届いた声
雷鳴、そして怒号。
狭い路地に響いたそれらはすぐに豪雨の立てる音に搔き消される。
ついに降りだした雨が全てを塗りつぶす様だった。足音も荒い息遣いも逃げ回る姿も。
ジャニスがまだ無事でいられるのはこの雨のおかげに違いなかった。しかし、天気が悪くなったからと諦めてくれるような連中でも無い。今もジャニスの隠れたゴミ箱のすぐ脇を足音が駆け抜けていった。
少し整えることが出来た呼吸を振り絞り、ジャニスはまた走り出した。
記憶を頼りにある場所を目指して。
▽
「やれやれ、ひでぇ雨だ」
仕事を終え、アパートに戻ったラッカムはコートから水滴を振り落としながらそう溢していた。
警察を辞め、仕事を探していたラッカムはたまたま出会った祖父の古馴染だったという老人に乞われて雑誌社に入社していた。いや入社というよりは老人は後継者を探していたらしく、まんまと潰れかけの雑誌社の編集長に据えられてしまったのだ。
そこで投げ出さずなんだかんだ警察時代のコネを使ってコラムの契約を取り付けてしまうのがラッカムのラッカムたるところだろう。
小さいとはいえ会社1つ引き継ごうとしているのだ。忙殺されてここのところかなり疲弊していたが同時に充実もしていた。
「アイツ、どうしてるかね」
ラッカムはスラムで暮らしている少年ジャックのことを思い浮かべていた。妙に気になりたびたび顔を見に行っていたが、警察を辞めてからはなかなか顔を出せずにいた。
この雨はボロい空き家暮らしには辛いだろうと、少し心配になる。
ラッカムが部屋の窓から少しの間空を見上げていると、据え置きの電話のベルがジリリと音を立てた。時刻は夜中の9時頃だ。妙な時間の電話に少し面倒くさそうにラッカムは受話器を取った。
「はい、アトキンスです。ご用向きをどうぞ」
「…………」
受話器の向こうからは激しい雨音と微かな息遣いが聞こえてきていた。公衆電話からなのだろう。無言のままの電話にイタズラかとラッカムが受話器を耳から離しかけたときだった。
「……ラッカム、さん」
「ん……? その声、ジャックか?」
電話の相手がジャックだとわかると途端にラッカムは声音を明るくする。
「おぉ、どうした? 何かあったか?」
「……いえ」
「?……そうか? そうだ俺、雑誌社の編集長……ま、社長みたいなもんになったんだよ。なんなら雇ってやろうか?」
「……結構、です。……それより、色々とお世話になりました」
「……ジャック? おい、どうした? 何があった?!」
少し震えた受話器の向こうの声は弱々しい。ただならぬ様子を感じ、ラッカムは大声を出してしまう。
「……声、聞けて良かったです」
「おい!!」
受話器の落とされる音と共に、通話が途絶えた。
不通を知らせる電子音が虚しく繰り返されている。ラッカムは胸騒ぎに受話器を叩きつけるとコートを掴み玄関から飛び出した。
▽
「はぁ……」
受話器を下ろしたジャニスは電話ボックスの中に力無くへたり込んだ。体力も気力も限界だった。
追っ手の目を掻い潜り、やっとの思い出たどり着いた電話ボックスからラッカムの声を少しでも聞けてついに緊張の糸が切れてしまいもう立ち上がれそうにもなかった。
最初は、助けを乞うつもりでかけた電話だった。
しかし、ラッカムの明るい声を聞いた瞬間、ただ声が聞きたかっただけなのだと気づいてしまった。同時にこの人に迷惑をかけたくないと、助けを乞う為の言葉は飲み込んだ。結局最期にまた憎まれ口を叩いてしまった。それだけは少し後悔していた。
電話ボックスの照明は少しでも時間を稼げるようにと壊しておいた。真っ暗闇の中、ゴンと音を立てガラスに頭をつけ、これから先どうなるだろうかとぼんやりと考える。やっぱり殺されてしまうのだろうか、女だとばれて酷い目にあわされるだろうか、いずれにせよもうラッカムには会えないだろうなと思うと一筋涙が頬を伝った。
―やり返されると思わなかったんですか?
いつか自分が、放った言葉を思い出す。
なんのこともない、自分がやり返される側になっただけのことだった。
―そんなことじゃいつか手痛いしっぺ返しを喰うぞ?
