例えばそれは、愛の檻

ひふみしごろ

例えばそれは、愛の檻

「見て見てっ、どうかしら? ねえさまっ」


子供の頃、静かな夜のちょっとした思い出。

半年掛けて魔法を習い、妹にプレゼントだと披露した。


蝋燭のような小さな火を操れば、妹は大喜び。

宙をゆらゆらと揺れ動く、小さな光を追いかけては笑っていた。


三日後の晩、ねえさまにプレゼントがあると妹は言い、披露したのは夜空のパレード。


魔法で出来た木馬が飛んで、星が舞い散り、妖精達が踊って笑う。

夜空を覆い尽くすような光の芸術を見て、わたしはただただ呆然と。


「えへへ、きれい? ねえさまみたいにできるかなって、ちょっとがんばってみたの」


悪意はなくて、無邪気であった。

ただ、わたしを喜ばせようとしてくれたのだろう。


お揃いの薄茶の髪に、お揃いの青い瞳。

けれど、あんなにも喜んでくれた妹と違って、わたしは笑うことも出来なかった。

多分それが、全てだったのだと思う。













「――素晴らしい。皆、セリシア嬢を見習うように」


皆の前、魔法の実技を披露すれば称賛の声と粘ついた視線。

心地が良くて、居心地の悪い空気。


セニルリチア魔法学院は特に名門という訳ではなく、全体で見れば中の下だろう。

魔法学院というもの自体が狭き門であることを思えば、それでも中々のものではあった。

ただ、魔術の名家に長女として生まれた人間が通うところではない。

両親とは勘当寸前まで揉めた。


出来損ないであると言われればそうだとしか言えない。

真面目が取り柄、才能なんてものはなかった。

そんな取り柄でさえ、重圧から逃げるために生まれただけの人間性。

誇れるようなものではない。


家が良いからスタート地点が先にあって、他より多くを学べただけ。

どうしてお前のような人間がこんな学院にいるのかと聞かれれば、逃げてきたからと答える他ない。

高い場所で自分の真価を評価に晒され蔑まれるより、ぬるま湯に浸って過ごした方が苦痛はないからそうしただけ。


「いいわよね、お姫様は。何をしてもはいはいすごいねーって感じ。ニーセル家のご令嬢がこんなところにやってきて、何のつもりなのかしら。嫌がらせ?」

「案外そっちの世界じゃ落ちこぼれで、上に行けなかったとか?」


廊下を歩けば陰口が聞こえて素知らぬふり。

心の中ではその通り。

笑うくらいに何度も聞いて、今では小鳥のさえずりだった。


蔑まれることに比べれば、妬まれる方がずっと良い。

どちらにしたって居心地が悪いなら、妬まれながら心地良く生きていたい。

それが悪いことだなんて思わない。


――誰だってそうでしょう?


そんな言葉を聞く度に、心の中でいつも吐き捨てる。


血が滲むほどに頑張ったって、上に行くほど評価が全て。

努力の結果を笑われる世界で、是非戦ってみれば良いと思う。

二度と同じ言葉を口に出来たりしないだろうから。


醜い自分を見せたくないから、予防線をいくつも張って。

勝負出来ない言い訳を探して。

誰だって知った風な口で、分かった風な顔をしたいだけ。

安全な場所で、自分の場所を守りたいだけ。


小さな小さなプライドを、わたしはどうにか守りたいだけなのだ。

あなたと同じで変わらない、どこにでもいる一人の人間。

わたしがそうであることの、一体どこが悪いと言うのだろう?


答えられる人間はきっといまい。


寮の部屋に戻ると、ベッドの上に転がった。

この学院を選んだ一番の理由は、実家からは遠いこと。

二番目の理由は、特待生なら無料で通えてしまうこと。

もしも勘当されても、身一つで来ようと思っていた。


実家に比べれば小さな部屋。

けれどずっと居心地が良かった。

生まれて初めて自分の意思で手にした世界。

小さな小さなわたしを守る、小さな小さな自由の檻。


サイドテーブルに置かれた花瓶の花を眺めて、微笑んで。

くすぐるような花の香りに目を閉じて、深呼吸。

気分が少し落ち着くと、立ち上がって姿見の前へ。


鏡に映る、淡い茶色の長い髪に、櫛を通して滑らかに。

後ろ髪を纏め上げてのポニーテイル。

高めか低めか少し迷って、少し低めにうるさくないよう控え目に。

鏡に映る自分の顔を眺めて化粧を少し確かめた。


妹ほどに愛らしくはないが、整いはしている顔。

薄いそばかすさえ隠してみれば悪くはなく、こればかりは両親に感謝だろう。


鏡の中に映る自分に微笑を贈って頷くと、再び部屋の外へ。

寮を出て行き、校舎からは裏手にある、薬草園に顔を出す。


手前側には薬草の中でも美しく、強いものだけを揃えた花壇。

ベンチが置かれたその周辺には男女の姿がいくつか見えて、その奥手には半円をしたドームがいくつも。


今日はどこかと中に入って歩いて行くと、オーバーオールを身につけた男性が一人。

こちらを見掛けるといつものように笑って軽く手を上げて、わたしも一礼した後早歩き。

野暮ったい眼鏡に無精髭。

ぼさぼさ頭にタオルを巻いた彼は、職員ではなく学院の導師の一人。


「こんにちは、先生」

「ああ、セリシア。いらっしゃい」


主に魔法薬などに利用される植物を中心に研究している、ローク先生だった。

授業は眠たいと人気がなく、見た目を気にせずこんな格好。

一言で言えば、ぱっとしない人。

けれどわたしは、いつも自然体なこの人のことを気に入っていた。


「どうでしたか? ポレアの花は」

「ああ。君のおかげか、多少は持ち直したんだけれど……」


そう言って歩き出し、その後ろをついてドームの一つに。

中には無数の棚が並び、様々な種類の薬草が鉢に植えられていた。

繊細なものには大気中の魔力から影響を受けるものもあるようで、気温だけでなく、魔力の濃度も含めて品種に合わせて整えてあるらしい。


右手の奥に入っていくと、ランプのような形に開く、五枚の薄青の花弁。

夜には淡い燐光を放ち、人が近づくと消えてしまうことから、幻火草とも呼ばれるらしい。


ただ、見て分かるくらいに元気はなかった。


「やはりどうにも元気がなくてね。本来は花弁が反り返るはずなんだが、この状態で一週間……研究不足だから、単純に時間が掛かるという可能性もないことはないけれど」

「この様子で正常、というのは考えにくいですよね」

「ああ。何がいけないのか……」


頭を悩ませる先生を見ながら、わたしも頭を悩ませる。


出会ったのは一年と少し前――十五で入学したての頃。

中等部までは実家のあるフネアリアの学院に通っていた。

周辺地域では一の名門と呼ばれる場所で、必死の思いで成績一位にしがみつき、随分と頑張った方だろう。

四つ下の妹の名前は百年に一人の天才だと知れ渡っていたから、「それに比べて姉の方は」だなんて笑われないように。

馬鹿にされないために、哀れまれないために努力した。


三年になり、手にしたものは世界一の魔法学院への推薦状。

厳しい両親は久しぶりにわたしの頭を撫でてくれ、妹も喜んだ。


『えへへ、来年から一緒の学院だね、ねえさま』

『……え?』

『エレアもあっちに中等部で入学するんだ。ねえさまが推薦もらえそうって聞いたから、エレアも論文書いて送ってみたの』


嬉しそうに笑いながら。


知らない間に出していた、妹の論文が評価されたらしい。

中等部はひとまずここで、と考えていた両親も姉のわたしが保護者になれるなら安心だと、送り出すことに決めたそう。

妹はわたし以外の言うことを聞かないから、一人で行かせるのは心配だったのだと。


必死に手にした推薦状は、そんな話を聞いた途端に色褪せた。


片手間で妹が書いたであろう論文は、わたしの努力の三年分。

そもそも、そんなものを手にしたところで何かが変わると思っていたのだろうか、わたしは。


張り詰めていた色んなものが、その瞬間にぷつりと切れた。


わたしを褒めてくれたのは、妹のお世話係になれたから。

これで安心して妹を送り出すことが出来るのだと、必死の努力は両親にとって、そういうもの。

昔からずっと、何をしたって、わたしは妹のおまけであった。


わたしはただ、普通に生きて、普通に評価されて、普通に過ごしていたいだけ。

ここにいては一生手に入らないのだろう、と理解が出来て、ここに来て。

出会ったのは、そんな頃。


眠たくなるくらい授業は真面目で、見た目は野暮ったく、魔法の腕前は可も不可もなく。

毎日毎日薬草畑を手入れして、ついた渾名は小作農。

生徒に小馬鹿にされてもへらへらと笑って、流してばかり。

情けない人だと横目に見ながら、通り過ぎてはイライラしていた。


こうはなりたくない、と自分がずっと思ってきた姿そのままだったからだろう。

そうはなりたくない、と努力してきた自分が馬鹿らしく思えるくらいに、自然体だったからだろう。


『あんなことを言われて、いつもへらへら笑って、腹が立たないんですか?』

『立たないとも。笑われる人間だって、そういう自覚はあるからね』


ある日尋ねれば、花を眺めて笑って言った。


『好きなように生きて、やりたいことをしてるだけ。笑われるのも仕方がないし、他人の評価を求めて生きてる訳でもない。もちろん当然、褒められれば嬉しいけれど』


苦笑して、柔らかくわたしを見つめる。


『……そういう君は笑わないね』

『……?』

『ここには誰も、君を笑う人間なんていないのに……いつもそうやって難しい顔をしている』


言われて、自分の頬に触れ。

ずっと笑っていないことに気が付いた。


彼は小屋の中に入っていくと、花瓶を一つ。

まだ蕾の一輪を、わたしに手渡し微笑んだ。


『これを部屋の窓際に。疲れたときには花を見て過ごすといい』

『……花』


繰り返すと、彼は頷く。


『花は人を笑わない。喋ったりも、僕らを慰めたりもしないけれど……いつでも側にはいてくれる』


そして再びしゃがみ込み、花の手入れの続きへと。


『冷たいけれど、花は優しい。また気が向いたら、綺麗に咲いたか教えてくれ』


それ以上何かを口にするでもなく、こちらを見るでもなく。

話しかければ答えるだろう。

けれどそれ以上に話すこともなかったから、その場を後にした。


言われたとおりに窓際に花瓶を置いて、何をするでもなく、ただ眺めて。

月の光に大きく開いた薄青の花を見て、綺麗とぼんやり微笑んで。

おかしなくらいに涙が零れた。

なんで泣いてるのかも分からないまま、嗚咽を漏らして。


それから翌日には、また彼の薬草園に訪れた。

いつ訪れても先生はそこにいて、笑ってわたしを迎えてくれた。


ひとまずお茶にしようと誘われて、庭園にある彼の小屋に。

本来は物置のようなものだったそうだが、ここで寝泊まりしているらしい。

棚に本や実験用のガラス器具などが並ぶ中、手作りの簡素なベッドも置かれている。

壁には隙間、住むには良いとは言えない場所であったが、先生はここを随分気に入っていた。


そんな場所であるから、お茶を飲むにも実験器具を流用して。

コップも不格好な木彫りであった。


けれど丸底のフラスコにぽこぽこと、気泡が湧いては弾けるその音が心地よく、不格好で掴みにくい、木彫りのコップは温かく、不思議と気分が落ち着いてくる。


「君の言うとおり、土も一つの原因だったようだが……中々難しいね」

「ええ。大気中の魔力量……でしょうか? 野外に咲く花ですし、雨や気温の変化には多少耐性がありそうですし……」

「次はそれを調整することになりそうだ。野性のものを見てみれば、分かるところもありそうだが……一週間ほどで往復出来そうだし、夏期休暇の際に直接見に行ってみようかと思っていてね」


