Paradise FOUND

泉野ジュール(Jules)

The Story

Chapter 1: Paradise LOST - 失楽園

Paradise LOST - 1

 エマニュエルは壮大な夜の草原にひとり佇んでいた。

 夜空を見上げると、視界に広がるきらめく無数の星々。

 裸足の足から伝わる、土と草の柔らかさ。たったそれだけなのに心が満たされる。


 無心になって夜空を仰ぎ続けていると、大きな金色の流れ星が空を横切った。


 胸に溢れるのは優しさだけ。与えられる愛と慈しみ。

 毎日はただ幸せに……夢に抱かれ、自然に守られ、大切な人に包まれて過ぎてゆく。


 そう、ここは たった一つの楽園だった。





「いよいよこの地方にも検索の手が伸びてくるらしい。今度こそ王は本気だ、と」

 エマニュエルの父、サージュはそう言うと、机の上で拳を握った。

 普段は過ぎる程に優しい彼だが、その時だけは目に見える怒りを身に纏っていた。


「そんな……嫌よ、あの子は私達の娘なの。なぜ王だからと言って、私達からあの子を奪う権利があるの?」

「その通りだ、エミリー。いくら王とはいえ、僕達の娘を差し出すわけにはいかない」


 ここは小さい木造の家。

 寒さをしのぐためレンガの暖炉の中では、火が、パチパチと音を立てつつ燃えている。


「……幸せになってくれるのならいい」

 サージュは自分の拳を睨みがら、そう呟いた。


「王があの子を大切にして下さるのなら、喜んでお預けするくらいだ。けど、違う……」


 強く握られた拳に、妻であるエミリーは優しく手を重ねた。

 そしてサージュを見つめる彼女の表情は、穏やかでもあったが、疲れも見え隠れしている。


「どうして……こんな事になってしまったのかしらね」


 エミリーの青の瞳には、涙が溢かけていた。

 しかし、儚くとも、そこにはまだ失われていない力強さがある。母の力、だろうか。


「それでも私は、あの子が私達の娘で良かったと思うの。もし過去に戻って選べたとしても、きっと私はあの子を生むわ……そして、こうして逃げ続ける事になっても、私はやっぱりあの子を育てるの」


 エミリーはそう言うとサージュの肩を撫でた。すると、彼は少し落ち着いた様だった。

 少し情けない表情をしながら、エミリーに顔を向ける。


「そうだな、僕もだよ」


 二人は向き合うと見つめ合い、決心を確かめるように、手を握り合った。


 ふと視線を上げると、部屋のガラス窓が水滴で曇っている。

 それは、この北の果ての大地に吹く、冷たい風のせいだ──。春の初めだというのに、ここはまだ冷え込んでいた。


 17年間、逃げ続けてきた彼らが見つけた、最後の安らぎの地。


 二人の娘エマニュエルは、若さも手伝ってか、この寒い夜も裸足で草原に出て行ってしまう。

 普段は大人しい彼女が、奔放になる瞬間だ。

 制限の多い生活を送る彼女の、唯一の息抜きなのかも知れない。


「もう遅いわ。ねぇ、エマを呼んで、そろそろ寝ましょう」

「そうだな。移住を考えた方がいいが……それは明日だ。明日ゆっくり二人で考えよう」


 サージュは溜息を吐くと立ち上がって、玄関に向かった。

 外に出ているエマ──エマニュエルの愛称──を家に呼び入れる為だ。


 サージュが扉を開くと、冷たい風が肌に当たる。

 エマニュエルは、小さな家の前に広がる草原に、一人佇んでいるところだった。


「エマ! もう遅い、家の中に入りなさい!」


 サージュが叫ぶと、エマニュエルは振り返った。

 金の絹のようにまっすぐで、細い髪が、風に踊る。澄んだ青い瞳が、極上の笑顔を覗かせた。


「お父さん、あのね、今すごく大きな金の流れ星を見たの」


 ──少女らしく。

 自分が今見てきたものを、褒めて欲しいとでも言うように、父親に報告する。

 そして言われた通り、エマニュエルは家に向かって歩き出した。

 純白のロングドレスが、彼女の動きに合わせて夜の闇の中で美しく揺れる。


 人目に付かないよう世間から隔離して育てたせいか……もう17になるこの娘は、まだまだ無邪気で純粋だった。

 素直で、自然を愛する美しい娘。


(あんな予言さえなければ……)

