第2話「ツァーリとセルゲイ」
セルゲイはそれから、毎日決まった時間に柵のところまで来て、一緒に朝食を摂るようになった。最初は犬みたいに貪り食っていたものだが、いつの間にか姿勢よく座って、ぼくの見様見真似だろうか、ちゃきちゃきと音を立てながらもナイフとフォークを使うようになっていた。
「君、毎朝読んでるそれはなんだい?」
どうやら、新聞の事を言っているらしい。セルゲイはぼくが思っているより知能が低いみたいだが、決して怠惰なわけではないようで、「これは新聞といって、他の場所で起きたことを教えてくれる手紙みたいなものさ」と教えてやると、「へえ、それはいいや。楽しいんだろう、どんなことが書いてあるんだ?」と訊いてくる。
「おらは文字が読めないんだ。教えてもらったことがないからさ」
「文字が読めないのは珍しいことじゃないさ。おまえは農奴だが、そうじゃない普通の村人でも文字が読めないやつは多いよ。ほうら、あそこにぼくの家の給仕がいるがね、あの女どもは読み書きなんて出来ないし、中には口のきけないやつもいるんだ。口がきけても、癇癪を起して出て行くやつもいるがね」
「へえ、そうなんだ。てっきり読めるもんだと思ったよ。農奴のおいらだけじゃないんだな」
そういえば、逃げた給仕も読み書きが出来なかった。あれは元々チェコ人のはずだから、まずロシアの言葉ですら理解しきっているかは怪しかった。なるほど、だからあの女は逃げたわけだ。暇を貰うという言い訳すら思いつかないのだから。
「こっちへ来いよ。少しくらい、文字が読めた方が便利だぞ」
「ナビンスキーに怒られないか?」
「怒らせないさ。ぼくは地主だからね」
そう言うとセルゲイは、欠けた前歯をにやっと見せて「それならいいや。ちょうど、隣の寝床のウクライナ人が家族に手紙を書きたいってんだ。おらが代わりに書いてやれたらいいなと思ってたのさ」と、喜んでぼくの新聞を覗き込んだ。
*
セルゲイは水を真綿に染み込ませたみたいに、よく学び見る見るうちに文字を読めるようになった。
2週間もすれば、やつのために新聞をもうひとつ取り寄せて毎朝一緒に読むようになったくらいだ。セルゲイはぼくと歳が同じくらいだろうが、ひょっとしたら物心ついた頃からずっと勉強に明け暮れているぼくなんかよりよっぽど物覚えが良いかもしれない。
「なあ、この“
「
「へえ、それじゃあこの村で例えると、君の親父さんみたいな人か」
「そうだね、そうなるね」
でも、今はぼくがツァーリみたいなものだ────と言いそうになったが、ぼくはそれを水と一緒に飲み込んだ。
「じゃあ、
「え?」
ぼくは新聞の一面を、改めて読み込んだ。ロシアは少し前からドイツと戦争をしている。ドイツだけでなく、オーストリアとも戦争をしているが、やつらと戦っているのはロシアだけではない。イギリスや、フランスもこの戦争ではロシアの同盟国として、戦争に参加している。
そのどの国も、王や皇帝が前線へ行くようなことはしていない。皇太子が、あるいは高位の貴族が向かうことはあっても、いち帝国の最高指導者が出るような真似は、けしてしない。
だがその日のペトログラードの新聞は、こう報じている。
「ツァーリ、親征す」
セルゲイは親征という言葉は理解していないようだったが、記事の内容とツァーリの意味を知って、流れを理解したらしい。
「前にナビンスキーのやつが、農奴が足りないってんで自分も土いじりをしたもんだけどね、屁っ放り腰で鋤も鍬もロクに扱えないから邪魔でしょうがなかった。同じことじゃないかね」
「同じことか?少なくとも素人の指揮官ではないはずだ。それに、直接銃を撃つわけじゃない。いち兵隊の仕事とは、大きく違うんじゃないか」
うーん、とセルゲイは唸った。唸って、少し考えた後に「おらは農奴だからあんまし頭よぐねぇんだけど」と前置きした。
「ドイツっていうのと戦争をしてるところにいる指揮官が、本当に素人だったり、あるいはツァーリから見て信用できねぇやつだったら、そりゃぁツァーリが出て行くしかないでしょ?」
ナビンスキーはまともに農作業が出来ない。だからその仕事を農奴に負わせている。
ツァーリは戦争の指揮が出来ない。だからその仕事を軍人に、貴族に負わせている。
だがその農奴がいなくなったら?
だがその軍人がいなくなったら?
…………考えたくもない想定だった。考えたくないので、ぼくはぼくが知り得て意識する限りに於いては珍しく、論点をずらして彼を説き伏せようとした。
セルゲイは農奴で、文盲だというのに!
「だがロシアのために戦っていることには違いあるまい」
「そのルーシってのはどこにあるんだい?おらは君が言うルーシが素晴らしいことは知ってるが、おらを見てくれよ。ここがそのルーシだっていうなら、おらはきっとこんな襤褸衣を着ていなくても良いはずだろう?」
ぼくは目の前が真っ赤になっていく気がした。真っ赤で真っ黒で真っ青な、ぼくには到底説明できない感情がぼくの胸と頭を染めていく。気付くと、ぼくはセルゲイに「お前はそれでもロシアに生きてる」と吐き捨てて、さっさと屋敷へ帰ってしまったのだった。
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