第41話 異界
個人で旅行に来ている訳ではないから、泊まる宿は最初から決まっている。こういう時、学校による団体だから仕方ないと言えば仕方ないのだが……割と安っぽい宿に泊まらされるのが少しだけ気に入らない。勿論、設備が悪いとかそういうことではないのだが……もっと沢山のサービスがついている宿に泊まりたいと考える人間なんだ……こういう所で金を渋っても気持ちで損をするだけというのが僕の個人的な考えだ。
大浴場でさっぱりしてきた僕が寝間着で炭酸ジュースを飲んでいると、ふわりと甘い花の香りが鼻をくすぐった。不意に背後に視線を向けると、廊下の向こう側で白と紅のなにかが通り過ぎるのが見えてしまった。
「なんだ?」
何故か、僕を呼んでいる気がする。頭の中では、そんな危ないものを追いかけたらまた変な悪霊に絡まれることになると思っているのだが、もう一方ではついていくべきだと誰かが囁いてくる。京都は場所によって霊的な現象をよく感じると言われているけど、不思議と恐怖感はなかった。
「ちょっと、何処に行こうとしてるのよ。そっちは一般宿泊客が泊ってるわよ」
「え?」
ふらっと足を前に踏み出した僕の手を掴んだのは、藤原さんだった。
「藤原さん……今の、見た?」
「は? 今のって……廊下の奥のこと? 別に何も見てないけど……もしかして、また霊でも見つけたの?」
藤原さんなら俺と同じものを発見したんじゃないかと思ったんだが、そうでもなかったらしい。洋風のホテルみたいな廊下で、扉が左右にあって部屋が広がっているが、所々に畳が使われていたりする一般的な日本人の想像する宿泊施設みたいな場所だ。特に異常はないと思うのだが……ずっと僕の頭の中で誰かが呼んでいる。
「行かなきゃ」
「はっ!? 普通に考えて危険な存在に決まってるでしょ!? 京都なんだからもうちょっと警戒しなさいよ!」
「でも、呼ばれてるから」
「っ! よっぽど波長が合っているのね。呼ばれてるってのは危険な兆候よ。そのまま進んだら二度と戻ってこれないかもしれない……それぐらいに危ないことなのよ? あぁ、もう……肝心な時に貴方の用心棒は何処よ!」
「私は用心棒じゃないです。蓮太郎さんの妻です」
「うわっ!?」
藤原さんが頭を抱えているなと思ったらスズがすぐ傍にいた。
スズが現れた瞬間に、僕の頭の中に響いていた声が消えた。もしかして、スズの存在を恐れて消えてしまったのだろうか。京都で僕を誘うような存在がスズの存在だけに恐怖するなんてこともあるのか?
「なんでもいいですけど、いつまで手を握っているつもりですか? まさか横恋慕ですか?」
「違うわよ! 貴方の大切な旦那様が危うく連れていかれそうになっていた所を助けてあげたんだから、逆に感謝して欲しいわ」
「問題ありませんよ。黄泉に連れていかれた程度だったら普通に連れ帰りますので」
「…………問題しかないわよね?」
「うん、流石に問題だと僕も思う」
そこは藤原さんに賛同しておく。黄泉に連れていかれた存在を連れ帰しに戻るって……創世神話じゃないんだから、そういうことはあんまりしない方がいいと思うの。
「そうですか? では私も一緒に黄泉に堕ちますから」
「うん、それならいいかも」
「頭おかしいんじゃないの?」
失礼な……死如きで別たれるほど僕たちの愛は軽くないってことだ。
スズは本来ならば自らの力だけでこの世界に身体を持って存在することができない。御神体が存在している白蛇神社の境内の中、神棚が置かれている僕の家を中心とした街中、そして信者である僕の傍でしかまともに動くことができない。今は僕の私有物を借りることでなんとか別の部屋でも動けているらしいけど……やはり普段よりは動きが鈍っているらしい。
