月に叢雲、華に歌
春景梢
プロローグ
記憶を観覧するときの形式は何だろうか。映画なのか、演劇なのか、人によって様々だろうが、
桜井瑞歌はこれまでの人生において友好、恋愛といった事柄とはほとんど無縁の人間だった。口下手で会話を弾ませられない彼女にとってそれは遠くの地の奇祭のようで、学校ではその空間を壊さないように本を読み、孤独で堪えるしか人間関係を知らなかった。気が付くと義務教育を終えていたが思い出らしいものはほとんどなく、目立った人間らしい精神的な成長もなかった。それにより彼女の性格は暗くもなれず、とらえどころのない透明だった。
彼女は引っ越したばかりでまだ見慣れない壁を、自身の黒い髪をいじりながら眺めていた。
中学三年生のある日の夜、高校は思い切って東京に行ってみないかという、何かに期待するかのような眼差しと共に父から伝えられた言葉は彼女をとても驚かせた。キッチンからの水音が止まり、リビングは時が凍ったような静寂に包まれたが、瑞歌は「いいんじゃない」とだけ言って自室に行ってしまった。皿を洗う手を止めた瑞歌の母は自身の指先より冷たいものを娘の内から感じ取っていた。最終的に彼女は東京の高校を受験して無事合格した。
前の家から持ってきた本棚が彼女の知らない表情をしている。時刻は午前二時を少し過ぎたほどで、彼女が腰かけるベッドにカーテンの隙間からから差し込む街灯しか光はなく、部屋は暗闇だった。
明日から高校生活が始まる。
その緊張とストレス、そしてほんのわずかな希望により彼女は全く寝付けずにいた。様々な黒い感情の中、特に彼女を苦しめたのは希望だった。透明を赤く色づかせる、あの子に会えるかもしれないという希望で、叶えてほしい妄執。
彼女はベッドに手を這わせて枕を捕まえると、それを抱きしめてごろんと寝転がった。心の奥を思い切り握られたような感覚が体を走っている。
あの子を思い出すたびに記憶の書を開きたくなってしまう。巨大な恒星の引力に引かれる彗星のように記憶の書を手に取る。
過去にすがる情けなさから目を背け、彼女は瞼を下ろして栞が目印である本の中にて唯一朱で記された章を読むのだった。
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