Paradise LOST - 2

 優雅な装飾が施されたその回廊は、昼こそ数人の高級官僚たちが行き来をするものの、日が落ちた今はほぼ無人だった。──たったふたりを除いて。

「ジェレスマイア様、済んでしまった事ではありますが……今回はお遊びが過ぎました」


 主から一歩後ろを歩き続けるその男は、言葉遣いや立ち居振る舞いこそ丁寧ではあったが、どこか堂々としている。

 ジェレスマイアは彼に答えず、ただ真っ直ぐ前を見たまま歩き続けた。

 しかしそれに怯むことなく、男は言葉を続ける。


「ご無事でしたからこれ以上何も申し上げませんが、もう少し御自重なさるよう」

「マスキール」

「は、ジェレスマイア様」


 ふたりはある扉の前で、ピタリと歩を止めた。

 ジェレスマイアが、マスキールと呼んだその男の方を振り返る。目が合うとマスキールは敬礼するように頭をたれた。


「及ばぬこと、たかが小娘を捕らえただけだ。政務に遅れることもなかった。あまり過ぎるな」

「は……」

「これ以上何も無いのなら今夜はもう下がれ、マスキール」

「御意」


 会話、と呼ぶには少し一方的なやりとりがあって──ジェレスマイアは自分で扉を開けると、その中に消えていった。マスキールは頭を下げ続けていたが、ジェレスマイアの姿が見 えなくなると姿勢を立て直した。


 そのまましばらく主の消えていった扉を見つめ、何事もないのを確認すると振り返る。


「警備、いるのか」

 マスキールが小声でそう言うと、柱の影から1人の男が現れた。黒っぽい衣装に身を包んだ、王の影の警備隊のひとりだ。


「はい、確かに」

「分かった。私はまた明朝伺うだろう……ご苦労」

「お任せ下さい」


 ──こちらもまた、乾いた、短いやり取りだ。

 マスキールは警備が王の部屋の前に立つのを確認すると、自分もマントをひるがえしもと来た道を戻った。


 カツ、カツ……と。

 マスキールが歩を進めるとそのたびに、甲高い靴の音が回廊に響いた。その音は、高い天井に吸い込まれるように消えていく。

(夜のここはひどく孤独だな……静かで、広すぎる……)

 無意識に足がはやり、マスキールは回廊の端まですぐに辿り着いた。


 そして、振り返る。

 広い回廊、贅の限りを尽くされた装飾、足元には、冷たい大理石が敷き詰められ……。


(それが、王……)


