第1話

 その道は、瑞歌が重い荷物を背負って何百回と通った小学校から我が家に至る路地だったが、その日はいつもとは異なり真っ赤なランドセルの中はほとんど空だった。

夏休みを明日に控えた学校は授業らしい授業もなく、終業式など誰かの話を聞いているだけで昼に帰宅となった。


 七月下旬の昼下がりは普段帰宅する夕方以上に肌に差す光が痛かったが、背中に圧迫感がない分、身体全体で感じる暑さはいつもよりましに思えた。それでも流石夏と言うべきか、太陽に照らされたコンクリートはそれ自体が熱せられた鉄板のようになっていて、そこから立ち上る陽炎は街全体を揺らしていた。


 早く帰ろう。


 瑞歌は額から噴き出す汗を手で拭いながらそう思った。肩に少しかかる位の髪は溢れる汗により少しべたついていたがふわりと膨らんでいて、病的に白い顔を小さく見せた。その繊細な顔は西洋人形のような美しさと冷たさが両立しており、特に、氷を滑らかに削ってはめ込んだような切れ長の青い目がその印象を強くしていた。その一方、目は、触れるだけで壊れてしまうような繊細さも内包していた。


 普段からこの路地には人通りがあまり無かった。辺りに住んであろう人とたまにすれ違うだけで、巣で騒ぐ鳥の雛のような喧噪も蚊柱のようなうっとうしさもこの空間には存在しなかった。道を囲む家屋が静かに佇み、どこからか生活音が響くだけの空間は瑞歌にはとても居心地がよかった。


 しかし、小学校にて彼女が通わなければならないクラスである四年三組はこれとは真逆だった。生徒のほとんどは悪童のように教室を走り回り、いたるところで雑談に花を咲かせるのである。休み時間だからか担任の教師もそれを咎めるようなことはせず、ただ無気力に眺めるだけで生徒には一切干渉しようとはしなかった。その空気は針のように瑞歌に突き刺さり、体を丸めて本の世界に没頭することを奨励するのである。時折目を上げて喧噪の中心を眺めてみても、絶えず響く足音を含めて彼ら彼女らは同じ生命体とは思えなかった。


 そう、今、瑞歌に聞こえるこの音である……。


 イレギュラーな音によりリラックスしていた彼女の体は強張り、恐怖でおののいた目と共に反射的に振り返った。こちらに向かって走ってくる、腕に沢山の荷物を掛けた少女が瞳に映った。


「あれ、瑞歌ちゃん?」


 息は上がっているが、何か不思議がるような声だった。


常にクラスの喧噪の中心であり、太陽のような明るさを持つ東風夏華ひがしかぜなつかが暑さで頬を赤らめながら瑞歌のすぐそばに近づいてきた。瑞歌の目に張り付いた恐怖はより強くなり、夏華から目線を外して斜め向こうの家屋を見るように強制した。


「そう、だけど」


 瑞歌が弱弱しくつぶやくと夏華はいきなり瑞歌の手を取った。火照った体の熱が瑞歌に伝わった。


「かなりめんどいことに付き合ってほしいんだけど、いい?」


 温柔な深紅の唇から突拍子もない言葉が飛び出した。瑞歌はいきなりの事に驚いて、気づいたら夏華の真剣な眼差しを見ていた。あどけなさと大人っぽさが混じった赤く丸い瞳は瑞歌が視線を外すことを許さない凄みがあった。可愛らしい顔と調和しているその目は微かに潤んでいた。透き通るような彼女の長いブロンドの髪から溢れた鈴の音の香りが瑞歌の鼻腔をくすぐった。


「分かった……」


 小さな声だったが、自分でも驚くことに、瑞歌はいつの間にか夏華の頼みを了承していた。


「良かった、ありがとう!」


 夏華は屈託のない笑みを浮かべるとつづけた。


「それで付き合ってほしいことなんだけど……あ、その前に瑞歌ちゃんのランドセルって空っぽ?」


「ほとんど何も入ってない」


「良かった。それじゃ、今から教室に戻って荷物運ぶの手伝ってほしいんだ」


「えっ」


 確かに面倒なことに付き合わなければいけないが、少女を驚かせたのは今から学校に戻るということだった。


「放課後教室には入れないって先生が……」


「入ったことがばれなきゃ入ってないと一緒」


 夏華は笑っていた。


「もし私が誰かに見つかっても瑞歌ちゃんの事は話さない。瑞歌ちゃんが誰かに見つかったら私の事を話してもいいって条件でどう?でも一応共犯者だから後で先生に言うとかはお互い無しで」