ラッカムの忠告。全くその通りになってしまって申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「……っぐ、ひぐっ」
気づけばジャニスは嗚咽していた。
降り続ける雨に同期したように涙の堰が切れ溢れだす。ずっと押し殺してきた感情が胸を押し潰すような痛みをジャニスに与えた。
どれほどの間そうしていただろう。
遠くからのハイビームの明かりが通りと電話ボックスを照らし出す。
ガラス越し、滲む視界の端に数人の人影が見えた。
「誰か……助けて……」
それは誰に向けたわけでもない、届くことのない消え入るようなSOS。死にたくない、その一心で思わず漏れ出した泣き言。そのはずだった。
けたたましい、つんざくようなブレーキ音。
電話ボックスのすぐ横を滑るように自動車が急停止した。水溜まりが波のような水しぶきとなりガラスを叩きつけ、驚いたジャニスはビクリと肩を跳ねさせる。
電話ボックスのドアが力任せに開かれ、現れた人物にジャニスは腕を捕まれ引き起こされた。
「……ラッカム、さん?」
「行くぞ!」
ジャニスを引き起こし乗りつけた助手席に押し込むとすぐさまラッカムはアクセルを全開にして急発進させる。
慌てたように走り込んでくるマフィアの構成員を置き去りにして一気に加速していく車の助手席でジャニスは呆けたようにラッカムの横顔を見つめていた。
シアハニー市から出た車は街をどんどんと離れ寂れたモーテルに到着した。
「とりあえずはここでいいか」とラッカムは車を停めた。
「あいつらは?」
「……たぶんマフィアです」
「はぁああったく」
モーテルの一室に入ったラッカムはジャニスの答えにガリガリと頭を掻き、大袈裟に溜め息を吐いた。
「とりあえず俺は一旦街に戻って様子見がてら着替えを持ってきてやる。お前は風呂でも入ってろ、びしょ濡れじゃねえか」
「……はい」
「俺が戻るまでは外に出るんじゃねえぞ」
「……はい」
弱々しく返事を返すジャニスの頭をポンと軽く叩くとラッカムはモーテルを出ていった。
街に戻っていく車のテールランプをジャニスは窓に手をつけてじっと見送った。
▽
ラッカムは軽くロザー・シェレフを流してから一度自宅に戻り適当に着替えを鞄に詰め込んだ。サイズはだいぶ違うが仕方ないだろう。
少し離れた場所に車を隠してからモーテルの店で軽食や缶ビールを買い込むとジャニスのいる部屋に戻ってきた。
「戻ったぞ」
部屋にはジャニスの姿は見えず、一瞬焦ったラッカムだったがバスルームから聞こえるシャワーの音に安堵の表情を浮かべる。
着替えを置いてやろうとバスルームに続くレストルームの戸を開いたタイミングだった。
ラッカムはちょうどバスルームから出てきたジャニスと鉢合わせした。
「おっ、上がったか。これ、着、がえ…………」
「あ、ありがとうございます」
その時、ラッカムはハッキリと目にしてしまった。
ジャニスの小振りだが確かにある胸の膨らみを。
ジャニスは裸を見られたことを気にする精神的余裕も無いからかそのまま着替えを受けとった。
後ずさるようにレストルームを飛び出しドアを勢いよく閉め、据え付けのソファにヨロヨロと座り込んだラッカムは頭を抱えて「マジかぁ……マジかよ」と繰り返し呟いた。
「着替え、ありがとうございます」
そうしているとブカブカのトレーナーとジャージを着たジャニスが姿を現した。
大きく開いた襟元から目を反らしラッカムは「おぅ」と生返事を返した。
「あー……これ、飯買っといた」
「はい、ありがとうございます」
「じ、じゃあ俺は一旦帰るからな。また明日様子を見に来る」
「……あ」
そう言い残して帰ろうとドアに手をかけたラッカムに駆け寄るとジャニスは弱々しく裾を摘まんで引き留めた。
「……帰らないでください」
「あー、いや、だがな」
「……怖いんです、まだ」
言葉の通りにジャニスはまだ少し震えていた。
ラッカムはなんと返そうか考え固まってしまったが「わかった、わかったよ!」とテーブルまで戻るとおもむろに買ってあった缶ビールのタブを開けて一口煽った。
「ほら、飯食うぞ」
「……はい」
ジャニスは自分から話を振るほどの余裕もなく、ラッカムもまたジャニスの性別のことで頭がいっぱいであった。互いに無言のまま食事は進む。
普段よりなお早食いになってしまい手持ち無沙汰になったラッカムはチマチマとサンドイッチを齧るジャニスの様子をチラチラと横目で見てしまっていた。
「とりあえず寝ろ、な? ひどい面だぞ」
「……はい」
食事を終えたジャニスにラッカムはそう声をかけた。
「……どこにもいかないでください」
「わかってるよ」
「……側にいてください」
「ちゃんといるから」
「……一緒にベッドに」
「せ、狭くて寝れねえだろうが。いいから目瞑ってろ」
「……はい」
体力の限界に達していたのだろう。
ベッドに横になったジャニスはすぐに寝息をたて始めた。ラッカムは同衾だけは固辞し、ソファに深く腰を下ろした。
「寝れねぇ……」
ラッカムはジャニスを起こさないように静かに缶ビールを開けると回らない頭を落ち着かせる為、1人で晩酌を始めた。
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