序章……(二)【切迫の神域】


 ◇◇◇




 ――そこは神域。名を、シンタニタイ。

僅かに残った人の生存圏を囲う、帯状の境界きょうかい

人世ひとのよ泰平たいへい謳歌おうかし、此土セカイの真実を忘れてすこやかに存続する為の揺籃ようらん統巫トウフの繋ぐ、世の結び目。


 ――神域シンタニタイ、そこに点在する要地。

各々の統巫トウフが住まうやしろを、統巫屋トウフヤと言う。


 そんな統巫屋トウフヤの中でも、一際に辺鄙へんぴな場所に位置するため閑散とした、ある統巫屋トウフヤ

 平常では統巫トウフの資格を持つ娘とその身内、仕える少数の民がつつましく暮らしているそこに。ある時、何の前触れも無く災禍が振り掛かった――。




 ◇◇◇




 ――夜深けの廊下に、足音が響く。


「――姉様っ! ハァ、ハァ……っ!」


 統巫屋、その境内の中心にある本殿。

 身体に狐のような耳や尻尾といった特長を持つ半獣の少女が、それはもう尋常でない様子で長い廊下を駆けて来て、襖を引き、声を張り上げる。


「――姉様っ!!」


「――わぁぅ!?」


 その声に驚き、肩を跳ねさせた少女。

彼女は驚いた拍子に、それまで着付けていた帯と袴を床に落として放心してしまう。


 髪と被毛の毛色が異なる以外は、人外の特長も含めてほぼ瓜二つの容姿をした姉妹だ。


「姉様っ!! 大変なのっ!!

下着姿でのほほんとしてる場合じゃないよ!」


「のほほん……?」


 襖の前にいる妹をちらりと見る姉。

呼吸を整えながら、落ち着きのない妹。


「姉様っ!! ソラシロ姉様っ!!」


「驚かさないで、ヨシラ。私も気が付いてます。

……なので、急いで準備をしてるところなの」


 名を呼ばれた姉は、装束を正して振り返る。

『準備をしてる』と妹を安心させ、笑顔。その姿は落ち着き払っているようで、けれど隠しきれない感情が妹には分かってしまう。なんせ姉は顔が青ざめており、全身を震わせていたから。


「結界を越え、嫌な何かが入り込みましたね。

この場所に害をもたらすような何かが。……でも今も結界にはほころびなんて無いのに――」


「姉様、そんなことまでわかるの?」


「未熟な身とはいえ、私はここの統巫。

この身はこの地の脈と繋がっていますから。ヨシラにも教えた事があったでしょう?」


「ねぇ……入って来たモノの、目的とか。

場所とか。姉様はどこまで詳しくわかるの?」


「残念ですけど、今言った程度までです。

……それが私の感知の限界かな」


 姉は震える腕を胸の前に持って行き。

あごに指を当てて、考える素振りをする。


「まるで内側から現れたみたいな、得体の知れぬ嫌な気配。これは……ただ事じゃないよね」


「姉様、じゃあどうするの!」


「既にここから最も近い統巫屋に『救援』を求める文を送りました。お隣さん、あの場所とは色々とありますが、困っていれば必ず助けてくれます。けれどどんなに急いで来てもらっても、こことの距離からして半刻いちじかんは掛かりますから。……えーと、つまり直ぐに助けは望めないってことだね」


「どうすんの!?」


「ははっ……どうしよ」


 困ったように苦笑いを浮かべる姉。

それは妹に心配をさせまいとする強がりで。


「笑い事じゃないよ!?」


 姉の装束の袖を引き、急かす妹。

そんな姉を助けなければと、こちらも強がり。


「私が時間を稼――」

「んもうっ! だったら早く逃げないと!

早くっ!! 一緒に逃げよう……姉様っ!!

黒い大きなにょろにょろが暴れてるから!!」


「にょろにょろ? それは恐ろしそうですね。

外から隔絶されたここに干渉し、あまつさえ侵入している以上、まともな存在でないと分かる。んでも……だけど私はここの統巫だから。逃げたりなんてできない。やれる事をしなくちゃ!」


「はぁ、なんで!? 姉様っ!!」


「だから。それは、私が統巫わたしだから。

統巫として……守れるなら。この身でできる限り守らないとね。ここは捨てられない。繋いで来たものと守るべき意味がある。私達はそういう存在」


「……なに言ってるの。お花を咲かせるくらいしかできない姉様が、なに言ってんの!! もしかしたら母様みたいに死んじゃうかも知れないんだよ?! 他人を庇って一人で背負って、バクって食べられて何も残らない! そんなのやだよっ!!」