「うん……」不安はあったが断り切れず、瑞歌は頷いた。


「じゃあ決まり。レッツゴー!」


 そう言うと夏華は、瑞歌の目を一瞬だけ見つめて彼女の手を再び取って走り出した。瑞歌は急に引っ張られたせいで転びそうになったが、夏華に手を強く握られていたため転ばずに済んだ。


 彼女は夏華に何か言おうとしたが、言葉がうまく纏まらなかった。ただ必死に夏華の背負う薄い紫色のランドセルを追うだけだった。


 二人はひたすら駆けて小学校に向かった。しかし小学校に近づくにつれ、二人の足取りはどんどん遅くなっていき、真っ黒な鉄格子の校門の前に着くころにはただ手を繋いで歩いているだけだった。二人とも滝のように溢れた汗により体全体がびしょびしょになっていた。


 彼女らの通う豊枝小学校は閑静な住宅街の中に立っていた。真上からやや傾いた太陽が、濁ったミルク色の巨像を汚れも含めて孤独に浮かび上がらせていた。


「じゃ、行こう」


 普段の喧騒のない学校をぼんやり眺めていた瑞歌から手を離し、いつの間にか夏華は校門の錠を開けていた。彼女が横に思い切り門を引っ張ると、錆びた鉄が擦れる音が雷のように辺りを貫いた。瑞歌が思わず目を閉じた一瞬の間に人が一人通れるくらいの隙間が空いていた。


 深呼吸をした後に夏華が学校の敷地に入るとクルリと振り返り、笑顔で瑞歌に手招きした。彼女は黙って頷き、躊躇いもせずに進んでいく夏華の背中に付いて行った。汗で濡れた肌を風が通り抜ける感覚が瑞歌にはとても冷たく感じられ、心臓の鼓動をより一層強くした。


 校門からすぐ近くにある昇降口は幸運なことにまだ鍵が閉まっていなかったため、二人はそこから校舎内に潜入した。校舎の中は電気がまばらにしかついておらず、窓からの光もごくわずかだったため夏華は「暗」と呟いた。


 二人は誰のものかも分からない下駄箱に靴を入れると、足音がしないように靴下のまま廊下を歩いた。わずかに埃の積もった廊下の冷たさが直に足に伝わり、二人は少し跳ねるように歩いて三階の教室へ向かった。


 夏華を先頭に、息をひそめて歩き続けると二人は誰にも見つからずに教室まで来ることができた。教室の戸の上に掲げられた『四年三組』と書かれた紙に安心感を覚え、瑞歌は息をついた。


「じゃあ、さっさと終わらせよう」


 夏華は小声で言うと教室に入って行った。瑞歌もそれに続いた。


 西側を向く窓が、太陽からの光を全て教室に注ぎ込んでいた。きれいに並べられた三十個ほどの机と椅子は必死にその熱光線に耐えていて、同じ大きさの影が床に伸びている。先ほどまでの暗さとの落差で瑞歌は顔をしかめた。


 教室は二人だけだった。宙を舞う塵が光を浴びて回っていた。塗りたてのワックスのにおいが教室に満ちている。教卓の上に乱雑に積まれた書類の束と、白いチョークで大きく『なつやすみ』と書かれた黒板を一瞥すると瑞歌は机の上にひたすら教科書を並べている夏華の元へ向かった。


「これランドセルに入れて運べばいいの?」


「そう。持って帰るのめんどくさがってたらめっちゃ溜まってた」


 机の中に詰め込んでいた物を全て取り出すと夏華は恥ずかしそうに笑みを浮かべた。


 分かった、とだけ言うと瑞歌は適当な机にランドセルを置き、夏華の教科書を詰め込み始めた。


 暫くすると、夏華が話しかけてきた。


「ねえ、なんで私に付き合ってくれたの?」


 教科書に悪戦苦闘していた瑞歌が顔を上げると、彼女は誰かの椅子に座り、忘れ物入れに入っていた赤ペンを不器用に回していた。


「あぁ、嫌味とかじゃなくてね。私たち仲いいどころか、多分話したこともないじゃん?だから気になって」


 遠くから聞こえる鳥の声を聴くように夏華は首を傾げた。


 柔和な笑顔を浮かべる彼女に対して膝立ちの瑞歌は静かに「なんとなく」とだけ返して再びランドセルの方と向き合った。


 夏華の目に好奇の火が宿った。彼女は立ち上がるとペンを近くにあった教卓の上にのせて瑞歌の方へ近づいていく。夏華は自分のわがままに付き合ってくれたことに関して瑞歌に感謝していたが、その理由を語らない彼女に得体の知らない冷たさを感じた。その幽霊のような冷たさを、生者の熱さに変化させたいと思った。


