第60話
アサミさんが希和のクライアントになった。
ーーーそう聞かされたのは、それから半月後のことだった。
「すごく良い匂いがしますね」
「麻婆豆腐。急にすっげぇ辛いもんが食いたくなってさ。作ったんだ」
だからか。
風に乗って香るのは、今朝は煙草ではなく強烈な香辛料の匂いだった。
姿の見えない穂高さんとこうして壁越しに話していると、五感のうちの視、聴、嗅がすごく研ぎ澄まされる気がした。
「けど流石に辛くしすぎたなー」
よほど辛いのか話し声から、頬張りながらはふはふしている様子が伺える。
朝からよくそんな激辛麻婆豆腐なんて食べられるなぁ。
胃がおかしくなりそうだ。
あ、でも穂高さんは漫画家という仕事柄、時間軸が人とズレていそうだから、今が朝とか関係ないのかな。
「でもなんでわざわざベランダで食べてるんですか?」
「ノラがこの香りが嫌いらしく、部屋の隅で丸まって不貞寝してんだよ。そんで仕方なく俺が外に」
「そうなんですか?」
「我儘な女だよ。麻婆豆腐くらい好きに食わせろっての」
・・・・"女"って。
嫌そうな顔をするノラちゃんの姿を想像しながらくすくすと笑っていると、「それに」と穂高さんが続けた。
「この時間、皆原さんもベランダに出てくるかなって思って。待ってたってのもある」
え・・・・ーーー
「な、なんでですか?」
急にそんな甘さを含んだような台詞を吐かれ、ただのお隣さんの穂高さんに、ついどきっとしてしまった。
「皆原さんと話すこの時間が、いつの間にか日課になってさ。あぁ朝だなーって感じて、ちょっとした癒しになってる」
それは、・・・・私も同じかもしれない。
顔も知らない、だけどなぜか少し懐かしさを感じさせる穂高さんとこうして話すこの時間が、いつの間にか私も癒しになっていた。
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