 妹には、姉よりも優先するものが無い。

だというのに姉は、自身以外の全てを優先する。

 役目に縛られ、逃げられもせず不安や恐怖といった感情で押し潰されそうな姉に、なのにそれでも直向きにお役目を務めようとする姉の姿に。妹は黒い尻尾を立てて叫ぶ。目を赤く腫らしながら。


「ねぇ……統巫トウフって、なんなの……?」


「それは私も、いつも頭の中にある自問で。

そしてその度に、大切な自答はたがえません」


 そんな妹を、そっと優しく抱き締める姉。


「大切な事って、言葉にするは難しいですね。

……えっと。でもこれで少し伝わるかな? 統巫っていうのは大切な誰かを守りたい存在。その為にどれだけだって頑張れるし、戦える存在かな?」


「――ッ!!」


 妹は、姉の腕を払い除けてしまった。


「伝わらない! 何もわかんないよ……!

里の皆や私の事が大切なら、姉様は一緒に逃げるのが一番でしょ?! 意味わからない。それが自由にできないなら、統巫のそんな御役目が無ければ、こんな場所なんて無ければ良ったのに!」


「悲しいことを言わないでください。

いつか、ヨシラにも分かる時が来ますから」


 姉ソラシロは、妹ヨシラの頭を撫でて。

見つめ合い、ゆっくり頷いてから手を叩く。


 それが合図だったのか。開いたままの襖から人相が悪い巨漢がヌッと入って来て、ヨシラの身を掴み抵抗をされないうちに担ぎ上げていた。


「ソラシロ様よ、良いんだなァ?

このおっちゃんに妹を浚わせてよォ?」


「ミクライ、お願いします。妹と里の人達の事は任せました。もしかしたら、これが私からの最後の命となるかも知れません。……もしも私に何かあれば然るべき対処を。手筈は整えてあるからね」


「ン御意!」


「やだ! 嫌だっ!! え、離して!!

やだ!! 行かないでよ、姉様っ!!」


 巨漢に担がれた状態で暴れる妹。が、巨漢は蹴られても殴られても意に介さない。


「どこにも行きません。安心してください。

ヨシラ、私はずっとここに居ますから!」


 姉は、笑顔で妹と巨漢を見送った。


「…………」


 見送りが終わると、姉はうつむいてしまう。

笑顔の仮面が外れてしまい、曇り顔となる。


「うん。豊穣の統巫にどこまでできるか。

……逃げたいのも本心だけど、私は戦うよ!」


 装束を正し、飾られていた小刀を携えた姉。

彼女は鞘に入った小刀を構えて、意を決した。


(周りに誰かが居ると、本気が出せない。

悲しませちゃうから、この命を使えない……)


 独白。誰にも明かしていない覚悟。

今宵、神樹に咲く花となって散る覚悟。


(どうしようもならない時は、私はこの身を、

神樹に捧げる。ここの統巫に伝わる奥の手)


 手早く、やり残しがないかを確認した後。

装束を夜風に煽られながら、駆け始める姉。


 夜闇に蠢く嫌な気配を追い。途中で発見した、何かが這って行ったような石畳の跡を辿る。


(こんな所まで……なにかの意図が?

ただ暴れるだけの存在ではない?)


 相手の正体も、目的も分からない。

 だがその災禍が、妹や里の人間達へと向いていないというのは彼女にとって幸いだった。


(あるいは、引き寄せられて来たの?

命が溢れる、この統巫屋ばしょかなめに……)


 そうして着いたのは、境内でも端に位置する樹齢数千年とも語られる堂々たる御神樹。

 その神樹には不思議な力があり。外と神域シンタニタイを隔てている『境界』を安定させ、悪いものを退ける『結界』を堅牢強固な形で固定し、常に統巫の様々な負担を肩代わりしてくれている。

 本来ならば産まれない筈の双子の統巫、その片割れの出来損ないが、仮の統巫という役目を務められていたのも実は神樹による恩恵が大きい。

 神樹とは命を溢し、様々なものを繋ぐかなめの一つ、決して損なわれてはならないもの。


 と。そこまでやって来たのだが、


(何も、居ない……? それは何故……?

気配も地面の跡も、ここに続いていたのに)


 神樹は普段と変わらない。一見、見た限りでは。何十もの人間が輪にならないと囲めない程の太幹、見上げる高さまで伸び、繁げる枝葉。伝承の時代より悠久の刻、英傑の戦巫女が果てた土地を見守ってきた古き存在。そんな神樹に近付くと、


(……何かおかしい。……え!?

し、神樹が!! 何が、起こってるの?!)