目を見開くと、先生は苦笑する。


「その近辺にも珍しい花がいくつか生えているそうで、少し興味があったんだ。ここに引きこもっているばかりで頭も固まっているしね」

「でしたら……薬草園、わたしが見ておきましょうか?」

「いいのかい? 他の導師に頼もうかと思ったんだが」

「一週間と言わず、お好きなだけ。特に予定もないですし、去年も入り浸りでしたから……ゆっくり羽を伸ばして下さい」


笑って口にすると、先生は少し考え込み、頷く。


「まだ予定だけれど、その時はお言葉に甘えることにするよ。大してお返しも出来ないが、珍しいものを採取出来たら一番に君に見せよう」

「……はい」

「まぁ、ポレアに関しては君も気楽に。特に薬効があるわけでもない。目的があって育てているものではないし、趣味のものだからね」


頷きながらもわたしは言った。


「でも、栽培法が確立出来れば需要もありそうな気もしますね。庭園に良いでしょうし、先生の評価にも繋がりそうですし……」

「評価されても、それはおまけ。自分の身の丈は自分が分かっているからね。まぁ、お金になるなら悪いことじゃないが……結局趣味の花壇が増えるだけだと思わないかい?」

「先生の場合、そうかも知れませんね」


くすくすと肩を揺らして、静かに笑う。


「でも、わたしみたいに喜ぶ人間もいると思います。綺麗ですから」

「そう言ってくれるなら、趣味を続けてる甲斐もあるね」


出会ってからは、色んなことを話した。

最初の頃は本当に、表面をなぞるように。

けれど次第に少しずつ、ここに来た経緯や、内側も含めて。


先生は黙ってそれを聞き、聞き終えた後はお返しのように、自分の話。

心を開けば、同じように心の中をわたしに見せる。


先生もまた、名家の生まれであったらしい。

他人を蹴落とすように生きていたのだと恥ずかしそうに言った。

その内に植物を研究していた一人の女性と出会い、恋に落ち、両親に逆らい勘当されながらも結婚したという。


その人は病弱で、結婚生活は短いもの。

それでも、人生で最も幸せな時間だったのだと。

以来彼女の研究を引き継ぎ、先生はここで薬草園を管理しているという。


花のような人だった、と先生は言った。

わたしが先生に抱く印象と、きっと近しいものなのだろう。


「……良い香りですね」


告げると、先生は嬉しそうに微笑み、頷く。


今では毎日あれこれ話す訳じゃない。

先生は本を開いてお茶を飲んで、わたしもそれを見ながらお茶を飲む。

花や本、木の香りを味わいながら、時間を過ごす。


以前はこうした沈黙に緊張した。

ここにいて良いのだろうかと考えながらあれこれ尋ねて、今思えば恥ずかしい。


先生はただそこにいてくれて、同じ時間を過ごしてくれるだけ。

沈黙を苦痛だなんて思ってなくて、そんな時間を過ごす事を、無駄だなんて思ってない。

いつも穏やかで、そういう時間さえも愛していた。


わたしも微笑んで、コップの中の水面を眺める。

本のページを捲る音が響き、それを耳にしながらお茶を飲む。

この時間が好きだった。


ささくれ立った心の中から、少しずつ、すさんだものが抜け落ちる。

わたしは名家の令嬢でも、無能な落伍者でもなく、少し困った一生徒。

セリシアという名の、ただの人間だった。


ずっと続けば良いと思う。

こんな時間が続くなら、違う人間になれる気がして、心の底からそう思う。

先生のように、綺麗な人間になりたかった。


晴れれば陽気に、曇れば響く雨音に微笑んで。

寒い日には小屋に籠って温まり、暑い日には頭から水を被って涼んで笑う。

小さな小さな幸せを、とても大事に出来る人。

幸せを幸せのまま、受け止められる人。


いつかわたしも今の自分を、若かった、だなんて笑える日が来るのだろうか。

自分が未熟であったから、なんてあっさりと。


そうなれたら良いと願って、


「――ねえさま、こんなところにいたのね」


忘れられない声を聞いた。


長く伸びた薄茶の髪と、輝くような青い瞳。

心の底から嬉しそうな、人を魅了する明るい笑顔。

ワンピースを身につけて、大きなカバンを持ちながら。

入り口に立った妹の姿は以前と変わらず綺麗で、愛らしい。


「……エレア」

「えへへ、久しぶりっ!」


エレアは立ち上がったわたしに駆け寄ると、抱きついて、


「ねえさまに会いに来たの」


幸せそうに笑って言った。


落ち着いていた鼓動が、息苦しいほど激しく鳴った。









「ここがねえさまの部屋? 結構狭いね」


ぽすん、と部屋のベッドに腰掛けて、エレアは言った。

紅茶を用意しながら、妹に尋ねる。


「……あなた、学院はどうしたの?」

「つまらなかったから、ねえさまのいるこっちに編入したの。ここの学院長さんにお願いしたら、ねえさまと同級生にしてくれるって」

「お父様達は……」

「うるさかったけど、嫌ならエレアと縁切ってもいいよ、って言ったら好きにしていいって。別にエレア、どこでも生活に困らないし」


からからと笑って、エレアは言う。


「おかしなこと聞くね。ねえさまだって、推薦蹴ってこっちに来たのに」

「それは、その――」

「――エレアと一緒、そんなに嫌だった?」


体が強ばって、目が泳いだ。

青い瞳がこっちをじっと見つめていることに気付いて、慌てて首を振る。


「……違う、そういうのじゃ、なくて」


だよね、とエレアは微笑んだ。


「知ってた? エレアがね、二人に言ったんだよ? ねえさまはちょっと疲れてるみたいだから、ここに通うの許してあげてって」

「え……?」

「ねえさまは頑張り屋さんだから、頑張りすぎて疲れちゃったのかなって……違う?」


反対していた両親は、ある日、急に説得を諦めた。

それさえもきっと、妹にそう言われたからなのだろう。


「かわいそうなねえさま」

「っ……」


エレアはいつの間にか目の前にいて、わたしの頬を両手で包んだ。

鼻先が触れ合うほどに顔を近づけて、大きな瞳は潤むよう。


「エレアはいつだって、ねえさまの味方だよ。エレアの一番はいつだってねえさま……他の人が何を言ったって、エレアは気にしたりしない。ねえさまはエレアの大好きなねえさまだもの」


愛情に満ちたそんな視線に、気分は蛇に睨まれた蛙のよう。

目が泳いで、手足が強ばって、呼吸さえも止まりそうだった。


ありがとう、とようやく掠れた言葉を返すとエレアは微笑み手を離す。

エレアがベッドを弾ませるように腰を落とすと、凍った空気が途端に溶けた。


時々、エレアがどうしようもないほど怖いと思う。

自分の劣等感がそう思わせるのか、自分に理解が出来ないからか。


「ねえさまも一緒に来てくれたら良かったのに。あの人達とも離れられて自由に過ごせたし、ねえさまなら頑張らなくたって十分普通にやっていけたよ? 拍子抜けだったもん」

「……買いかぶり過ぎよ」

「ねえさまは自己評価が低すぎると思うな。エレアと比べてる?」


言葉に詰まると、エレアは苦笑した。


「あの人達のせいだよね、ねえさまが卑屈になっちゃったの。自分は大したことない癖に、ねえさまにだけ厳しいんだから。……エレアね、ああいう人達大嫌い」

「……エレア」

「どうでもいいことにこだわって、下らない価値観を押しつけるんだもの。エレアの方が確かにちょっと魔法は得意かもだけど、だからってねえさまの価値が変わる訳じゃないのに……勝手に比べて良し悪しを決めて、何様のつもりなのかな」


心の底から気持ち悪い、と冷ややかな声で続けた。

ぞっとするような、そんな声音に目を伏せる。


妹のことを嫌っているわけじゃなかった。

昔からエレアは変わらない。

自分よりもずっと劣る、そんなわたしを慕ってくれている。

小さな頃からずっと、わたしはエレアにとっての『ねえさま』だった。


妹に負けないように、努力するわたしは頑張り屋。

妹に笑われないように、いつも気を張るわたしは真面目。

妹への嫉妬を取り繕うように、姉として振る舞うわたしは優しい。


エレアはいつも、わたしが見せる綺麗な表面ばかりを評価した。

だからこそ、向かい合うと自分の醜さばかりが際立った。


あの夜に、妹からの贈りものを見て、笑えなかった自分。

妹の愛情に、嘘偽りない愛情を返してやれない自分。

一方的に羨み妬み、劣等感を感じてしまう自分。


わたしが誰より嫌いなのは、いつだってそんな自分で、それ以外の誰かじゃない。


蜂蜜をたっぷり混ぜた紅茶を手渡すと、ありがとう、とエレアは笑う。

ふぅふぅと熱を冷まして口付けて、唇と舌を湿らせるように。


「えへへ、ねえさまの淹れてくれる紅茶がやっぱり一番」

「エレアは蜂蜜をそのまま舐めさせてたら満足しそうよね」

「むぅ、エレアだっていつまでもお子様じゃないんだから。ちょっとは大人になったんだよ?」

「背だけは随分伸びたかもね」


苦笑すると、エレアは唇を尖らせた。

けれど頭を撫でると嬉しそうに、猫のように肩を寄せる。


甘い匂いのする髪は、さらさらと柔らかい。

笑う顔は無邪気で、綺麗で、愛くるしい。

醜い感情は胸の中で渦巻いて、けれど同時に愛しいとも思う。


「本当に、わたしに会うためだけに来たの?」

「一番の理由はね」


笑った後に、嘆息した。


「色々エレアも嫌になったから」

「嫌に?」

「そー。段々イライラして、ねえさまいないのになんでこんなところ通ってるんだろーって考えたら、どうでも良くなったの。そもそも別にあそこでやりたいこともないし……あの人達はそこで主席卒業して欲しかったんだろうけど、エレア、別に興味ないし、どうでもいいもん」


きっとエレアは、そこでも天才だったのだろう。

誰もが喉から手が出るほど手に入れたい称号や肩書きさえ、そう言ってしまえるくらいに。

エレアは誰より恵まれていて、だからこそ孤独なのだと思う。


やり直せるだろうか、と考えた。

あの夜、笑ってあげられなかった、そんな自分のやり直し。

笑えなかった、そんな自分のやり直し。


こうしてエレアが訪れたのは、神様か何かが与えてくれた機会なのかも知れない。

先生のように、綺麗な人間になれたなら。

心から、自分を慕う妹を愛することが出来たなら。


そうしたら、わたしは自分を好きになれるのかも知れない。

昔の自分は若かったのだとか、あんな風に笑ってしまえるくらいに。


「まぁでも、理由は他にもあるんだけどね」

「何?」


尋ねるとエレアは楽しそうに、まだひみつ、と笑った。


「……意地悪ね。わざと気になる言い方をして」

「えへへ、機会が来たら教えてあげる」


頬を引っ張ると、エレアは無抵抗に体を寄せて、押しつけた。

それから紅茶を宙に浮かべると、膝の上に頭を乗せてわたしに尋ねる。


「それよりねえさま、さっきの人は?」

「ここの導師で、ローク先生。植物が専門の人で……わたしも時々、薬草園の手入れを手伝ったりしてるの」

「ふぅん、好きなの?」

「っ……」


思わずむせかけて、エレアを睨んだ。

エレアはニコニコとわたしを見返す。


「その反応は図星かな?」

「そ、尊敬してるだけ……好きとか、そういうのじゃなくて」

「隠さなくていいのに。顔真っ赤だよ」


言いながら、わたしの頬を撫でた。


「か、隠してるとかじゃなくて……」

「でも、それで分かったかも。なんか、ねえさまの雰囲気変わったし」

「え?」

「ちょっと柔らかくなったというか……」


そんな言葉に驚いて、尋ねる。


「そう……かしら?」

「うん。前はもっと怖い顔をしてたもの」


頬を撫でる手が滑るように。

恋は人を変えるってやつかな、と親指が唇をなぞった。


「だ、だから、そういうのじゃくて……」


言い訳をしようとすると、エレアは笑う。


「ねえさまはかわいいね」

「……もう。年上にそんなこと言わないの」

「だってかわいいんだもん。……久しぶりに一緒に寝ていい?」


尋ねられて、苦笑する。


「その話を続けなきゃね」

「えへへ、ねえさま大好き」


そして笑うエレアの頭を撫でて、目を閉じた。

これまでどう生きてきたかは変えられなくとも、これからどう生きていくかは変えられる。

そんなことを考えながら、静かに紅茶に口付けた。









エレアはあっという間に学院の顔になった。

世界最高峰の魔法学院で、その頂点に立っていた存在。

多くの者は優秀な人間を羨み妬むが、一線超えれば薄れて霞む。


そしてそんな才能故だろう。

エレアは良くも悪くも差別をしなかった。

どんな相手にも気さくに話しかけたし、落ちこぼれを笑ったりはしない。

それどころか伸び悩む生徒の相談に乗り、時間を使って魔法を教え、手解きを。


人と関わりを持とうとしなかった、そんなわたしとは大違い。

何もかもが、わたしとは違っていた。


時々どろどろとしたものが渦巻いて、けれど以前よりはずっと小さい。

エレアは、わたしがこうなりたいと思う憧れだった。

あまりに近くにいて、あまりに目映くて、だから見まいとした、そんな憧れ。


一度離れて再会したのが良かったのか。

以前よりもずっと、フラットに妹を見られるようになっていた。


「どうですか、先生」


いつものように薬草園に向かうと、ドームの中にいた先生に声を掛けた。


「驚いた。ポレアの花もそうだが、どれも生育が良い」

「……良かった」

「才能というものを痛感するよ。何年掛けても僕が分からなかったことを、ひと月足らずで解決してしまうんだから」


その言葉に固まると、先生は苦笑し、首を振った。


「才能という言葉で片付けるのはいけないな。しかし……見えているものが違う。研究不足で文献にさえまともに記されていないものも少なくないんだが、ただ詳細に観察することによって適した育て方を見出すとは。……目から鱗だ」


情けないことだがね、と先生は頭を掻く。

わたしは静かに笑って言った。


「……あの子は、天才ですから」

「そうだね。本当に、君から聞いた通り……ただ忘れてはいけないことは、彼女も我々と同じ地平に立っている、ということだろう」

「……?」

「その足跡を辿り、学び、改めながら、自分を変えることは出来る」


先生は微笑んだ。


「確かに彼女は天才で、偉大な先駆者だろう。空の高みを目指す人生ならば、決して追いつけず、越えられない壁のようにも思えるが……そればかりが人の幸せだと思うかい?」

「……思わない、です」

「人それぞれ、誰もが憧れる生き方ばかりが幸せではない。自分が何に幸せを見出すか……人が大事にすべきはそういうところだ。川の畔で佇む人生を笑う人間もいるかも知れないが、そこに幸せを見出すならば、他人の評価なんて気にする必要なんてないと僕は思う」


そんな言葉を静かに聞いて、わたしもまた、微笑んだ。

先生は笑って、そんなわたしの頭を軽く叩いて、撫でた。


「君は妹に勝てないのかも知れないが、競うばかりが人生じゃない。見方によっては、多くの学びを与えてくれる相手に巡り会わせたことは、とても幸福なことだ。……もちろん、それまでのことを思い返せば、素直にそれを受け入れることは難しいかも知れないけれど」

「……いえ。頑張ってみます」


頷くと、言った。


「……妬んでしまうくらいに、自慢の妹だって思っていますから」


嫉妬は、憧れの裏返し。

エレアはわたしの『こうなりたい』を、呆気なくこなしてしまう子。

努力もせずに魔法を使えて、両親にいつも褒められて、色んな人から愛されて。


「エレアを自慢の妹だって、心から笑えなかった自分を……わたしは変えたいです」


そうか、と先生は笑い、はい、と答えた。


あの夜に妹が見せた光のパレードが、最初で、全て。

今に繋がるわたしの全部は、あの日の夜から始まった。


そんな自分を嘲笑ってくれたなら、どれほど良かっただろうと何度も思って。

けれどそうじゃなかったから、今こうして、機会を与えられた。

それはきっと、喜ぶべきことだろう。


「これも、セーラの導きかな」

「……奥さん、ですか?」

「言ったとおり、僕は恥ずかしい人間だったから。……彼女に出会って、彼女の生き方に目を奪われて、彼女のように生きようと思った。昔の僕なら君ともこうして仲良くなれていなかっただろう」


懐かしむように目を細めて、続けた。


「難しい顔をしていた君が笑うようになって、前を向けるようになって。僕が良い影響を与えられたなら、それはきっと彼女がいたから。そして僕も、そんな君と出会えたおかげで、長年見ることの出来なかった景色を目にしている」


活き活きと色付く草花を眺め、見渡し、瞼に閉じ込めるように目を閉じて。


「これで僕も、忘れかけた夢の続きを見ることが出来る」


そう一言零した。


「それは……」

「聞けば笑ってしまうような、下らない夢だけれどね。……一応、僕にもそういうものがあったんだ」


苦笑する先生に、深くは問えなかった。

きっと奥さんに関する話であろうから、わたしには立ち入る資格もない。


言葉の端々に滲む愛情。

先生は今も変わらず奥さんを愛していた。

この薬草園も彼女が愛した場所であると聞いていて、毎日をここで過ごすのもそういう理由。


好きになるほど、それ以上は踏み込めず、踏み込もうとも思わなかった。

ただ、そんな人と出会ったのだと、綺麗な思い出のまま閉じ込めたいと思うから。


棚の上に置かれたポレアの鉢植えを先生は手に取って、


「君にも、君が望むような花が咲くことを願っているよ」


わたしに預けて静かに笑った。

薄青の花弁は、輝かなくても美しい。


受け取ると礼を言って離れ、寮に向かって部屋に飾る。

そして、エレアはどこにいるんだろう、と探していると、食堂の方に人だかり。

どうかしたのだろうか、と近づけば、生徒の一人が慌てたように声を掛けてくる。


眉間に皺を寄せて、人混みを掻き分けると、


「エレア! 何、して……」

「あ、ねえさま」


女生徒の一人を魔力で宙空に吊り上げながら、こちらに気付いたエレアが告げる。


「この女がね、ねえさまの悪口を言ってたの。……そうだよね?」


生徒達が遠巻きに輪を作る中、エレアは笑顔で言った。

吊り上げられた女は首を押さえて苦しみ、怯えたように許しを乞う。


顔面を蒼白させているのは、見覚えのある同級生。

わたしを嫌っている一人だった。


「ゅ、許して……」

「嫌。これはね、エレアが合わせてあげてるの。あなた達の下らない価値観に」


呼吸が止まるような、そんな圧力。

止めなければと踏み出す足が、床に張り付くようだった。


「能力で比較するのが好きなんでしょ? 確かにその価値観なら間違いじゃないよ、ねえさまがエレアに劣るのは事実だもん。でも、そういうあなたはどこにいると思う?」

「ひ……っ」

「その下らない価値観で考えたとして、どうかな? エレアが例えばあなたの顔を二目と見られないぐちゃぐちゃにしたとして、エレアは裁かれるかな? 家柄も実力も、石ころみたいなみたいなあなた相手なら小言くらいで済んじゃうとエレアは思うな」


