セルゲイとぼく

音羽ラヴィ

第1話「きたない男」

 人と獣の違いとは、何だろう。そんなことを考えるようになったときから、ぼくは全ての人間が獣にしか見えなくなった。

 ぼくのお世話をしてくれる給仕の女は、そういう本能の下に行動する獣。炭鉱で働くじじいどもは、炭にまみれることをよしとする変態生物。時おりこのくそ寒い村にやってくる道化師は、馬鹿の振りをするのが好きな気違い。

 無論、ぼくはそう思いたくて思ったのではなくて、そうとしか見えなくなってしまっただけだ。もしもこの考え方が間違っていて、それを誰かがいいや違う、人と獣とはこういった違いがあるのだ、と教えてくれるのなら、ぼくはそれを簡単に受け入れただろうし、その後は機織り機の歯車みたいに思考を取り換えて生きていけただろうが、それを指摘してくれる人はついぞ現れないし、だいいちこういったことを言うほど、他人との交流を持つことはなかったので、修正されるべきであろう考え方は15歳になる今日まで結局公表した試しはなかった。歯を磨かなかった翌日の歯垢みたいに凝り固まってしまった常識は、今や歯肉の下に確かにある顎の骨に蓄積されるように染み付いてしまっていた。


 父親がドイツとの戦争へ赴くことになったときだった。


「父上は戦争がお好きなんですか?」


 顎に蓄積された常識は、僕が思っていないところでふいと漏れた。ぼくははっとなって口を押さえたが、父上は、「嫌いだよ。だが、いけばお前たちに楽をさせてやれる」と言って笑った。

 何で笑ったのか、ぼくには理解が出来なかった。だってぼくにはその時、あの父上が“戦争の好きな生物”として見えてしまったからだ。どうやらぼくには、本当に人と獣の区別がつかなくなってしまっていたらしかった。


 父が戦争に征って、1週間ほどが過ぎた頃。ぼくはわざわざペトログラードから取り寄せた戦争の詳報を、絹の繊維に穴を見つけるような目で見ていた。父がおらず、ぼくが事実上の家主となったぼくの家はひどく大きな城に見えて、数人の給仕どもと庭師が出入りするだけで、閑散とした寒村に相応しい寂しいものだ。でもぼくはその静けさがとても好きだったし、あの厳格な父がいないことを良いことに、朝食を外の庭で摂るようになっていた。給仕どもは反対するが、何故反対するのかを訊いてみれば「それはお父上様がそう言われておりますから」と宣うばかりで、論拠がない。ぼくは呆れて「きみたちがいま仕えているのはお父上ではなく、このぼくだ」と言いつけると、給仕どもの一人が泣き崩れたものだったが、訳が分からないのでぼくはそいつを放って食事をした。そいつはその日の昼頃には姿を消していた。大方逃げたのだろうが、このくそ寒いだけの村を出て、いったいどこで食い扶持を探そうというんだろうか。

 なるほど、きっと彼女は頭が悪いのだ。ぼくはそう結論付けて、後は気にしないことにした。


「やあ、そこの君。そのメシ、美味そうだね」


 いつもみたいに新聞を片手に、庭柵近くに置いたテーブルで朝食を摂っていると、柵の外から滑舌の悪い声がした。見ると、鍬を持った、前歯のない人間が、柵に手を掛けてこちらに乗り出している。髪は土くれが付いていて埃っぽいし、着ている服もぼろのようで、痩せた腹から肋骨が浮いているのが隙間から見える。一度モスクワに行ったことがあったが、その時に見掛けた浮浪者というものだろうか、それにそっくりな汚さだ。ただし、仕事のない人間には見えない。


「その肉、ちょっとくんない?おらぁ、これからそこのじゃがいも畑で働かされるんだが、少し寝坊したからメシを抜かれちゃったのさ」

「ベーコンのことか?」

「べえこん?よくわかんねぇけど、多分それだ」


 焼いただけの塩漬け肉を欲しがるだなんて、こいつはなんて不思議な生物なんだろう。ぼくはこいつが少し面白くなった。


「働いてると言ったね」

「ああ、ナビンスキーってやつのところだ」

「ナビンスキーか。やつに話を付けておくから、おまえ、一緒にぼくと食事をしないか」

「おお、良いんですかい。へへ、こいつは良い。貴族のぼんも、気の良いやつがいるもんだな」


 こいつには、どうやら自分の思ったことを自分の腹に止めておくだけの知能がないらしかった。



 給仕を呼びつけて食事を用意させると、ぼくは早速彼を庭に招き入れた。彼はナイフとフォークの使い方以外はろくにわかっていないようで、玉ねぎのスープをスプーンも使わずに飲み干すし、パンも鷲掴みにしてぐちゃぐちゃ食べる。ゆで卵なんて丸のみにして見せた。何と汚いことだろう、野犬が鳩を食い散らかすみたいな汚らしさだ。だがぼくにとってそれは新鮮な光景で、目を背けたくなるほど汚らわしい光景なのに、ぼくの目はそいつの食事風景に釘付けになって他所に向かわない。やがて朝食をぼくの分まで平らげた彼は、食べかすのついた口元を食べかすまみれの舌で舐め回して、水差しを直接ごくごくと飲み干すと。


「おまえさん、貴族とはいえ坊ちゃんなんでしょ?おいらみたいのなんて、お屋敷のお庭に入れて良いのかい」


 そんな今更過ぎることを言うものだから、ぼくは思わず笑ってしまった。


「良いともさ。ぼくは今、この屋敷の主みたいなものなのだからね。ぼくへの文句は、ドイツ人をやっつけている最中の父上にしか言えないさ」

「へえ、君、面白い奴だね」

「それより、おまえ。名前はなんだ」

「おら?名前かぁ、なんだっけなぁ」


 ふけかつちくれかわからない、木屑みたいな白い粉を吹きながら頭を掻くと、そいつは「わからん」なんて言った。


「自分の名前が言えないのか?」

「いやぁそれが、ナビンスキーの農場でも“おまえ”としか呼ばれたことがねぇからなぁ」

「へぇ、不思議だ。名前がないのか」

「そうなるんじゃないか?」

「それならぼくがお前に名前をやるよ。そうだな、セルゲイってどうだろう」

「へへっ、君は変わりもんだね。セルゲイか。意味はよく分からないが、良い名前だ!農奴にゃもったいねぇことだが、有り難く頂戴するぜ」


 それがぼくとセルゲイの馴れ初めだった。

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