第9話 ジャニスの過去
「ときにお嬢さん」とジャニスの手が止まったのを待ってアーロンが声をかけた。
「君はなぜ彼、ロザー・シェレフの悪魔について調べているのだね?」
「なぜと言われましても……うちの編集長に言われたからですけど」
「こんな危険地帯に取材しにかね? わざわざ?」
「それは……」
少し入った酒が口を軽くしたのかもしれない。ジャニスは口を開いた。
「その、悪魔と呼ばれた彼と、小悪魔と呼ばれた私。最初はその共通点のようなものを面白く感じていました。ですが資料を読めば読む程に、私と境遇が重なるところがあって、それで強く興味を惹かれたのだと思います」
「なるほど……もし良ければ君の境遇を聞かせてくれないかね?」
「私の……ですか? 聞いて面白いものでもないと思うのですが」
「構わんよ。聞かせてくれ」
少し渋りながらもジャニスはアーロンに促されるままに自身の境遇についてぽつぽつと語り始めた。
「私の両親、父はボクサーで母はモデルをしていました。父はタイトルホルダーだったのでもしかしたらご存知かもしれません」
ジャニスが両親の名を口にするとアーロンは「やはりか」と小さく口にした。
「少し面影があると思ったのだ。儂は彼の大ファンでね、試合は欠かさず見ていたよ」
「それは……なんというか、ありがとうございます。父の顛末はニュースにもなりましたから多分ご存知だと思いますが」
「あぁ、酔って他人の家に押し入り、護身用の銃で撃たれて死んだ。彼の最期としてはあんまりだと思ったものだ」
アーロンはニュース思い出しているのか顔をわずかにしかめる。
「実は私も父のことは後になって新聞で知ったんです。もう家を飛び出していたので」ジャニスは努めて感情を出さないように淡々と話を続けた。
「父も母も家を空けることが多かったですから、私は家政婦の方と暮らしていました。お金はありましたから母の意向で私立のそれなりにいい学校に行きましたし、家庭教師なんかもつけられて言葉遣いはその頃にかなり矯正されました。反面、父からは拳の握り方や人の殴り方を教わりました。母には内緒で」
「チャンプ直々の指導というわけか。君の暴れっぷりにも納得がいくよ」
「たまに顔を会わせれば、ちゃんと勉強はしているかお菓子は食べすぎていないかと口うるさい母よりも、お土産をいっぱい持って帰ってくれる父が私は好きでした」
ジャニスは少しはにかむと、ウィスキーに少し口をつける。
「全部が悪い方に向かったのは、父の三度目の防衛戦での敗戦からでした」
「あの試合は酷いものだった。果敢に攻める父上に対し挑戦者は逃げの一手、誰の目にも勝敗は明らかだった。しかし逃げ切られ判定にもつれ込んだ結果があれでは不正があったとそう思わざるを得ないよ」
「当時、私は10歳になるかならないかでしたから試合運びの良し悪しはわかりませんでした。ですがジャッジが出た後の父の険しい顔はいまも頭から離れません」
その試合は『世紀の誤審』と当時、格闘技ファンでないものですら耳にしたことがある程に物議をかもした。マスコミも審判や協会をかなり叩いたが口汚く協会批判を行う元チャンプや関係者に世間の目は少しずつ冷ややかになり、いかなる力学が働いたのか、今度は元チャンプに批判が殺到した。
「父はプロ資格の停止処分を受け、酒とギャンブルに溺れるように。母も全く家に寄り付かなくなり、代理人の弁護士が離婚手続きをしにやって来たきりでした。親権もあっさり放棄して、すぐにどこかの実業家と結婚したみたいです」
「薄情なことだ」
「あまり夫婦仲も良くなかったですし、私も母にはあまり懐いていませんでしたから仕方なかったのかもしれませんね」
「それでもだ! 母親なら一緒に来るかどうか聞いてもいいだろうに」
憤るアーロンのことをジャニスは少し嬉しく思った。気にしていないつもりだったがこうして自分の為に感情を顕にしてくれる人がいるとなんとなしに救われた気持ちになれた。
「失礼、続けてくれるかね」
「はい、貯蓄も目減りしていき私は私立の学校を辞めました。今更公立の学校にも通い辛く家政婦さんも雇い続けることも出来なくなり家には父と私だけに。パン屋でアルバイトをしてなんとか食いつないでいたある日、家にマフィアの……あなた方とは違う刺青の連中が現れました。そいつらは父にアンダーグラウンドの賭けボクシングの選手にならないかと持ち掛けてきたんです」
「父上はその話を?」
「はい、受けました。すぐに試合が組まれて、私も付き添い人として父についていきました。最初は良かったんです、またボクシングが出来て父の目には少しずつ輝きが戻ってきたんです! ですが……」
「八百長、か」
「……父は最初は断りました。でも、もうリングに上がらせないと言われ八百長に加担する約束をしてしまいました……。そうして負けろと言われた試合で勝って、しまいました」
「無理もない……父上は不正を疑う敗北で名誉を奪われたのだ。八百長に加担するのはどうしても出来なかったんだろう」
「違うんです」と応えたジャニスの声は震えていた。
「私はリングサイドにいました。滅多打ちにされる父を見ていられなくて思わず叫んでしまったんです……負けるなって……頑張れって……八百長のことは聞かされてたのに……そう気づいた時には父の得意な右ストレートが相手選手をノックアウトしていました」
言い切ったジャニスにさしものアーロンも言葉をかける言葉が無かった。わずかの間、痛いほどの沈黙が訪れる。鼻をすすりまたグラスに軽く口をつけるとジャニスはなんとか口を開く。
「試合後、すぐに大勢の人が父と私を取り囲みました。彼らは大損した分の補填を私の身体でしろと迫ってきて、それに激昂した父は私に逃げろと、ロザー・シェレフに行けと叫ぶと彼ら相手に向かっていきました……それが私が最後に見た父の姿です」
「そうか……そうだったか……辛いことを話させてしまったな」
「いえ」と呟き、ジャニスは気を落ち着かせるように大きく深呼吸をした。
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