エレアが指を振るうと、女の眼前に浮かぶのは炎。


「ぇ、エレア……っ」

「ぁ、ぁやま、謝りますっ、だから……っ」

「謝るとか謝らないとか、そういう話をしてるわけじゃないよ。あなたの考えを最大限尊重して、どうなるか見せてあげてるだけ。石ころに謝られたところでエレアは不愉快だもん。小言かあなたの顔、どっちかを我慢なら、エレアはあなたの顔の方が我慢出来ないと思うから、そうするの」


笑いながら、本気だった。

更に指を振るおうとしたエレアを見て、


「エレアッ!!」


大声を張り上げた。

エレアの指が止まり、不機嫌そうにわたしを見る。


「離してあげて。……やり過ぎよ」

「やり過ぎじゃないよ。二度と不愉快な言葉を聞きたくないから、見せしめにするだけ」

「……離してあげて」

「何でねえさまがこの女の心配するの? エレア、すっごい不愉快なの」


宙に吊り上げたまま、エレアはわたしに向き直った。


「どこに行ってもおんなじ。あっちと比べてこっちが上とか下だとか、勝手に押しつけてくるの。じゃあエレアが一番偉いから死んで欲しいって思うの、何か間違ってる? 理屈はあってるじゃん」


イライラするの、とエレアは言った。


「ねえさまだって、そんな風に比べられるから、そんな人間ばかりだから、エレアの側にいたくなかったんでしょ?」

「っ……」

「エレア、うんざり。疲れちゃったし、ここまで来れば昔みたいにねえさまといられるかなって思ったら、どこにでもいるんだね。心の底から気持ち悪い」


冷え切った声で、女を見上げた。


「……そういう理屈と価値観で生きてるんだし、本望じゃない? エレアを不愉快にさせたらこうなるんだって、身をもって体験出来てさ」


再び指を掲げようとしたのを見て、咄嗟に飛びつき、抱きしめる。


「……ねえさま」

「離してあげて。……怒ってるのは分かる、でも、もう十分だから」


しばらくエレアは黙り込んで、指を振るう。

炎が霧散し、女を吊り上げていた魔力が消えて、床に叩き付けられるように倒れ込んだ。


それからするりと腕を解くと、エレアは女の前にしゃがみ込む。


「ねえさまに免じてちょっとだけ我慢してあげる。良かったね」

「ぁ、ぅ……」

「でも気を付けてね。エレア、許したわけじゃないから」


そして怯える女に笑って告げると、わたしの腕を取った。


「行こ、ねえさま。イライラしたから、ちょっとお昼寝したいな」

「……分かった」


そうして腕を取って歩くエレアを避けるように、人混みは左右に分かれた。

寮に向かう道中、何を言えばいいかも分からず、何度も口を開き掛け、閉じた。


『――エレアの側にいたくなかったんでしょ?』


そんな言葉が、頭の中でこだまする。

妹を傷付けたのは、きっと他の誰でもなく、わたしなのだろう。


部屋に入るとエレアは雑に靴を脱ぎ捨てて、


「ねえさま早く」


とわたしを誘う。

エレアの靴を揃えてベッドに上がると、すぐさまエレアは抱きついた。

ぎゅうぎゅうと、顔を胸に押しつけるように、しばらくそうして。


「ねえさまは、エレアのこと、嫌い?」

「……嫌いじゃないよ」


答えると、再び尋ねた。


「じゃあ、好き?」


今度は少し間が空いて、目を伏せた。


「すぐに答えてあげられない、自分は嫌い」

「……そか」


顔を離すと、わたしの腕を枕にした。

目を合わせられず、ごめんね、と口にする。


「謝らなくていいよ、知ってたし、ねえさまは悪くないし」

「……エレア」

「そんなねえさまだから、エレアはねえさまが好きなの」


エレアは笑って、天井を見上げた。


「嫌いだって言わないねえさまも、嘘でも好きって言わないねえさまも、好き。ほんとはエレアを疎ましいって思ってるのに、切り捨てたりしないで、謝っちゃうねえさまも好き。……エレアはね、そんな優しいねえさまが世界で一番好きだよ」


幸せそうにエレアは言う。

そんな言葉に、目を伏せた。


「……わたしは、そんな風に言ってもらえる人間じゃない」

「ねえさまはちょっと疲れちゃっただけだよ。毎日毎日下らない価値観を押しつけられて、評価されて、比べられて……それでも誠実で、優しいんだもん。そもそもねえさまの何が悪いの? 何か悪いことした?」

「それは……」

「してないよ。あの人達や周りの人間が比べてただけ、エレアに比べたら劣るからって。訳分かんないよね、ほとんどはそんなねえさま以下なのに、偉そうで」


苛立たしそうに言って、怒気を押し出すように息を吐いて。

それから笑うと、わたしの頬を撫でた。


「ねえさまは何も気にしなくていいよ。……これからはエレアが守るから」


どう答えるか迷って、ありがとう、と口にした。


「でも、ああいうことをしちゃ駄目よ」

「……何で?」

「何でって……」

「理不尽を我慢してたら、理不尽な扱いを受けるだけだよ。ねえさまは我慢して、良いことあった?」


エレアはなかったけど、と続けて、再びわたしの胸の中。

すぐに言葉が出てこなくて、その内、エレアの静かな寝息が響いた。









あっという間に周囲の人間を魅了して、次の瞬間には腫れ物に。

人に囲まれていたエレアの周囲からは人が消えて、疎らになった。


けれどエレアは気にした様子もない。

毎日笑顔を絶やさず、薬草園にいることも増えた。


先生が語った夢と言うのは、何かの研究だったらしい。

エレアはそれを手伝っているようで、先生の側であれこれと魔法薬の話をしていた。

穏やかに時間を過ごしていた先生は一転、目元にに隈ができるほどのめり込むよう。

恐らく、夜遅くまで研究をしているのだろう。


何の研究をしているのかと尋ねると、先生は笑って曖昧にはぐらかす。

成果が出れば必ず君に見せよう、と口にしながら。


寮の私室でエレアに尋ねれば、


「気になるなら、ねえさまも混ざる?」


そんな言葉が返ってくる。


「わたしが行っても邪魔になるだけだもの……魔法薬は専門じゃないし」

「そう? まぁ大丈夫だよ、エレアが先生に横恋慕、みたいな話じゃないから安心して」

「ぁ、あのね……」

「先生良い人だからね。ねえさまにも良くしてくれたみたいだから、エレアが恩返ししてあげよーかなって、そんな感じ」


ベッドでわたしの枕を抱きながら、ころころとエレアは転がった。

そんなエレアに苦笑して、目を伏せる。


暗記は得意な方。

勉強は出来たし、その範囲ではそれなりにやれる。

ただ、自分にはエレアのような発想力もセンスもなかった。

同じような範囲を学んだエレアがいる以上、自分がそれに加わって、役に立てることはないだろう。


「わたしに手伝えることがあれば言って。薬草園の手入れは任せて欲しいと伝えてあるけれど」

「心配しなくても、もうすぐ終わるよ。特に難しい事をやってるわけじゃないし……それよりねえさま、先生の研究、全然見当もついてないの?」

「……? ええ、奥さんの研究……とか?」

「それは当たりだね」


エレアはくすくすと笑い、わたしは睨む。


「じゃあ尚更分かる訳ないじゃない。奥さんの話なんて、他人のわたしじゃ触れにくいし……人柄だとか、結婚した経緯だとか、先生が話してくれたことくらいしか聞いてないもの。一応言っておくけれど、嫉妬もしてないからね」