ちょっとスズのことが心配で眠れなかった僕は、水を飲もうと鍵を手に持って部屋の外に出たら……再び廊下の奥でなにかが通り過ぎるのを見た。
「おいで」
「っ!」
明確に、言葉で誘われた僕は財布と鍵を握りしめて……誘われるままに歩き出した。
今度は正気を失ってなどいない。ただ……僕をこうもしつこく誘ってくる存在に対して疑問が湧いたのだ。通常の悪霊ならば僕に纏わりついているスズの気配だけで逃げ出し、頭がイカレている悪霊でもスズと一度でも相対すれば二度と僕の前に姿を現すことはない。しかし、現在進行形で僕を誘っている影は……スズのことを認知しながら僕を誘っている。
「もっと、おいで」
足を進める度に重くなっていく気配と、遠のいていく世界。いつのまにか僕は異界に迷い込んでいたらしい。なにせ、振り向いたら……部屋の扉がついた宿の廊下が無限に続いていたから。
勇気を持って前に足を踏み出し、ついに辿り着いた行き止まりの壁。左右に別れる道の右には非常階段があり、左には何もなかったはずなんだけど……左側の壁に襖があった。
「……これを開けろってことかな?」
僕を手招きしていた影は既にいない。恐らくはこの襖の向こうに入れってことなんだろうけど……異界に人を引きずり込んでおきながらまだ手を出してこないってことは、僕を殺すことが目的じゃないのかもしれない。
誘われているのだから、と無駄に強気になって襖を開けると……ガラッと景色が変わった。
「温泉、宿?」
開いた先に広がっていたのは滅茶苦茶大きな旅館。慌てて振り返った先にあったのは僕が入ってきた襖で、ゆっくりと閉まっていくのが見えた。
異界から更に別の異界に誘われた……手招きしていた存在の目的は、僕を自分の領域に引きずり込むことだったのかもしれない。京都は様々な神が領域を広げている場所だろうから、きっと表で僕を食うことに対して何かしらの制約があったのだろう。だから……僕をここまで誘き寄せて食うことにした。ここまで踏み込んでしまったら、僕に残された命はほんの僅かだろう。
諦めの境地で息を吐き、旅館の中を進むと廊下が組み変わるようにして動き出し……僕の前に大きな襖が現れた。ガラッと無遠慮にその襖を開けると……そこには人が座っていた。
「む? おぉ、やっと来たか……遠慮なく座れ」
「……は?」
見覚えのある白髪に紅の瞳……一点の汚れも無いような純白の和服がはだけ、母性的なんて言葉では表せられない豊満な胸の上部と見る者を狂わせるような美しさの白い肩が惜しげもなく晒されている。床につくほどに長く伸びていながら先まで丁寧に手入れされているであろう白髪は照明を反射して美しく光り輝き、宝石よりも澄んだ紅の瞳は呆然と立ち尽くす
「どうした? 立っているだけでは話もできんだろう?」
「あなた、は……」
「そこが気になるか?」
くすくすと笑う姿を一つ切り取ってもあらゆる男を篭絡させるであろう仕草。どろりと脳に花の蜜を直接垂れ流されたかのような甘い声と雰囲気に、僕は恐怖を感じた。恐らく、目の前の女性は指先一つで僕を手玉に取り、堕落の沼へと沈めることができる。彼女は……傾国の美女と呼ばれる存在だ。
「ほぉ……妾の姿を見て、言葉を聞き、匂いを嗅ぎながらも理性を保つことができるとは、随分と好い者を見つけたのだな。通りで会わせたがらぬ訳だな」
酒を飲んでいるのか、雪のような白い肌が少しだけ火照っている。悩まし気な身動ぎ一つでこちらの理性をガンガンと揺らしてくるその艶めかしい動きは、甘い罠そのものだ。
「そう警戒するな、妾も少し遊びすぎだな。なに、お主にここまで来てもらったのは他でもない……妾の大切な愛娘の話を聞きたいと思ってな?」
やはり、僕の目の前にいるこの人こそが……スズの母親。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます