第12話 貸し切りのパン屋にて

「待っていなくても良かったのに」


 時間にすれば10分ほどだっただろう。

 ジャニスはじっと老婆の様子を見守っていた。

 いや、あまりにも侵しがたいその光景に胸を打たれ目を離せなかったと言った方が正しいだろう。

 声をかけられ我に返ったジャニスの目はわずかに潤んでいた。


「お供え……ですか?」

「ええ、私の大切な人に」


「よいしょ」と車椅子に座り直した老婆にジャニスがかけることが出来た言葉はそんな他愛無い問いだった。

 老婆の応えにジャニスは喉元まで出かかった質問をなんとか飲み込む。


「(聞けない! その大切な人って、マフィアでも恐れられた悪魔みたいな方ですか? なんて聞けません!)」


 平素のジャニスであればここで遠慮することは無かったはずだ。しかし、アーロンと亡き父の話をしたあとで今日のジャニスはしんみりとした心持ちだった。同じように亡き人に想いを馳せる相手の気持ちをぶち壊しにするような質問はできなかった。


 ジャニスが聞こうか聞くまいか思考を堂々巡りさせていると老婆は朗らかな様子で話しかけてきた。


「ねぇ、お嬢さん。良かったらお茶をご一緒しない? お礼をしたいの」

「え、あ、そんな。悪いですよ」

「あら? 私もそう言ったけど貴女は車椅子を押してくれたわ」

「あー……それはそうですね。じゃあお言葉に甘えて」

「そうこなくちゃ! じゃあまた少し車椅子を押してもらえるかしら? またすぐ近くだけれど」

「どこですか?」

「そこのパン屋さんよ。いつもあそこで迎えを待つの」


 どうやら老女の用事は本当に極狭い範囲で済んでしまうものだったらしい。

 ジャニスはまだ質問をするかしないか悩みながら車椅子を押しているからかどこかその表情は固かった。一方、老女の方は終始にこやかで実に楽しそうにしていた。


 ▽


「あ、オーナー! お待ちしてました!」

「マチルダ、いつもありがとう。またお世話になるわ」


 店に着くとすぐに店主の女性が飛び出してきた。店主の老女への呼び掛けにジャニスは目を丸くする。


「えっ! オーナーさんだったんですか?」

「そうなの! 驚いたかしら?」

「えぇ、本当に!」


 店主の女性、マチルダはジャニスにも声をかけた。


「よくベーグルサンドを買っていかれる方ですよね! オーナーのお知り合いだったのですか?」

「いえ、偶々で……」

「あら貴女、常連さんだったの? マチルダ、このお嬢さんは転げかけた私を助けてくれたのよ。今度からおまけしてあげて」

「わかりました! それにしてもオーナー、気をつけてくださいよ? もう結構なお歳なんですから」

「はいはい、なんだか今日は叱られっぱなしだわ。昔に戻ったみたい。さてと、じゃあいつもの席をお願いね」

「はい、どうぞこちらに!」


 パン屋“トパーズ”はこぢんまりとした店だった。元は自宅兼パン屋だったらしいが改装してイートインスペースが設けてあり、焼きたてのパンとコーヒーを楽しむことができた。

 ジャニスと老女は店の隅、窓際の2人掛けの席に案内される。普段は賑わっている店内には今日は他に客はいなかった。貸し切りらしい。

 店内にはレコードからだろうか、古めかしい子守唄のような女性歌手の歌が流されていた。


「好きなものを頼んでね」

「はい、ではコーヒーと……パンケーキを」


 一瞬、ベーグルサンドを頼もうかと思ったがどうせなら持ち帰りでは食べられないものにしようと思い直したジャニスはパンケーキを注文する。

 マチルダは「かしこまりました」と奥に引っ込んでいった。


「えーと……ミセス……」

「あら、私は未婚なのよ」

「し、失礼しました!……てっきり車椅子を押していた方はご家族だと」

「あの娘は姪の娘さんよ。毎年この日、私はここに送ってもらって彼女はお買い物」


「今日はハロウィンだもの」と老女は窓の外に目を向ける。

 少し会話が弾んだところで先にコーヒーがやって来た。ジャニスはコーヒーにはラッカムほど明るくはないがいい豆を使っているとわかる。いい薫りだった。口をつけたところで改めてジャニスから話を切り出した。


「それでその、私はジャニスといいます」

「あらあら、そういえば名前を名乗ってなかったわね……」

「何とお呼びしたらいいでしょう」

「うーん……秘密にしようかしら?」


 どうやら本名を名乗る気はないらしい。

 身なりからして上流階級なのは間違いないだろう。いわゆるお忍びというやつだとジャニスはそう思うことにした。


「では……ミス・アンとお呼びするのはどうでしょう?」


 ジャニスは先ほどの姪の娘だという女性に、昔読んだ赤毛の少女が主人公の小説を思い出し、その名を出してみることにした。

 老女も「あら、素敵! あの本ね」と同じものを思い出したらしい。


「では……ミス・アン。ご馳走していただきありがとうございます」

「それはお互い様ね。危ないところをありがとう。でもミス・アンは少し堅苦しいわ。アンでいいわ」

「でしたら、アンさんと」


 2人は互いにお礼を言い合い思わず顔を見合せ笑ってしまう。落ち着いたところでアンは「ねぇ、ジャニスさん」とジャニスに問いかけた。


「何か私に尋ねたいことがあるんじゃないかしら?」

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