「そうなの?」

「ええ。……奥さんへの愛情含めて、先生だもの。それをどうしようだとか、そんなおこがましいことは思ってない」


嘆息する。

元々どうなりたいとか、そんなことは考えていなかった。

恩を返したいと、そういう気持ちはあったけれど、エレアがいるならわたしは不要だろう。


「……先生をお願いね」

「だから心配しなくていいのに……ねえさまってほんと優しいよね。いつも我慢してさ」

「我慢じゃない」


呆れて告げると、エレアは笑う。


「ねえさまはいつも損しても我慢してるから、我慢してるのも分からなくなっちゃってるのかもね」

「……それは嫌味?」

「ううん、言ったでしょ。エレアはそんなねえさまが好きなんだもん」


お昼寝しよ、と手で誘い、わたしは再び溜息を。

ベッドに入るところころと、エレアが転がり近づいた。


「多分後一週間くらいかな。ねえさま多分、びっくりすると思うよ」

「びっくり……?」

「うん、楽しみにしてて」


楽しそうに笑って、そう言って。


それから、エレアはほとんど先生のところに入り浸り。

研究の完成間近で忙しいのだろう。

ドームの一つを研究に使っていたのだが、二人はほとんどの時間をそこで過ごした。


日に日に先生の顔色は悪くなっていたが、それに反して表情は明るい。

良い材料が手に入った、エレアのおかげだと嬉しそうに告げ――それは六日目のこと。

先日までここに通っていた女生徒が、急に姿を眩ましたのだと、そんな話が耳に入った。


それはエレアに脅され、近くにある実家に引きこもっていた女生徒。

一昨日の晩、忽然と部屋から姿を消したという。

話をしていた生徒達は、わたしを見るとすぐさま慌てたように口をつぐんだ。


エレアは普段と変わらない。

朝が弱いため朝食は取らないが、昼と夜は昨日も今日も、一緒に食事をしながら笑顔を浮かべていた。

ここのところ、夜に何をしているのかは知らない。

先生のところに入り浸っている、と何となく思っていただけ。


『でも気を付けてね。エレア、許したわけじゃないから』


良くない考えがちらついて、どうかしてる、と思考を追い出す。

酷い疑念だった。

そんな噂があっても、夕食の際のエレアは普段通り。


先生が熱心だったから今晩完成かも、と食事をしながら笑っていた。


良かった、とわたしも笑って、問い詰めることはせず。

湯を浴びて、部屋に戻って、何をするでもなくベッドに転がった。


違うことでも考えようと、先生の研究についてを考える。

完成とは何が完成するのだろう。


話を聞く限り、長期的なものではない。

少なくともエレアが現れただけで、あっさりと完成してしまうもの。

研究が始まって一ヶ月も経ってはいない。

魔法薬か何か――それにしては、見せるというのも変だろう。

いや、特殊な効果でもあるならおかしな話でもないか。


ただ、何かが引っかかる。


見当もついてないの? とエレアは尋ねた。

特殊な効果の魔法薬であれば、見当をつけろというのは無茶な話。

もっと、簡単なものなのではないか。


『……? ええ、奥さんの研究……とか?』

『それは当たりだね』


楽しそうに、笑うエレア。


『聞けば笑ってしまうような、下らない夢だけれどね。……一応、僕にもそういうものがあったんだ』


どこか照れたように、苦笑する先生。


――良い材料が手に入ったんだ。


嬉しそうな笑顔。


「……奥さんの、研究」


思わず、口元を押さえて、震えた。

血の気が引くのが分かって、しばらくそのまま。


例えば愛する人を失ったとして、人が最初に考えることは何だろう。

研究者ならば、魔術師ならば、一体何を望むだろう。

聞いた誰もが、愚かだと笑うような望みを抱くのではないか。


死者の蘇生。

研究され尽くしたテーマの一つであり、天才と呼ばれた数多の魔術師が挑んでは敗れた。

もはや研究すること自体が愚かであると笑われる、そんな研究。

それでも、その完成を目指すものは後を絶たなかった。


恐らくは、愛する者を蘇らせるために。

笑われたとて気にもせず、手段も問わず。


材料に人間を使うのはポピュラーな手段だ。

人を生き返らせるために、人を使うのは自然だろう。

消えたあの女生徒と、材料という言葉が重なった。


そんなことはあり得ない、と考えた。

あの優しい先生に限って。


だが、わたしは一体、あの先生の何を知っているというのだろうか。

問うて、答えは出なかった。


「……馬鹿な想像よ」


言いながらも、部屋を出る。

廊下を進んで階段を降りて、薬草園の方へ。


「確認、するだけ」


言い聞かせるように口にした。

馬鹿な想像、ちょっとした一致に、勘違い。


入ってみれば、すぐに分かる。

そんな怖い顔をしてどうしたのかと驚かれ、全くの見当違いに安堵しながら、正直に答えて謝罪して。

二人に呆れられて、笑われて。

それで良かった。


馬鹿な想像が、違うというのを確認するだけ。

けれど、近づくほどに足取りは重く。


二人がいるドームの前に立つと、心臓が驚くくらいに早鐘を打った。

血液が循環しているのに、寒気がして、深呼吸。

心を落ち着かせて、平常心を取り戻すようにしながら、声を掛ける。


「先生、セリシアです」

「……あ、気になってねえさまが来たみたい」


楽しそうにエレアが言って、こちらにとてとてと駆け寄る音。

普段通りの様子にほんの少し安堵していると、入り口が開かれて。


「いらっしゃい、ねえさま」

「っ……」


呼吸が止まる。

棚に置かれていた草花の多くが、魔法薬に置き換わっていた。

中央の棚は棚同士が組み合わさった台がいくつか。

ナイフや羊皮紙、魔法薬が置かれて、即席の研究台であるらしい。

その内の一つには、何かにシーツが被せられていた。


――先生はその更に奥で、裸体の見慣れぬ女性に抱きついていた。


「丁度、完成したところだよ。さ、こっちこっち」


腰が抜けたようなわたしの腕を取ると手を絡め、引っ張るように中へ誘う。


「セリシア……来てくれたのかい?」

「その、人……は」

「彼女が、僕の妻、セーラだ。……ああ、すまない」


先生は涙を拭って、自分の着ていた白衣を女性に纏わせる。

セーラと呼ばれた女性は、優美な金の髪をした、美しい女性だった。

ただ、口を開かず、人形のような無表情でわたしを見つめる。


「生きて……いるんですか?」

「見ての通りだ、心臓もちゃんと動いている。君の妹のおかげだよ、本当に、なんと言っていいか……」

「恩返ししただけだからね。お礼なんていいよ、先生」


隣でエレアは、平然と笑った。


「ただ、エレアにお手伝い出来るのはここまで。生きて生活をする分には問題ないと思うけど、そのセーラさんが自分を取り戻せるかは賭けじゃないかな。エレアもそこからどうするのかって色々考えてみたけど、魂とかってエレアにも分からなかったところだから」