 なんと幹にひびが入っているでないか。

それに加えて樹の全体からバキバキと異音、続いてミシミシとした軋む音が断続的に響く。目の錯覚なのか実際に曲がりつつあるのか、根元から幹が湾曲して見え。大量の樹皮や枝葉が落ちてくる。なのにその異常の原因が見当たらないのだ。


(いえ。そこに、何かは居るという事ですか!

ただ普通では認識もできない存在なだけ!)


 彼女は幹にできた、いや、今なお罅と共に作られている『擦れるような跡』からそう判断。


(ならっ!!)


 見えないものを『視る』すべは持っている。


 一度目を閉じて、彼女は意識を集中させる。

そうして、統巫として必要不可欠だからと厳しい修行で身に付けた『物事の本質を見抜く心眼』で目の前の神樹を睨み、改めて視認をすれば、


「これはっ――!!」


 彼女の視界。隠された姿をあらわにしたのは、黒一色で巨大な蛇のような形をした輪郭だけの存在。


「――黒いにょろにょろ……!」


 急に込み上げた胃液にえずく彼女。

 口元を拭い、顔をしかめる。


(妹の言った通り、確かにそうですね。

それに、姿を直視しただけでこんなにも嫌な感情が膨れて……精神が蝕まれている? 呪詛?)


 とにかく、神樹と黒い蛇の対処だ。


 現在は黒い蛇が神樹の幹に巻き付き、今なおミシミシと締め上げている状況。もしそれを許したままにしてしまえば、もう間も無く、神樹にとって致命的な状態になってしまうと明らかであった。


「早く、何とかしないと!!」


 彼女は携えた小刀を抜き、自らの統べる力を限定的に使い。必要なだけ命を捧げることで、黒い蛇の排除を『神樹』へと『お願い』する。

 すると彼女に応えるよう。神樹の枝と根の一部が動き、瞬きの間。無数の神樹からの攻撃が黒い蛇の身を貫いていた。だが「なんで!?」確かに貫いてはいながら、蛇の身を傷付けられてはいない。

 何故なら、神樹が行った枝と根を使った攻撃は全て“すり抜け”てしまったから。


「そんな?! こっちからは触れられない?

向こうだけが一方的に干渉できるってこと!?」


 蛇は攻撃を受けたというのに、彼女へ向けて一度だけ鎌首のような輪郭を向けて威嚇をし。後は神樹の幹を縛るのを再開するばかり。

 まるで『取るに足らない者』とでも扱われているかのように、彼女は捨て置かれた。


「……私、では、何も……できないの……?」


 これでは、打つ手が無い。

少なくとも彼女には、直接的には。


「でも……私、私は、諦めない……っ!」


 だけれど思考は止めない。止められない。

何か、きっと手段が存在するはずだから。

 神樹を失ってしまった先、もたらされてしまうだろう結果を考えると、とても諦められない。


(そこに居るのに、そこには居ない存在……。

こちらからはさわれない半実体。転じて、物質としては不安定な存在。位相の異なる存在)


 ありったけの知識と思考を振り絞る。


(そういった存在は、此土そこに存在する為に……。

得てして、近くに寄辺よるべとなるものが必要。本体あるいはそれに準ずる何かが、すぐ近くに――)


 勤勉で聡明な彼女は何かをさとりかけ、


「――姉様」


 その思考を遮ってしまう声。


「――っ!!!」


 彼女、ソラシロは目を見開いた。

背後から、居るはずのないものの声がして。


 恐る恐る、振り向く。

嫌な気配の『大元』は直ぐ近くに居た。


「ヨシラ……どうして? ここに?」


「決まってるでしょ? あははは!

姉様と一緒に行くためだよ。だから、おじさんから逃げ出してね、迎えに来たんだよ?」


「あなた、ヨシラじゃない。いえ……!

ヨシラだけど、何かが混ざっていますね!」


 心眼で『視た』妹の姿は、半分異形いぎょうのもの。

黒い澱が魂にまで根を伸ばしていて。


「あはははっ! あはははっ!!

今さら気が付いたって、あはははっ!!」


「――っ!!」


 狂った笑みを浮かべる妹。彼女の尻尾の影は波打つように動き、黒い蛇と繋がっていた。

 姉はもっと早く気が付けた。普通では見えない蛇の姿を『視て』いた妹に違和感を抱ければ。悪意や敵意を感知し、邪なものの干渉を弾く結界で守られたここに侵入された方法が、身内に取り憑いての侵入だと察せたならば。

 もっとも、早く気が付いたところで対処ができるわけでもなく。まるで意味は無かったが。


 黒い蛇の輪郭がより鮮明になり。

鱗やその模様、口から覗く牙や、チロチロと出し入れする先の割れた舌といった姿まで心眼での判別がつくようになる。それに応じて、明らかに威圧感も増していた。取り憑いた宿主が近くに来たことで黒蛇はその存在を強めたのだろうか……?


