋の外には警備が、宮廷の中には騎士がいます。私達は、貴女に逃げられる訳にはいかないのですよ」
「そんな……どうして」
「どうして? 王が説明なさったでしょう。彼には叶えるべき願いがあるのです」
「じゃあ、私は……」
エマニュエルが息を呑んだ。
「……私はここで、殺されるのを……待つということ?」
いつのまにか、柔らかかった彼の雰囲気が変わって、少し硬質な──ジェレスマイアに似た空気を纏っていた。
エマニュエルを見すえ、静かに答える。
「言った筈です。時が来るまでは、悪いようにはしないと。妙な事は考えないことです」
絶望の後には、希望が。
憎しみの後には、愛が。
天国からの追放──。
私だけの、たったひとつの楽園を見つけるために……
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