 マスキールは思った。この孤独こそ、王の背負うものだ、と。あの冷たい灰色の瞳が背負う、運命と責任であると――。


 『王の間』を見上げ、マスキールは苦しげに眉を寄せた。

 そして踵を返すと、足早にそこから去って行った。





 エマニュエルに与えられたその場所は、暗かった。

 暗くて湿っていて、胸に詰まるような不愉快な匂いが常にあたりに充満している。

 自然の光は一筋さえも指さず、所々から漏れるロウソクだけが、申し分程度にそこに光を与えている。


 そこは、エマニュエルが知るどこよりも陰湿で、そして寒かった。


「誰かっ! 出して下さい、ここから出して! お父さんの所に帰して!」

「うるさい、小娘がっ!」

「きゃあ……っ」


 エマニュエルが叫ぶと、目の前に太い木の棒が振りかざされ、そのまま振り落される。

 身体に当たることもあったし、ただ脅しで石の床を叩きつけることもあった。


 ──何度叫んでも、どんなに懇願しても、結果は同じ。


 それでも誰かの人影や物音があると、エマニュエルは必死で叫んだ。何か、誰か、ここから出ることの出来る手段を求めて……。


「よく丸二日も諦めずに騒いでられんな。けっ、どこかのいいお姫さんなんだろ? こんな所にまで身を落として、可哀そうなこって」

 ずっとエマニュエルの前で棍棒を握っている、太った不気味な男──は、そう言うとまたエマニュエルの背を打った。


「……っ……!」

「よく見りゃ綺麗な顔してんのにな……何が王の不興を買ったんだか」

「や、止め……っ」

「止めてやるよ、大人しくしてりゃあな!」


 男は片手に持っていた酒筒を地面に投げ出すと、両手で棒を握った。そしてそれを、エマニュエルに向けて振り落す。


「今までいい思いをしてたんだろうが、お姫さんよ! 俺等みたいな屑とは違ってな!」

「────!」


 身体を襲う痛みに、エマニュエルは涙をこぼした。

 ──何が起きたのか分からない……。

 あの夜、王、と名乗った灰色の瞳の男に連れ去られた後、エマニュエルはこの暗い地下牢に投げ込まれた。


 低い天井からは、ポツリポツリと汚水の様なものが滴り続けている。

 狭い石畳の廊下を挟んで、幾つかの鉄格子に塞がれた部屋が左右に並んでいた。薄暗く狭い、あまりに も陰湿な場所──。

 エマニュエルに与えられたのは、その突き当たり。

 最奥の他より少しだけ広い一角だった。鉄格子はない……が、エマニュエルの両手首は鉄の鎖で繋がれ、拘束されていた。


 そして続く、看守からの暴力。

 食事は与えられず、時々汚い濁った水を出されるだけだ。


 太陽の光が届かないここでは、時間の経過さえ知ることが出来ない。

 ただ、看守の言葉から、二日経ったらしいことが分かっただけだ。


(お父さん、お母さん……)


 エマニュエルは心の中で、ふたりの事を想った。

 優しい彼らの笑顔が、涙の先にぼんやりと浮かぶ。


 自分に何が起こったのか、何故こんな所に投げ込まれたのか。エマニュエルには分からなかった。

『エマニュエル、外には沢山、危ない事があるんだよ』

 父のそんな台詞が、痛みで薄れ始めたエマニュエルの脳裏に思い出される。


『エマを連れ去ってしまう怖い人たちも居るんだ。だからあまり、外に出てはいけないよ──』


 だから、だろうか……?

 長く外に居たから、こうしてこんな目に合うの?


(そんな……)


 だとしたらどうすれば、許して貰うことが出来るの────。


 数度目の衝撃が身体を襲い、エマニュエルは気を失った。

 看守の舌打ちが部屋に響いて、そして、その地下牢はまた静寂を取り戻す。



 そんな時間が長く続き、エマニュエルの体力は限界に近付いていた。

 もう、息の仕方さえ分からなくなってきて。

 エマニュエルはただ時々与えられる粗末なパンの切れ端と、心の中で微笑み続けてくれる両親だけを頼りに、生きることにしがみ付いていた。


 けれど──。


(熱い……苦しい……)


 明らかに自分で『それ』と分かる苦しみが、エマニュエルを蝕み始めていた。

 吐き気、熱、痛み。頭は鉛のように重くて、もう顔さえ上げる力が湧かない──。


(このまま……死んじゃう、の……)


 経験がある訳ではないのに、うっすらとそれを感じ取った。あえて言うなら、その違いを嗅ぎ取ったのは人間の本能だろうか。

 看守は数時間置きに代わったが、どちらも同じ様な男だった。

 今はもう、エマニュエルに反抗する力が無くなったのが面白くないようで、ただ隣で酒を煽り、時々棍棒をちらつかせるだけだ。


 ──ピチャン。

 石作りの天井から、土の混じった水が滴る。その音が何故か大きく響く。


 ここを通る者は、看守達以外に誰もいなかった。

 抵抗すれば暴力を振るわれ、抵抗をやめると、それがつまらないと言ってまた打たれる。……奈落の底へ落とされたような仕打ち。


 たった数日前まで、両親のもとで愛に包まれて平和に暮らしていたのに──。


 幸せで、温かくて、そして心地よかった。

 突然何が起こったのかエマニュエルには何も分からなかったし、それを考える力も、今はもう殆どない。


(もう…………)


