第3話 不吉な訪問者

 輪国わこく――。

 東西南北、そして中央に位置する五つの大きな島々と、それらの周辺に群がる数多の小島から成るかの皇国は、かつて数百年にも及ぶ花川幕府の統治のもと太平の世が長く続いていた。しかし、度重なる天災と飢饉、それによる幕府の内政の乱れにより、民衆の一揆や士族内乱が各地で勃発。ついには幕府軍と輪皇による治政を推進する輪皇軍の二大勢力による皇幕こうばく戦争にまで発展した。


 皇幕戦争の火種となった央都決戦では、輪皇軍の勢力に適うことなく幕府軍は一時退却。その後、いくつかの交戦を経て、栄耀栄華を極めた花川幕府は終焉を迎えた。代わりに中央政府が樹立し、輪皇中心の新政が始まりつつあった。


 そんな血で血を洗う央都決戦から四か月が経った頃。

 南島である輪南わなんの最南地域にして、清水一門ゆかりの地と言われている紀和きわ。そのとある山中で、桜夜は茂みに身を潜めて獲物に狙いをすませていた。少し離れたところにいる猪は、こちらの存在に気付かず黙々と野草をんでいる。


 警戒していない今が好機だと、桜夜は右手の人差し指に小さな水弾を創成し、それを標的に向けた。そのまま水弾を発射させる。音速で空を切る水弾は見事、猪の急所に命中した。猪が地面に倒れたのを確認すると、桜夜はすぐに獲物のもとへ向かった。


「良かった。一発で仕留められた」


 急所に当てられなかったら、今頃この猪はもがき苦しんでいたことだろう。桜夜は安堵の息をついて、猪を大きな泡玉で覆う。

 空を見上げると、春茜はるあかねを背に一羽の烏が鳴きながら滑翔していた。


「帰るか」


 桜夜が家路を辿ると、泡玉も意志をもった生物のように彼女の後を追い始めた。

 開けた場所にひっそりと建っている山小屋。さびれた古屋だが、雨風を凌ぎながら寝食するには十分な造りになっている。

 新鮮なうちに猪を捌いておこうと、桜夜が小屋の裏側に足を向けた瞬間――


「姉ちゃん、おかえり!」


 勢いよく戸口が開くとともに、溌溂とした少年の声が飛び込んできた。


「ただいま。蓮夜」


 明朗な笑みで出迎えてくれた弟に、桜夜は口元を綻ばせる。

 同じ水縹の髪に、自分と瓜二つの端整な面立ちをした少年。だが、一つ異なるのは瞳の色だった。桜夜は濃藍だが、五つ下の弟――蓮夜は真紅だった。

 まさに紅蓮の形容が相応しい赤瞳。それは、先祖である龍蛇神が禁忌を犯して邪神となった際に発現した〈業火〉の神力を宿している証。


 蓮夜は一族のなかでも特に珍しい、〈水〉と〈業火〉二つの神力を生まれ持つ稀有な存在だった。また、その存在は総じて完全変化することができるほどの濃い神血を受け継ぐと伝えられている。それゆえ、その強大な力が幕府に悪用されることのないよう、蓮夜は生まれた時から父の手によって周囲から秘匿され、息を潜めるように生き続けてきた。


「わ、猪だ!」


 蓮夜は桜夜の背後に浮かぶ猪を見るや否や、喜々とした表情で言う。


「夕餉はこれでお願いできる?」

「わかった。こっちもいっぱい山菜ときのこが取れたから、今日は猪鍋にしよう!」

「猪鍋か。いいね」


 楽しみにしてる、と桜夜が笑むと、蓮夜も上機嫌に頷いて夕餉の支度に取りかかった。

 蓮夜が準備している間、桜夜は猪肉を用意しに裏手にある作業台へ向かう。

 毛皮を剥いだ後、慣れた手つきで猪を丁寧に捌いていき、一口大に肉を切っていく。流石に二人だけでは全て食べきれないので、世話になっている猟師に肉をお裾分けした。


 山での生き方を教えてくれた恩義ある寡黙な老翁は、桜夜たちが住んでいる小屋から少し離れたところに居を構えている。この山小屋も、その猟師が貸してくれたものだ。

 桜夜が帰宅する頃には火輪が姿を消して、代わりに氷輪が闇夜を照らしていた。天を仰げば無数の星彩が瞬いており、幻想的な佳景をその目に映し出す。


「綺麗……」


 今日は快晴だったので、夜空が一段と輝いている。人工的な明かりが多い都市部では見られない美しい夜天を見納め、桜夜は小屋に入った。

 ぱちぱちと粗朶が燃える音が耳をくすぐり、食欲をそそる芳香が胃の腑を刺激する。


「いい匂い」

「あ、姉ちゃん。ちょうど今、鍋ができたとこだよ」


 蓮夜の向かい側に腰を下ろすと、お椀が差し出された。桜夜は礼を言ってそれを受け取る。


『いただきます』


 両手を合わせて、二人は柔らかい猪肉や野菜を口に運ぶ。

 噛めば噛むほど旨味が染み出て、両者は舌鼓を打った。これは無限にいけると、双方の箸は一向に止まる気配が無い。


「おかわり」

「はやっ! また最速記録更新したんじゃない? ちゃんと味わって食べてる?」

「食べてるよ。なにせ、自慢の弟が作った絶品料理なんだからね」

「それは買い被り過ぎ」


 他愛ない話に花を咲かせながら鍋をつついていると、あっという間に鍋は空になった。

 皿洗いなどの後片付けを済ませてしばらく談笑に耽った後、姉弟は継ぎ接ぎだらけの古ぼけた布団を並べて横たわる。


「おやすみ。姉ちゃん」

「おやすみ」


 山菜を採るために山道を練り歩いていたせいか、蓮夜はすぐにすやすやと規則正しい寝息を立て始める。桜夜も仰向けになって睡魔に誘われようとした刹那、突如いくつかの足音が鼓膜を掠めた。

 桜夜が勢いよく上体を起こすと、同じく足音を拾った蓮夜も目を覚まして顔を持ち上げる。


「姉ちゃん……!」

「蓮夜はここで待ってて」


 冷静な声音でそう言いつけ、桜夜は戸口まで急いだ。

 人ならざるものの血が流れているせいか、姉弟には鋭敏な五感が備わっている。通常の人間であればまず気づかない微音でさえ、彼女たちは明瞭に聞き取ることができた。


「気をつけて」


 蓮夜が言うと、桜夜は頷いて小屋を出た。

 夜風に揺れる葉擦れの音と夜禽やきんの囁きが冴え渡る。しかし、今宵は聞いたことのない雑音が夜陰に紛れていた。


 ――三、四……いや、五人か。


 足音の数からして複数人、こちらに近づいてきている。

 桜夜は〈水牙〉を手元に収め、足音がする方へ穂先を向けた。


「へえ、すごいなぁ」


 すると、輪南特有の訛りを含んだ男性の声が暗闇から忍び出る。


「気配消して、足音も立てんようにしたつもりなんやけど」


 明朗かつ飄々とした声音。声色からして、自分と同世代くらいの若い男性だろう。

 雲間に隠れていた春月が覗き、静謐な月光が桜夜たちに注がれる。


「やっぱり、その異常な聴覚は神様の血からきてんのかな」


 烏夜から出でしその者は、奇特な風体をした青年だった。

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