「瑞歌ちゃんって髪綺麗だね」


 夏華は瑞歌の横の机に座った。瑞歌は何かを言おうと思ったが、良い返しが全く思いつかず黙りこくって最後の一冊の教科書を入れようとランドセルに向き合った。


「雰囲気もミステリアスで、意外と横顔がかっこいい」


 瑞歌は言われている言葉の真意をつかみかねて、夏華の方を見上げた。すると彼女は瑞歌の右耳を優しくつかんだ。瑞歌は反射的に夏華から体を離そうとしたが、それを夏華は許さなかった。真っ直ぐ伸ばされた腕の先で、夏華はヴァイオリンの音色のように美しく、妖しく笑っていた。彼女の頭の後ろで輝く太陽が瑞歌には後光に見えた。


「接点無い人を手伝うくらい優しい」


「急に何……なにが言いたいの……?」


「私の事好きなのかなって思って。私、男女関係なくよく告白されるからそういうの目ざといよ?」


 彼女は瑞歌の耳たぶをぷにぷにと触りながら平然と言った。


 瑞歌の顔はみるみるうちに赤くなり、耳を掴んでいた夏華にもその熱は伝わった。からかいの対処方法を知らなかった瑞歌は彼女から視線を外して押し黙るしかできなかった。


 謂れのないことで怒られた子供がじっとこらえているかのようなその様子を見て、本当に「なんとなく」手伝ってくれていることを夏華は悟った。彼女は瑞歌の頭を撫でた。


「冗談。からかってごめん」


 そう言って夏華は最後に残っていた理科の教科書をランドセルに無理やり詰め込んだ。


「ばれないうちに帰ろ」と言って夏華は手を差し出した。


 瑞歌はその手を取って立ち上がり、すっかり重くなったランドセルを背負った。


 まるで何もなかったかのように無音の教室を後にし、二人はそそくさと昇降口へ向かった。


 その後二人は誰にも見つかることなく首尾よく校舎を脱出し、夏華の自宅への道を歩いていた。風が、並んで歩く彼女らの汗で湿った髪を揺らした。


「瑞歌ちゃん、よく教室で本読んでるよね」


「あ、うん」夏華が教室の影の事もよく見ていることに瑞歌は驚いた。


「なんかおすすめの本とかない?読書感想文で読む本決まってないの」


「それだったら『怪人二十面相』とか『シャーロックホームズ』とかおすすめ。面白い」


「おっけ、ありがと」夏華は可愛らしく微笑んだ。


 よく笑う人だと瑞歌が思ったとき、また夏華に手を握られた。夏華はこっち、と言って道を曲がった。


「私の家ちょっと分かりにくいとこにあるから、ちゃんとついてきてね」


「分かった」


 瑞歌は夏華に連れられ道を進んだ。ひたすら歩いていた最中も、夏華は時折瑞歌に話しかけた。学校の事や、夏休みの予定の事を二人は話した。瑞歌は自分でもうまく話せているとは思わなかったが、それでも夏華との会話をとても楽しく感じていた。触れたら火傷してしまうと思って遠くに追いやっていたクラスの中心人物は、自分より平熱が若干高い優しい人だった。


 何度も曲がった先に、一つのマンションの前に二人はやってきた。二階建ての住居が多いなかで目を引く灰色のこの建物を瑞歌は見上げた。


「ここの四階だから」と言い、夏華はマンションへ入って行った。


 二人はエントランスを通り過ぎ、その先にあるエレベーターで四階へ向かった。

四階に着くと「こっち」と言って夏華は歩いて行き『404』と書かれたドアの前で立ち止まった。彼女は鍵を開け、瑞歌を家に入れた。


 夏華は瑞歌に教科書をそこら辺の床に置くように言うと自身は靴を脱ぎリビングに走って行った。


 瑞歌は教科書を引っ張り出しながら辺りを見渡した。オレンジ色の光で照らされた小さな玄関からは細い廊下が伸びていて、そこに幾つかのドアがあった。廊下の先にある唯一磨りガラスのついた扉は夏華により開けっ放しになっていて、木製の楕円形のテーブルと三つの椅子が見えた。