 壁から鎖で手を拘束されたままの姿で、エマニュエルはただぐったりとしたまま。


『お前の命と引き換えに願いを叶える──この国の王だ』

 だから、なのだろうか? 突然の事で意味が分からなかったけれど、あの王と名乗った灰色の瞳の男が、そのせいで自分を殺そうとしている……。


 思いつく理由はそれだけ。


(最後なら、お父さんとお母さんの顔をもう一度だけ……)

 そう思うとまた、もう枯れ切ったと思っていた涙が静かに溢れ出した。


 ガシャン! と。

 鉄を叩きつけるような大きな音がその地下牢に響いたのは、そんな時だった。

 今までのエマニュエルならすぐに、たとえ棒で打たれることが分かっていても──大声を出して助けを懇願しただろう。しかしその時のエマニュエルにはもう、そんな力さえ何処にもなかった。


 それどころか、その音が本物か幻聴かさえ、定かではなく。


「あの女はどこにいる」


 ──それが、最初に響いた声だった。

「こ、これは……国王様! な、なぜこの様な所に御自ら……!」

 続く看守の声は、こんな時だというのに……同情を誘うほど怯えていた。


「あの女はどこだと訊いている。余計な事に口を挟むな」

「はは……っ!」

「──あの女は」

「そ、それは……こ、こ、この奥に……」


 そう看守が答えるとすぐに、一定の強さと速さの……訓練されているであろう足音が、最奥のエマニュエルを目指し響いた。そして目の前でピタリと止まる。


「そ……その、あんまり騒ぐもんで……仕方なかったんで」

 看守の震えた声が、また響く。しかしすぐに「ヒッ」という甲高い悲鳴が聞こえて、それ以後その看守の声は続かなかった。


 何かが起こっている……それは分かったが、エマニュエルは顔を上げられなかった。

 そんな力はもう無く……。視界さえも、擦れかけていて。


 しばらくの沈黙の後、エマニュエルは手元が揺れるのを感じた。そしてカチリ、と音がして、両手の拘束が解かれる。


「う……ん……」


 地面に投げ出されると思ったエマニュエルの体は、意外にも、ふんわりとした柔らかい『何か』に包まれた。





 次にエマニュエルが目を覚ますと、そこは明らかに別世界だった。

「……こ、ここ、は……?」


 そんな声さえも、高い天井と広い部屋に、飲み込まれて消えてしまう。


 目を覚ましたエマニュエルが最初に見たものは、見た事もないほど大きな四柱式の豪華なベッド。

 上は布で覆われていて、見事な刺繍が施されている。

 僅かに首を動かすと、溶けてしまいそうなほど柔らかい、ふかふかの枕の感触が肌を撫でた。


「起きたか」


 男の声──『あの』声だ。


 まだ自分の身に何が起こったのかも分かっていない、そんなエマニュエルのすぐそばで、あの声が響いた。


 声がした方にまでゆっくりと頭を動かすと、そこにはやはり、あの男が居た。

 冷たい灰色の瞳の──。

 しかし今はあの時のような騎士の格好ではなく、鮮やかな色合いの豪奢な服に身を包んでいる。


「あ、貴方は……」


 エマニュエルはそうつぶやきかけて、ベッドから身を起こした。

 すると身体に鈍い痛みが走る。そして自分をおおっていたらしい柔らかな布が、するりと肌を滑って、落ちた。


「え」


 顔、が。一瞬で燃え上がるように熱くなる。

 そのシーツの下の自分の体は……生まれたままのもので。起こそうとした上半身が、その男の前に文字通り、あらわになった。


「…………!!!!」


 エマニュエルは急いで腰周りに落ちた布を胸元まで引き上げると、口をパクパクさせた。

 全身あちこちがひどく痛んだが、それどころではない。


 けれど男の方は、冷たい瞳をたたえたまま、眉ひとつ動かさなかった。


「安静にしていた方が身のためだろう。──命に別状がないのなら、私は構わないが」

「え、え……何……」

「今死なれては困る。それだけだ」