 サージュは、エマニュエルの姿を眺めながら思った。


 あんな予言さえなければ、もっと自由に、世界を見せてやれた。

 もっと素晴らしいものを、与えてやれた。

 こんな北の果ての枯れた大地ではなく、緑豊かな村、活気付いた街で。学校に友人──。


 けれど今更どうする事も出来ない。

 もしかしたら明日には、この最果ての地さえ捨てねばならないかも知れないのだ。


「エマニュ……」


 そう、サージュがもう一度娘の名前を呼びかけたところだった。

 ──突然、森の先から馬の蹄の音が響く。


「! ……エマニュエル!」


 ごく小さく響き出したその音は、息をつく間もないほどの速さで、地を揺らすほどの轟音へと変わっていく。

 サージュは反射的に、娘のもとへ走り出した。


「エマ、走るんだ! 振り向くんじゃない!!」

 サージュの叫びを上げた瞬間、エマニュエルもその異様な音に気付き、後を振り返った。


 そして"振り向くんじゃない"、その言葉の意味を、悟った。

 数騎の馬が、草原の中央に立つエマニュエルを一直線に目指し、もの凄い速さで近付いてくる。その姿が視界にはっきりしてくるのに時間は掛からなかった。馬の上には 、鉄の甲冑を身に付けた騎士達が。


 ──自分に向かって走ってくる、父。

 そして後ろからは、明らかに自分を目指し進んでくる、騎士達。

 どちらに進むべきか、何に縋るべきかは明らかだった。エマニュエルは震え出しそうになる足を奮い立たせ、必死に走り始めた──父の元へ。


「……お父さっ……!」

「エマニュエル!!」


 しかし駿馬の足と、人のそれが対等に走れるはずもない。


 蹄の音がエマニュエルのすぐ後ろまで迫ると、突然身体が乱暴に宙へ浮く。

「きゃ……っ!」

 最初は手首を、続いて腰を強く掴まれ、まるで振り回されるような荒々しさで馬上に引き上げられた。


「嫌! 放して、お父さん、お父さんっ!」


 蒼白な顔をして、こちらに走ってくる父が見えた。そして、突然の轟音に気が付き玄関を飛び出してきた母の姿も。


「やだっ、お母さん、お父さんっ! 助けて、放してーっ!」


 エマニュエルの叫びと同時に、エミリーの悲鳴が空に響いた。



 しかしそれに続くのは、エマニュエルを乱暴に捕らえたまま、走り去る馬々の地面を蹴る音だけ――。





 どれほど進んだだろう。

 エマニュエルはずっと馬上で抵抗し続けていた。

 自分を捕らえている腕を振り払おうと、必死でもがいた。

 しかしどれだけ大きい声を上げても、抵抗しても『それ』はビクともしない。それどころか、エマニュエルを抱いている力はますます強くなるばかりだった。


「放してっ! 帰して、お父さんの所に! 早く、早く……っ!」


 そして何十回目か、何百回目かも知れぬ叫びを、エマニュエルが上げた時。

 その時、まるでふと何かを思い出したように突然、馬が速度を緩めた。エマニュエルを抱いていた騎士が、彼女を見下ろす。


「──帰りたいか」


 兜の中から、落ち着いた低い声が響いた。

 低く、重厚な声──。鉄兜に覆われている顔は、エマニュエルに畏怖と恐怖を与えた。


「と……当然ですっ! 帰して、放して……!!」


 エマニュエルが叫ぶとに、彼らが乗っていた馬は完全に歩を止めた。

 周りの騎士を乗せた別の馬たちも、それに合わせて止まる。

 短い静寂が、夜の乾いた空気に流れた。


「残念だが、諦めた方がいいだろう。お前はこれから、私のもとで予言を成就する」


 男、の声だ。


 そして、エマニュエルの父のような、柔和な声とは余りにもかけ離れた冷たい響き。

 四方を震わすほどに低く、他人を平伏せさせる、絶対的な強者の声──。


 エマニュエルは身体を強張らせた。

(この、人……は)

 ただの騎士ではない……その声、その気迫、その喋り方──。


『私のもとで予言を成就する』


 エマニュエルの抵抗が止まったのを見ると、騎士はゆっくりと首元に手を掛け、その兜を脱ぎ去った。

 その顔の全様が、エマニュエルの前に現れる。



 ──濡れるような、漆黒の髪。

 飲み込まれてしまいそうな、澄んだ灰色の瞳。

「私はダイスの王、ジェレスマイア。お前の命と引き換えに願いを叶える──この国の王だ」



 ──楽園は失われた。

 天は地へ、人は罪と咎を知っていく。

 引き換えに得られるものは、地上の、人々の愛……。

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