 瑞歌が最後の一つの教科書を取り出したところで夏華が戻ってきた。


「それで最後?」


「うん」


「そっか、おつかれ」と言って夏華は瑞歌にペットボトルを差し出した。中には麦茶が入っていた。


「喉乾いたでしょ?今日のお礼」


「ありがと」


 瑞歌は持っていた教科書とペットボトルを交換するとそれをランドセルの中に入れた。手には冷たさだけが残った。


「あとこれも」と言い、夏華は四つ葉のクローバーとシロツメクサの花の絵が描かれた栞を渡した。


「四つ葉のクローバーの花言葉は『幸福』でシロツメクサは『約束』」


 夏華は博識ぶるように言った。


「それ秘密の証だから、今度会ったとき返して。それまで今日の事は二人だけの秘密って約束してもらっていい?」彼女は唇に人差し指を当てて笑った。


「分かった」


 瑞歌は栞をランドセルに入れると夏華と指切りげんまんして、彼女の家を後にした。


 慣れていたはずの独りぼっちの帰り道が、彼女には無性に寂しかった。


 瑞歌が家に帰ると父も母も仕事で留守だった。リビングのテレビをつけるとグルメ番組が映った。瑞歌はソファーに座り、麦茶をランドセルから取り出して口にした。暑さでぬるくなっていたが、のどを潤すにはちょうど良かった。


 テレビは鮮やかな赤い身を晒すスイカが特集されていたが、瑞歌はそれに目もくれず、貰った栞をじっと眺めていた。


 初めて得た人間関係が形をもって指先に存在していた。長方形の紙は、実用性以上に神秘性を有しているように思えた。その脆さと美しさは、今まで読んできたどの本にも描かれていないものだった。


 紙一枚とそれに付随する秘密だけが二人を結ぶものだったが、それでも口下手な自分があの喧噪の中心と繋がりを持てたのである。教室のけたたましさに気圧されて本の世界に逃げ込まなくても許される将来を夢想すると、彼女は心の底から安心できた。


 瑞歌はランドセルの奥から読んでいる途中だった本を取り出すと、今まで使っていた黒猫が描かれた栞を貰った栞に替えた。


 彼女はテレビを消すと飲みかけのペットボトルを冷蔵庫に入れ、本を片手にランドセルを背負って自分の部屋に行った。


 夏休みは四十回ほど太陽と月が回ったころに終わった。瑞歌にはただ宿題と読書のための時間に過ぎず、しかし夏華に会える日が近づくにつれ、退屈が募り時間の進みが遅く感じられた。


 八月三十一日の夜、明日の学校の準備を終えた瑞歌は自身でも口角が上がっている事を理解していた。


 夏華に会える。あの明るい笑顔が見れる。おすすめした本は読んでくれたかな。そうだ、明日は早めに学校に行って夏華がほかの人に囲まれる前に話しかけよう。栞もしっかり返さなきゃ。


 暗い部屋の中、ベッドに寝転がった瑞歌の心は幸福に満ちていた。孤独の氷を溶かす優しい感情はすぐに彼女を安眠へ導いた。


 翌日、逸る気持ちを抑えながら軽やかな足取りで教室に一番に入ってきた瑞歌は自分の席に座ると本を開いた。しかし本をめくる手は一向に進まず、目線は迷子のように本に挟まれた例の栞と次々と人の入ってくる扉を行き来した。


 教室は人が入るにつれて静けさを失い、気温は高まっていた。もう教室に空席はほとんど残っていなかったが、それでも夏華はまだ姿を見せなかった。瑞歌はとうとう本を閉じ、緊張を紛らわせるように手遊びをしながら扉をじっと眺めた。朝礼の時間が刻一刻と迫り、入ってくる生徒は駆け足気味だった。窓の外にはそのまま落ちてきそうな黒い雲が空を埋めていた。


 周りの話し声に耳を傾けると皆、夏華が来ないことについて話し合っていた。風邪なのか、寝坊なのか、全員分からないようだった。


 結局夏華の席以外すべて埋まり、チャイムが鳴ると眠そうなジャージ姿の担任が入ってきて扉は閉められた。


 誰かが担任に尋ねた。


「先生、夏華が来てないですけど風邪ですかー?」


「ああ、それについてなんだが」担任は苦虫を嚙み潰したような顔をした。それを見て、瑞歌の内に巣食っていた緊張感はあっという間に不吉な予感に姿を変え、冷たく彼女の背中をなぞった。


「夏華は夏休みの内に転校した」


 担任が言い終えないうちにクラスはどよめいた。全員、寝耳に水だった。瑞歌も思いがけず「え」と言葉を漏らした。


「静かに、静かに」


 担任が手を叩きながら宥めるように言うと全員黙って担任の方を向いた。


「転校は夏休み前から決まっていたが、夏休みの前にみんなを悲しませたくないという夏華の意思でみんなには黙っていた。夏華から手紙を預かっているから、後で黒板に貼っておく。読みたい人は各自読んでくれ。それじゃ日直、号令」


