第71話
部屋の前まで送るという森さんに大丈夫だと断りを入れて、そのままエントランスで別れた。
貧血は軽いもので、状態はとっくに落ち着いていたし。
ただストーカー、というか感じた視線の件は、何かあったらすぐに連絡するようにと再度約束させられた。
穂高さんは優しい人だと言ったけれど、そういう森さんもあまり面識のない私にここまでしてくれて、本当に良い人だと思う。
部屋に着いて、大きくひとつ息を吐いた。
いつもならこれから夕食の支度にすぐ取り掛かるところだけれど、今日はいろいろありすぎて食欲はまったく湧かない。
「ーーー・・・」
私はなんとなく、ベランダへと向かった。
ゆっくりと扉をスライドさせると、先ほどは感じなかった冷たい風がひやりと肌を掠めた。
外はすっかり薄暗い。
少し重く侘しい空の下、街灯だけがささやかに輝いている。
ーーー・・・・煙草の香りは、しない。
別に期待していたわけじゃないけれど。
もう寝てしまったのだろうか。
それとも、熱心に仕事をしている最中なのか。
手すりに寄りかかると、ゆっくり目を閉じた。
『先生は別れた奥様のこと、今だに想い続けているんです』
『え・・・・穂高って結婚されてたんですか?』
『はい。奥様は高校生の時からずっと交際していた方だったそうです。たまたま写真を見てしまったことがあるのですが、それはもう美しい人でした。
でももう離婚して5年も経ちますし、先生もいい加減忘れるべきだと思うんです』
『・・・・離婚した原因って』
『私が上司から聞いた話では、先生がなかなか売れず苦しい生活に嫌気がさした奥様が、ついに出て行ってしまったとか。先生はよほど深く奥様のこと愛していたんでしょうけど、それでももうこうなってしまった以上は忘れて、新しい恋に踏み出すほかないじゃないですか。
ーーーって。そう簡単に言えてしまうのは、私がそこまで誰かを好きになったことがないからかもしれませんが』
『森さん・・・・』
『本当にときどきなんですけどね。先生が無意識に見せる切なそうな表情に、何ともやるせない気持ちになっちゃうんですよ』
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