リトルデビル


「はぁあああ……もぅ、何やってるんでしょう、私」


 感情が高ぶって考える余裕がなかったというかうっかりというか、ラッカムへの気持ちを当の本人に漏らしてしまったジャニスは凄まじい羞恥心に襲われ、後先考えずに事務所から飛び出した。とりあえず事務所から離れようと行き先も決めず走っていたジャニスは気づけばパン屋“トパーズ”の近くにやってきてしまっていた。さすがに息が上がってしまいすぐ近くの路地の階段に座り込み呼吸を整えながら空を仰ぐ。


 ラッカムに惹かれたのはいつからだったろうか。

 スラムでの生活を余儀なくされ、荒れていた頃からラッカムには世話になっていた。

 それは非行少年と警察官という関係でこそあったが、ジャニスにとってはラッカムは唯一頼れる相手だった。


「鈍い人だとはわかっていましたけど、ちょっとくらい意識してくれてもいいと思うんですよね」


 息を落ち着かせ少しぼやいたジャニスは「そういえば」とラッカムと出会った時のことを思い浮かべた。


「ラッカムさん、最初は私が女だってことにも気づいてなかったんですよね」



 だいたい6年と少し前だろうか。

 ジャニスがロザー・シェレフのスラムに飛び込んだのは。

 当時14歳だったジャニスはマフィア、スカルピオーネに追われいきなり家無し子になってしまったのだ。一度遠巻きに確かめたが住んでいた家にはジャニスを探す連中がやってきていてとても帰れる状況ではなかった。

 逃げ出したままの着の身着のままでスラムを歩いていれば、胡乱な視線を路地のあちこちから感じた。それが自分を女として見ている視線であることは嫌でもわかった。

 見た目を誤魔化すために肩まで伸ばしていた髪を耳が出るくらいまでに短く切った。鋏なんて上等な物はなく拾ったガラス欠片で無理やりに、引きちぎるように。

 身体の線を隠すためのサイズの大きな服も、空腹を満たすパンも店主が余所見をしているうちに盗んだ。

 決して育ちは悪くないし遵法意識も人並みに有ったつもりだった。しかし、罪悪感よりも生き抜くことが優先した。ただただ必死だった。


 ストリートチルドレンというのはシアハニーでも最低辺の立場にあるらしい。

 金を得る手段はせいぜい靴磨きか物乞いか、多少身なりが良ければ新聞売りくらいならさせてもらえるだろうか。女なら身体を差し出すことも出来たがジャニスはそこまで堕ちたくはなかった。

 ここで身体を売るなら何のために父が逃がしてくれたかわからないではないか、ジャニスはそうやって父を思い心を保った。


 いつか父が迎えに来てくれる、そう信じてゴミを漁り、スラムの空き家を転々として生きていた。そうやって1ヶ月が経とうとしていた頃、ジャニスの希望はたった一枚の号外に打ち砕かれた。


「号外! 号外! 堕ちたチャンプ! リカルドが撃たれたよ!」

「っ!? 寄越して!」



 聞き捨てならない文句を張り上げ号外を配っていた新聞売りからひったくった記事には、『堕ちたチャンプ、死す』と大見出しが打たれ、父リカルド・ライトが民家に盗みに入り家主に撃たれ死んだのだと詳細が記事になっていた。


「父さんが死んだ?……強盗なんて……違う……違います! アイツらがやったに違いない、そうに決まってます!」


 悲しみと怒りとない交ぜになった感情をぶつけるように号外を破り捨てる。

 信じたくはなかった。父の死も、その顛末も。

 父がどうなったか、本当に死んでしまったのか、確かめたかったがどうしたらいいかわからなかった。ぐちゃぐちゃな心を抱えたまま、ジャニスは仮住まいにしていたあばら家に駆け戻り声を殺して泣いた。


 ▽


 父の死の報せより数日、生きている以上はどうしてもやってくる空腹に耐えかねてあばら家からゆらゆらとジャニスは這い出た。まるで眠れず濃い隈の浮き出た顔はさながら幽鬼のようだった。


 適当なゴミ箱を探しながらスラムを彷徨えば

 視線の先で凶行が行われていた。ホームレスの男が2人組の男に殴られうずくまっている。2人組は罵声を浴びせかけその背中を踏みつけていた。酒にでも酔っているのか、自分の行為に興奮しているのか顔を真っ赤にしたビジネスマン風の男達だった。それはスラムでは特に珍しくもない光景だ。


 スラムのストリートには、家なしではない者もやってくる。

 それはストリートの醸し出す独特のダーティな雰囲気に惹かれたティーンエイジャーであったり、そんな若者も食い物にしようとする悪人であったり。あるいは日頃の鬱憤をやり返せない弱い者にぶつけようとするろくでなし。

 目の前にいたのはそういうろくでなしだった。


 義憤……そんな大したものではなかった。

 ただ、己のやり場のない苛立ちをぶつけても構わないと思える相手が欲しかった。ぐっと拳を固め無言でジャニスは2人組に近づいていく。


「何だ? ストリートのガキか? 失せろ!」

「お前も同じようにしてやろうか? あぁ?」


 ジャニスは罵声を無視して構わず間合いへ踏み込むと手前にいた男の脇腹に目掛けフック気味に拳を突きいれた。いわゆるレバーブローだ。


 ―いいか? ジャニス。喧嘩するならまずは腹に一発だ。顔は素人でも案外躱せるもんだが、腹はプロでも当たる。


 呻く男から拳を引き、立て続けに父の教えの通りに捩じ込むように拳を叩き込む。

 堪らず男の身体がくの字に折れ頭が下がる。狙ってくださいと言わんばかりの後頭部に拳を打ち下ろした。


 ―試合だとルール違反なんだけどな。後頭部はかなり効くんだ。頭が下がった時は狙い目だ。


「な! 何しやがる!」


 もう1人が殴りかかってくるが、まるでなってない。腰の入ってない蝿が止まるような遅い拳をダッキングして懐に飛び込み同じように腹に連打を叩き込んだ。くず折れた後頭部を踏みつけ地面に叩きつけると男はびくびくと痙攣して泡を吹いていた。



 ―喧嘩の最中に罵声はいらねぇんだ。呼吸の無駄になるからな。吠えるのは勝ち名乗りを受けてからでいい。


「……やり返されると思わなかったんですか?」


 終始無言で2人組を片付けたジャニスは倒れ伏す背中に誰にも聞こえないくらいに小さく侮蔑の言葉をぶつけた。

 そうして倒れた男を蹴り足でひっくり返し背広の懐をまさぐり財布を取り上げると紙幣をいくつか抜き取り財布は放り投げた。


「これ、迷惑料……」

「あ、あぁ。ありがとう……ありがとう……助かったよ……」


 殴られていたホームレスに奪った紙幣の半分を渡しジャニスは足早にその場を立ち去った。

 そうして、ジャニスは新しい生き方を見つけた。


 ―誰が言い出したのか。金色の瞳は悪魔の瞳なのだそうだ。

 リトルデビル、ジャニスがそう呼ばれるまでそう時間はかからなかった。













  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る