「わたしは姉様を自由にする。蛇様あれはその願いを叶えてくれるってさ。統巫の役目が無ければ、こんな場所なんて無ければ、姉様は自由だから。わたしはその声に応えたの。願ったの……あははは!」


 背景でヨシラを追って来た巨漢が、蛇の不可視の胴体による一撃で潰され、血飛沫となった。


「あぁぁ……あぁ。なんて、ことを……」


「もし蛇様あれを、何とかしようとするなら。

尾と繋がってるわたしを殺さないと。姉様にそれができるの? できないよね!? ……違うッ違うのに。こんなの望んで無かったのに。姉様と一緒に居たかっただけなのに。姉様を困らせたくなかったのに。姉様の苦しみを、何とかしたかっただけなのに。お願い……こんなわたしを殺して、姉様は守りたいものを守って!! お願い、まだわたしが正気なうちに……殺してよッ!! あはっあはははっ!」


「止めて……嫌ぁ……!

なん、で……ヨシ、ラ……ぁ」


 無力感。喪失感。虚脱感。


 姉の決意が、矜持が、挫けた。

他ならぬ守るべきものによって屈した。


「……ぁ……ぁ……」


 小刀を放して落涙。姉の心は死んだ。

目を剥き、口を開け、崩れ落ちてしまう。


 妹はそれを見て、笑った。嗤った。

満面の笑みで泣いてから、狂気に落ちる。


「あははは!! あはははっ!!

もう全部、壊しちゃってよぉ蛇様ぁっ!!」


 蛇はその締め上げを強め、鎌首による一撃。

 何度も樹体に衝撃を与え、樹が根から傾く。


 剥がれた樹皮、形成層まで抉れ、葉が散る。

 罅は幹の全体に及び。それが致命的な損傷。


 限界を迎えた神樹の幹が、割れ、砕けた。

樹体の損傷に加えて、根の基盤が土壌から離れ、自重に耐えられなくなり。無情にも倒れていく。

 此土セカイの要である大樹が、今宵に歴を終える。


 ついに、一線を越えてしまった。


 どうしようもない事態。無為の絶望――。


 突如として降りかかった災禍、此土の危機。

神域への仇蛇。姉妹の深い絶望。絶望――。


「ぁ……助け……てっ――」


 ――しかし、訪れたのは絶望だけではない。

どんなに世が絶望に沈もうと、闇陰りが世を包もうともそれを照らした伝承の少女が居た。


 ――神樹そこは彼女の眠る場所。

幾程いくほどの願いが捧げられ、幾刻流いくときながれを積み重ね。

遂に途絶えた縁満ちて、声に応じる眠り巫女。


「――ッ!!」


 ――瞬間、倒れつつある幹が内部より爆ぜる。

闇を裂く激しい白炎が吹き出し、場を照らす。


 倒木。轟音。土埃。それらと共に舞う火の粉。

蛇は恐れるように身を引き、遠めに蜷局とぐろを巻く。


 倒木よって生じた土埃の中で、ザッと何者かが散乱する木片を強く踏み締める音がした。

 一陣の風が吹き、その足音の主が姿を現す。

 それは白く燃え盛る小刀を掲げる女性。彼女は黒き影の蛇に相対し、粛とした一声を上げる。


「あぁ、る事か……!

らば、いざ参らん……!!」


 どこか諦観してしまっているような。

だとしても、突き動かされているような。

 多くの感情を抱えながら、それを必死に隠しているような。起伏の少ない透き通った美声。


 白銀の長髪、凛と澄んだ切れ長の瞳に、白魚のようななだらかな肌、椀状の乳房、上向きに張りのある臀部、細く引き締まった体躯。

 それらを引き立てる人外の容貌。獣の耳、肩や首周り腰周りの被毛、臀部よりたなびく尻尾。そして衣類の代わりに裸体に白炎を纏わせた、見る者に畏れさえも抱かせうる高雅端麗な姿――。


 切迫した神域。白き燐火りんかを纏い、巻き上げ、舞い散らせ、縁刀エニシを高く掲げた美しき彼女。それは古に謳われし御身の再来。厄災のきざしに相対した、人を捨てて万象を統べ、理想に果てた巫女――。


 ――即ち、伝承の戦巫女の目覚めであった。


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