「……十分だ。君がいなければ、こうして彼女をもう一度見ることさえ出来なかった。この先は、時間を掛けて色々試してみるつもりだ」

「うん。エレアに分からない何かが鍵になることだってあるかも知れないし……エレアとしてはむしろ、そうであって欲しいというか。先生の愛が、セーラさんを目覚めさせる切っ掛けになるといいね」


ああ、と嬉しそうに頷いて、セーラと呼ばれる女性を見つめる。

見たことがないほどに、幸せそうな顔だった。


「それと死霊術って監査が厳しいみたいだから、特にここじゃ人に見られないように気を付けて。落ち着いたら先生のことを誰も知らないような土地に引っ越した方が良いかも……学院の影響が少ない土地にはいくらか心当たりもあるし、また明日にでも教えるよ」

「……何から何まで、ありがとう」

「えへへ、気にしない気にしない」


行こっか、とエレアはわたしを見上げた。

心の底から愉しそうな、そんな笑顔で。


「先生の邪魔になっちゃうといけないし」


答えられないわたしに構わず、腕を引き、途中で思い出したように指を振るう。


「忘れてた」

「……ぁ」


魔力の青いラインが走ると、シーツの被せられた台から浮かぶのは人骨だった。

風化が見られず、綺麗なもので、灰になっては崩れ落ちる。


「これ、肥料にでも使ってあげて」


お花になったら許してあげてもいいかな、と笑った。


それで、誰の骨なのかを理解した。








鼻歌交じり、上機嫌なエレアに連れられ、少し豪華な彼女の部屋。

月灯りだけが差し込む部屋で、わたしをベッドに座らせて、エレアは薄暗い中紅茶を淹れる。


「ちょっと試してみたかったんだよね。人の記憶から外見を引き出して整形するとか。先生の希望は死者の蘇生だったから、それっぽく骨を入れ替えてみたんだけど……まぁ肉人形から本当に蘇生させられるかは難しい賭けかなーって感じ」


笑いながらエレアは続けた。


「エレアはわりと魂って実在する派なんだけど、証明されてないしね。ただ、ああいう優しい人の願いは報われて欲しいなーって思うから、応援してるの」


今日はこんなことがあった、みたいな調子で、罪悪感の欠片もなく。

やっとのことで、わたしは尋ねた。


「……あなたが、唆したの?」

「唆すだなんて人聞きが悪いね。先生の夢のお手伝いをしただけだよ。元々先生は死霊術に興味があったみたいだし」


サイドテーブルを魔法で動かしわたしの前に。

紅茶を並べて隣に座ると、わたしを見た。


「ねえさま、一年もいて気付かなかった?」

「気付くって……」

「エレアはすぐに気付いたよ。ドームで管理されてる薬草……カモフラージュに珍しいものばかり集められてるけど、死霊術で使われるような霊薬の材料がほとんど揃ってたもの」


くすくすと肩を揺らした。


「それに、人を使うのだって初めてじゃないよ。仮死薬だって何だって作れちゃう材料があったし、聞いてみたら二人、実験に使ったことがあるんだって」

「っ……」

「一回目の挑戦に失敗して、万全を期して二回目にも失敗して、それが駄目だったから諦めて、思い出に浸ってただけ……タイミングが違ったらねえさまも危なかったかも。ねえさまに関してはそういうつもりはなかったみたいだけどね。昔の自分に似てたんだって」


蜂蜜をたっぷり垂らして、混ぜ込んで、エレアは紅茶に口付ける。


「最初はね、悪い虫ついちゃったかな、って困ってたんだけど、良かったよ。先生はいい人だよね、純粋で一途で……心の底から奥さんを愛してるんだなーって。エレアもお手伝いしながら、ついついねえさまのこととか色々話し込んじゃった」

「……だからって、こんなの許されることじゃない」

「誰に許してもらわなきゃいけないの?」

「誰に、って」

「この世界に? それとも社会? もしくは周りの誰かかな? それともねえさまが許さない?」


言葉に詰まると、エレアは頬に触れ、顔を自分に向けさせる。

思わず目を逸らすと、


「エレアを見て」


エレアはわたしの目を見つめて言った。


「ねえさまって、すぐに目を逸らすよね。どうして?」

「どうして、って」

「子供の頃は違ったよ。いつもエレアをまっすぐ見てくれた。でも今は逸らしちゃう。卑屈な自分を悟られるのが嫌? そんな自分が恥ずかしい? 情けない?」


目が泳ぐと、ほらまた逸らした、とエレアは笑う。


「……わたしが嫌いだから、エレアはこんなことをしたの?」


尋ねると、違うよ、とエレアは答えた


「っ……」


それから唇を押しつけられて、その感触に思わず突き飛ばす。

エレアはベッドの上から転がって、尻餅を突き、


「ご、ごめ……」

「えへへ、ねえさまはすぐに謝るよね。今の、悪いのエレアなのに」


自分の舌を舐めて、笑う。


「エレアはねえさまが大好きだよ。……ねえさまをそんな風にした、こんな世界が嫌いなだけ」


それから再び、わたしの隣に。

混乱から立ち直れないわたしに身を寄せて、続ける。


「ねえさま、この世界で生きてて良いことあった? エレアはなかったよ、ねえさまはずーっと辛そうで、エレアから段々離れようとして。エレアがどうにかしたいって思っても、原因はエレアだもん。エレアが何をしても、何を言っても、疎ましいって思われるだけ。……ただ、昔みたいにねえさまと過ごしたかっただけなのに、周りの全部が邪魔をするの」


また、わたしの頬に触れた。


「エレアが悪いの? エレアは天才だから、落ちこぼれのねえさまといちゃいけない? エレアはこんなに大好きなのに、生まれた時から一緒なのに、我慢しないといけないの?」

「……エレア」


大きな青い瞳が、悲痛なほどに潤んで見えた。

誰よりも愛らしい美貌を歪めて、エレアは笑う。


「エレアね、ねえさまと離れてる間に決めたの。もういいかなって。こんな世界の下らない価値観がエレアの幸せを壊すなら、エレアがそれに従って我慢する理由ってどこにあると思う? ねえさまの側にいることさえ出来ないなら、そんな世界、エレアに何の価値もないじゃん」

「……そんな人、ばかりじゃ」

「ねえさまが大好きな先生みたいにね。ねえさまの今の価値観からすると、先生はどう映るの? 頭のおかしい狂人? 人殺しの犯罪者かな?」


愉しそうに、


「この世界の価値観なんて心底どうでもいいって思える人間が、まともな人間なはずないじゃん。ねえさまの言うそんな人って、頭のおかしい人だけだよ。違うの?」


けれども憎悪するようでもあった。


「答えてよ。どう? 違わないでしょ?」

「……それ、は」

「エレアにも同じこと言っていいよ。人殺しで頭がおかしい、気持ち悪いから近寄るなって」


吐き出すようなエレアの言葉に、ごめんなさい、と目を伏せる。

無邪気に笑っていた妹を、こんな風に追い詰めたのは、他の誰でもなくわたしだった。


「エレア、理不尽なこと言ってるだけなのに謝っちゃうの、やっぱりねえさまだよね。エレアが疎ましくなっても嫌いになっても、そう思っちゃう自分が悪いって考えちゃうの、ほんと不思議。でもすっごく、ねえさまって心が綺麗なんだろね」

「綺麗じゃ――っ」


エレアはわたしを押し倒して、馬乗りに。


「ごめんね。エレアは悪い子だから、そんなねえさまの優しさに付け入るの」


見下ろしながら、悲しそうな目で言った。


「エレアとこれからずっと、一緒にいて。二度と離れないって誓って」


口元にだけ、笑顔を浮かべて。


「ねえさまが、うん、って言うまで、エレアは毎晩適当に一人殺すことにするよ。最初は先生にしようかな。ねえさまが勝手に死んだりしたら、エレアは自分が殺されるまで適当に、手当たり次第に八つ当たりで人を殺すことにする」

