第3話「フランソワはそう云った」
「もうあの農奴と会ってはなりませんよ」
ぼくの家庭教師をしてるフランソワが、その日の昼にそう言ってきた。ぼくは「なぜ」と訊いてみると、「さっきの会話でわかったでしょう」と言う。
ちくりと胸にナイフが刺さった。本当に刺さったのではなくそう思っただけで、擦った胸はいつも通り、ぼくの貧相な胸板があるだけだ。だからこの痛みは、図星を突かれてどきりと動揺して、心臓が跳ね上がっただけなんだ。悔しいことに、つまるところ、ぼくは彼女の言葉を真実肯定していたのだ。
「聞いていたんですか」
「いいえちっとも。けれどあなたがあの農奴と、言い合いになって逃げてきたことだけは見ましたよ」
「フランソワ先生、それは違います。ぼくはセルゲイに言い負かされたわけじゃない」
「ええ、わかっておりますとも。あなたは逃げたつもりではないのでしょう。あの農奴に少し手習いを教えていたようですが、その程度であなたに並ぶほど賢くなるわけがないのです」
「セルゲイは聡明だ」
「そう見えるだけです。普通ではない生き方の、普通ではない人間から出る言葉はいつも新鮮で真実味を増して聞こえるものですが、少し時間を置いて冷えた頭で噛み砕いてみれば、案外的外れも良いことなのですよ」
…………そういうものかもしれない、とぼくは思った。フランソワが言うことはいつも正しい。ぼくより10も年上の彼女はそのぶん多くのことを見聞きして知っているし、それを噛み砕いてぼくに説明もしてくれる。
「フランソワ」
ぼくは彼女を呼んだ。家庭教師ではない彼女を呼んだ。
「何でしょう、若様」
「この家に来て、何年になる」
「あなたのお父上様がブルゴーニュの貧民窟で私を拾われてから、ちょうど3年でしょうか」
「何故、君のような賢い女性が貧民窟なんかにいたんだ」
「フランスでは、力の弱い元貴族などは鼻つまみ者でしてよ。木を隠すなら、森の中と父は言っておりましたから、そうしていたのです」
「納得できないな。君の両親はどうなった?」
「鳥に魚の真似事をさせて、生きていけるとお思いで?」
フランソワは白い歯を見せて、遠い曇天を睨んでいた。
「ご両親のことは恨んでいるか?」
「馬鹿な者とは思えど、爾後でございますから、哀れとしか」
彼女はフランス人らしく、艶めかしくソファで足を組んで、熟れた果実を見定めるような目でぼくを見つめ返す。
「若様は?あなたをお捨てになられた、母君様のことは恨んでおるのですか」
「何とも。捨てるには少し遅いだろう、と叱り飛ばしたいくらいだ」
「同じことを、私も両親には思っていましてよ」
ぼくはフランソワの首筋を撫でた。首筋にかかるブロンドの髪をめくれば、青いあざがある。ロシアの凍土を思わせる白肌に、毒を思わせる温い青。それは昨日今日出来たものではない。
「やり返したいと思ったことは?」
「意味がないことは、考えないつもりですわ」
「だから、セルゲイに文字を教えるのも意味がないと」
「ええ」
「それは、なぜだ」
「底の抜けた水がめに、水を注ぐのと同じことですから」
フランソワはぼくの手を引いて、ソファに誘った。ぼくの腕の下で、フランソワは言った。
「わたしを満たせないあなたなんかには、特にね」
ぼくは獣と交わる。フランソワという、言葉を知らぬ獣と。
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