 そう言うと男──ジェレスマイアと名乗ったのをわずかに思い出された──は座っていた椅子から素早く立ち上がった。そして立ち去ろうとした。


「! 待って……っ!」

 エマニュエルは叫んだ。何が起こったのか分からない……が、この男がエマニュエルの不幸の原因らしいことだけは、間違いない気がするのだ。


「私を……帰して下さい! 貴方が何をしたいのか分からないけれど、私は何も出来ません。きっと人違いです!」

 そう言うと、ジェレスマイアは一度進めた歩を止めた。しかし振り向かない。

「私は、父と母と住んでいる……ただの平凡な娘です。だから……!」


 だから……と、言いかけて。エマニュエルは止まってしまった。

 それは、ジェレスマイアの背中から感じられる冷たい気迫が胸に突き刺さるような感じがして、ハッと息を呑んだからだ。


「……お前の両親は、お前に何も言わなかったようだな」


 静かにそう、ジェレスマイアは言った。

 エマニュエルはビクッとして、胸にたぐり寄せた布を持つ手に力を入れる。


「だったら私が教えてやろう、お前が何者かを」


 はっと息を吐く間もないほど素早く、ジェレスマイアは振り返った。そしてエマニュエルのベッドに大股で近付いてくる。


「…………っ!」


 ベッドに乱暴に身を乗り出すと、エマニュエルの顎を持ち上げ自分の方を向かせた。

 傷がギシリと痛む。しかしジェレスマイアは構わずに、顔と身体をエマニュエルに近づけた。


 その行為の全ては横暴で、荒々しい……が、どこか洗練を思わせる──。


 エマニュエルは言葉を失った。

 生まれてこの方、父以外の異性にこれほど近寄った事もなければ、こうして裸──布を持ってはいるが──で誰かと向き合った事もない。


 しかしジェレスマイアは、その状況に感情らしきものは一切見せなかった。

 ただ、冷たい瞳でエマニュエルを見下ろすだけ……。


 そして、その瞳に似合った冷たい声で、話し始める。


「お前が生まれた時、この国の最高預言者が伝えた──お前はその命をもって、この国の王の願いを叶えるだろう、と」

「何、を……」

「お前はその生と引き換えに、私の願いを成就する運命を持って生まれた、『具現者』だ」


 ──具現者。


 それは、この世界で千にひとり、もしくは万にひとりと言われる、特別な運命のもとに生まれてくる者の称号だ。

 その運命を占い、伝える役目を持った者は預言者──言を与える者──と呼ばれる。


 当たる事もあれば、当たらない事も──ごく稀だが──ある。


 しかし単なる預言者ではなく、最高預言者の言葉となれば、それはほぼ間違いない……。

 最高預言者が予言を行うのさえ、五十年に一度あるか無いかと言われているほどだ。


「お前が生まれた夜、時の最高預言者が予言した。街まで出向き、生まれたばかりのお前の前で、はっきりとな。しかしそれを聞いたお前の両親は、お前を隠し、人知れぬ 枯れた北の果てへ逃げた……」


「……そんな……」

 エマニュエルは、喉が乾いていくのを感じた。

 初めて聞く話だ……しかし、つじつまは、合う。


「だから、貴方は……私をここに……?」

「そうだ。最高預言者の言が外れることは無い。帰ることは諦めろ、時が来るまでは悪いようにはしない」

「痛……っ」


 ジェレスマイアは、そう言うとエマニュエルの金の髪を強く引いた。

 そして耳元に唇を近付け──震えるほどの低い声で、ゆっくりと言う。


「──しかし、時がくれば私はお前を殺す。それによって私の願いは叶う。それが、私とお前の運命だ」



 ジェレスマイアが僅かに耳元から顔を離すと、2人の視線が合った。

 ──グレイ。冷たく澄んだ、灰色の瞳。

 そしてエマニュエルのブルー。海のように深い、青の瞳。


 二色が揺れて、混ざる。



 手を伸ばせば届く。それは、楽園。

 しかしその存在に気づき、受け入れるのは、手を伸ばすよりもずっと難しい……。

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