「っ……」

「……エレアに押しつけられた理不尽を全部、ねえさまに押しつけるの。いいよね?」


エレアは悲しそうに尋ねて、わたしの両手を取った。

それから自分の首に、巻き付けるように押しつける。


「その代わり、いつでもエレアを殺していいよ。エレアにうんざりしたら、どうしても嫌になったら、いつでも、今すぐにエレアを殺したっていい。エレアは抵抗したりしないから」


両手に細い首の感触が伝わった。


「……選ぶのは、ねえさま」


言葉と共に柔らかい喉が震えて、ほんの少し力を込めると指が食い込む。

苦しそうにエレアは眉根を寄せて、けれど怯えた様子もなく、満足そうで。


結局、それ以上締められなかった。

出来るはずもなければ、そんな風にしてやりたいと思うほど妹を憎んでもいない。


「やっぱり出来ないんだよね、ねえさまは」


手を離すと、エレアは笑った。


「言われたい放題でも、どんな理不尽な扱いを受けても、怒ったりもしないで我慢するの。誰かのせいにしたりもしないし、責めるのは自分だけ……久しぶりに会っても、全然変わってないよね」

「そんなこと……ない」

「あるよ。ねえさまがそんなだから、皆から好き勝手されるの、言われるの。エレアはそれが、どうしようもないくらい、許せない」


冷ややかに言って、わたしの手に頬を擦りつけた。


「どうせ好き勝手されるなら、それでエレアから離れていくなら、エレアが好き勝手したっていいと思わない? エレア、ねえさまよりもずっと、ねえさまのことを大事にするもの」


一転して、優しい声音を響かせて。

何を言おうか言葉に迷い、そんなわたしを見ながら微笑む。


「……ね、昔さ、ねえさまが木から落っこちたの覚えてる?」

「……?」

「エレアが木に張り付いてたカブトムシが見たいってわがまま言ったら、ねえさまが一生懸命取ろうとしてくれたの。ちょっと待ってなさい、って……ああいう虫、すっごく苦手なのに」


懐かしそうに、エレアは長い睫毛で瞳を包む。

微かに、そんな記憶があった。

小さな頃の――印象にも残らないくらいの、そんな思い出。


「でも、掴もうとして頑張ってるときに、逃げようとしたカブトムシが飛んで、びっくりしたねえさまが落ちちゃったの。すごく怖かったのかわんわん泣いて……エレアも一緒に、わんわん泣いて」


それでね、とエレアは続けた。


「その夜寝るときに、ごめんね、って謝ったの。……ねえさま、何にも悪くないのに、捕まえてあげられなくてごめんね、って。悪いのは、わがまま言ったエレアなのに」


両手を自分の胸に押し当てて、幸せそうに笑う。


「エレアね、その時思ったの。……こんなに素敵な人が、エレアのねえさまなんだ、って」


大切な思い出に浸るように、少しの間目を閉じて。


「ねえさまは、世界で一番綺麗だよ。……エレアはちゃんと知ってるもん」


それから、愛おしそうにわたしを見つめた。


「……あなたは、わたしを勘違いしてるだけよ」


その時のわたしは多分、妹に尊敬される姉でいたかったのだと思う。

妹を愛していたというよりも、妹に尊敬される自分が好きだっただけ。

あの晩エレアが見せてくれたプレゼントを見て、笑えなかった自分が、何よりの証拠。


わたしは、自分が可愛かっただけなのだ。


「良く懐く犬みたいに可愛がってただけ。自分より下だと思ったから、優しくして、可愛がったの。だからそうやって見下せなくなったら、途端に疎ましくなったの。……わたしは、あなたの思うような人間じゃない」


口にすると、視界が滲んだ。

どうしようもないくらい、情けなくて、恥ずかしくて。


「……最初から汚くて、歪んでる」


妹の才能を、笑って褒めてあげられるような、そんな人間でありたかった。

けれど違って、自分はこんなにも醜い人間なのだと突きつけられて。

それでも矮小なプライドを守るために必死になって、これまで生きてきたのだ。


いつもいつも、自分のことばかり。

己の保身にしか興味がない、そんな自分を慕ったばかりに、誰からも愛されたであろう妹はこんな風に歪んでしまった。

全部全部、わたしの心の醜さが招いてしまったことだった。


エレアは顔を寄せると、わたしの目尻に口付けを。


「本当にねえさまが汚いなら、そんなことで傷付いたりしない」


ねえさまは綺麗なだけだよ、とエレアは囁いた。


「ねえさまが自分をどんなに責めたって、エレアの気持ちは変わらない。汚いって言うねえさまを世界で一番綺麗だって思うし、心の底から愛してあげる自信があるよ。……エレアは子供の頃からずっと、そんなねえさまと一緒にいるためだけに生きてるんだもの」


だから平気、とエレアは笑う。


「二人でずーっと遠くに行って、一緒に暮らそ? 周りの目なんて気にならない場所。誰もエレア達を比べたりしない場所。そんな場所で一緒に暮らして、それでも気持ちが変わらなければ……もしもねえさまがエレアに我慢出来なくなって、エレアを殺せたら、ねえさまの勝ち」


両手を頬に添えると、真っ直ぐとわたしを見つめた。


「……ねえさまに心から、愛してるって言わせることが出来たなら、エレアの勝ち」


言いながら、既に勝ち誇るような、そんな顔。

その瞳に執着と、深い愛情を宿して笑う。


「一回全部忘れて、やり直そうよ。……エレアと一緒に、新しく」


鼻先を触れ合わせるように、顔を近づけて。


「沢山傷付けられたことも忘れられるように。……自分を責めるねえさまが、もう一回、自分を好きになれるように。ねえさまに自分の価値がわからないなら、エレアがねえさまに価値を与えてあげる」


優しい笑顔でエレアは言った。


「嫌って言っても、エレアがそんな場所に連れて行ってあげる。もしなかっても、作ってあげる。エレアがねえさまを、昔みたいに笑えるようにしてあげる」


エレアの両手は頬を撫でるようで、閉じ込めるよう。

逃げ出さないよう、捕らえて、離さず、優しいその手の感触が怖かった。


「ねえさまの怖いものは、エレアが全部遠ざけて、見えないようにしてあげる」


人の手の中に閉じ込められた蝶は、このような気分なのかも知れない。

綺麗だなんて、自分の勝手な物差しで評価して、有無も言わさず籠の中。


「……かわいそうなねえさま。でも、もう心配いらないよ」


閉じ込められた蝶は、一体何を考えるのだろうか。

爪も牙も毒もなく、逃げるだけしか出来ない弱い生き物。

その唯一の自由さえ奪われて、何を思って生きるのだろう。


嘆くのだろうか、悲しむのだろうか。

もしかしたら喜ぶのかも知れない。

諦めてしまえば、受け入れてしまえば、悩む必要さえなくなるから。


最後に残ったプライドさえも手放してしまえるならば、それは一つの幸せだろうから。


「これからはずっと、エレアが大切にしてあげる」


わたしの主張も葛藤も、何もかもが無価値であった。

変わりたいと願う意思でさえ、この先にある世界の檻の外。


「ずっと、ずーっと、エレアが大事にしてあげる」


例えばそれは、愛の檻。

無邪気な子供が作りあげる、理不尽で歪な小さな楽園。


「――だからもう二度と、エレアの前からいなくなったりしないでね」


冷ややかに脅した唇が、檻に鍵でも掛けるように。

ただただ優しく押しつけられた。

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例えばそれは、愛の檻 ひふみしごろ @hihumishigoro

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