 状況をまだ理解しきれていない日直の震えた声からこの日の学校は始まった。


 瑞歌も理解しきれていなかった。机の上に置きっぱなしになっていた本から覗く栞が目に入った。


「今度会ったとき」とはいつだろうか?分からない。自分が街から離れることを知っていながら言ったのか?そうだ。それならなぜ「秘密の証」なんて渡したのか?分からない……。


 騙し絵の迷宮に迷い込んだかのような答えの出ない問いばかりが頭を巡った。ふと辺りを見渡した。教室に暗い絶望が満ちていた。曇り空の重苦しさもこの教室の暗さが根源に思えた。


 全ての授業が終わって放課後になった。瑞歌は肉体の主導権を誰かに奪われて、ずっとぼんやり眠っていたようだった。しかし心臓の奥を握りしめられたような痛みが全身を走り、目だけははっきりと覚めていた。


 今日の教室はずっと静かだった。夏華がいないからだ。本物の太陽のように彼女が皆を惹きつけて照らし出すのだ。


一日中、あの彼女の笑顔がずっと瑞歌の心象にフラッシュバックしていた。二人だけの時間に自分だけに向けられた優しい笑顔。僅かな、それでも幸せな時間だった。偶然手に入れたそれを思い出す度に絶望の衣がゆっくり離れていき、心が明るく晴れるのである。


 だが夏華はもうここにはいない。静かな教室がそれを知らせた。


 もう帰ろう、と思い瑞歌は立ち上がってランドセルを背負った。暗い教室には数人しか残っていなかった。


 とぼとぼと家に帰ると彼女は暗い廊下を通り抜けて自分の部屋に入り、ベッドに腰かけた。ランドセルは雑に放り投げられ、手には栞が壊れないように優しく握られていた。


 もしあの時、夏華の頼みを断っていたら今の自分の感情はどうなっていたのかという意味もない質問が脳裏に浮かんだ。


 後悔もしないで話したことすら忘れただろうな、と彼女はすぐに結論がでて苦笑した。


 それなら今のこの絶望は?


 外では重苦しかった雲が自重に耐えきれなくなり雨に姿を変化させて次々に落ちていく。雨音が彼女を思考の渦へ誘った。


 手に入れたつもりになっていた人間関係が消えたから?喧騒の恐怖から解放される可能性が潰えたから?「秘密の証」を返せなかったから?たった少しの時間だけだったのに孤独が怖くなったの?それとも……?


 瑞歌の心には行動、考えの軸として人間生活を通じて作られるはずの信念がなかった。それにより、彼女の考えは消えゆく雪のように形のないものしか生まれなかった。


 気が付くと笑みは消え失せ、栞は強く握られて歪んでいた。彼女が折曲がった紙を見ると呼吸は俄かに早まり、無意識のうちに手を開いていた。ひらひらと舞った栞は瑞歌の足元に落ちた。


 栞は少し折り目が付いていたが、気になるほどではない。


 瑞歌は何故今自分が手を離したのか、落ち葉のように佇む栞を眺めながら自問した。


 思考を巡らせても、絶望の衣が彼女の首を絞めて答えは出せなかった。ただ心が苦しくなるばかりだった。


 もし夏華に会えたらこの問いの答えは出るのだろうか……?


 その望みに賭けたのか、また瑞歌の心象に夏華が現れた。まばゆい光彩により逆光になっていてその表情は見えない。


 笑顔が見たい。


 思いがけず生まれた思い出を余すことなく再現しようと過去に手を伸ばす。ふと記憶が囁いた。


「私の事好きなのかなって思って」


 瞬間、夏華の妖しく、なまめかしい表情が光の合間に見えて現実に引き戻された。


 瑞歌は頬が紅潮して動悸が激しくなっていることを自覚した。簡単な答えが心に現れた。それは今まで目を背けていたのか、今だけの気の迷いか判断が付かなかった。


 困惑の色が現れた彼女の瞳に映る緑色の栞は微動だにしない。


 しかし、難問の解により彼女の心は憂鬱から逃れて全く別の景色を見ていた。心は、ある一つの感情のために四方から炎が噴き出す場所にいた。


「好き」


 拾い上げた栞に口付けをし、彼女は呟いた。雨に抑えつけられる、今にも爆発しそうな空間に独り言は小さく消えた。

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