第2話 惜別

 桜夜はいよいよ絶望の淵に立たされた。


 桜夜たち清水しみず一門は龍蛇神を祖に持ち、男性なら〈龍男たつのお〉、女性なら〈蛇女じゃのめ〉と呼ばれている。変化は先ほどの桜夜のように、半龍半蛇になることを指す。


「私の場合は単なる変化ではなく、完全変化だがな」


 主からの酷薄な命令に弱く笑む父。桜夜は拳を握りしめ、花唇を噛んだ。


 ――どうして、父上は笑っていられるのですか……!


 完全変化とは、言葉通り龍や大蛇の姿に変身すること。神血を濃く受け継ぐ先祖は総じて完全変化することができたらしいが、人間の血が多く混じった今となっては人と龍蛇の融合体形である半龍半蛇状態が精一杯。桜夜もそのうちの一人に過ぎず、訓練しなければ理性を保つことさえ難しい。だが、稀に柳夜のような完全変化できる子孫が誕生していた。


 今回はその完全変化切り札をもって、この戦を無理やり相打ちにする算段なのだろう。


「……完全変化すれば、父上は神血の暴走によって自我を失ってしまいます。それに、おそらく十分ともたずに絶命してしまうでしょう」

「ああ。わかっている」


 柳夜は首肯し、再び娘の両肩に手を置いた。


「桜夜。お前は今すぐここを離れて母さんの家に向かえ。そして、蓮夜とともにどこかへ移り住んで静かに暮らすんだ」

「ま、待ってください! ならば父上も一緒に――」

「私はここで上様の命を遂行する」

「なっ……!」


 父の上衣を掴み、桜夜は声を荒げる。


「どうして命令に従う必要があるのですか! 上様に自害しろと言われているようなものなのですよ。父上だけじゃなく、多くの兵士たちも犠牲になります。それでもいいのですか⁉」

「いいわけないだろう!」


 不意の怒声に、桜夜は思わず怯んだ。

 服を掴んでいた手を離すと、柳夜は呻くように言った。


「できることなら、私もお前と一緒に蓮夜を迎えに行きたい。戦場を共にした仲間を殺めてしまうのも心苦しい。だが、ここで私が変化せずに立ち去ってしまえば、すぐ他の御庭番に気づかれてしまう。お前たちとともに逃げた私をすぐに追跡して捕捉しようとするだろう。ならば私は少しでも奴らを引きつけ、お前が無事に蓮夜と逃げられるようにしなければ」

「父上……」

「何より、私自身がお前をこんなところで死なせたくないんだ」


 愛する娘を、親である私が手にかけるわけにいかない。


 頬を撫で、愛おしげに目を細める父の柔和な面様。

 胸の内からこみ上げるものがあって、桜夜はついに透明な雫を流した。柳夜は愛娘を優しく抱擁する。


「お前たちには辛く、苦しい思いをたくさんさせてしまった。本当にすまない」


 柳夜の謝罪に、桜夜は顔を埋めたままかぶりを振る。


「きっと、これからも茨の道を歩かせてしまう。それでも私は願わずにはいられないんだ。どうか、身勝手な私の業を許してほしい」



 桜夜、生きてくれ。



「父、上っ……!」


 顔は涙に濡れ、嗚咽が止まらなくなる。

 本当は父と離れたくない。別れを告げたくない。けれど、いつまでも父に泣きついて彼の動きを止めてしまえば御庭番に怪しまれてしまう。終いには蓮夜を守れなくなる。


 父の想いと覚悟に報いるためにも、早く平静を取り戻して彼を送り出さなければ。

 桜夜は目元を拭い、父の温かい両手から身を引く。


「父上の命、しかと胸に刻みました」


 口角をあげる桜夜に、柳夜は安堵したように頬を緩める。


「蓮夜のこと、頼んだぞ」

「はい」


 柳夜は首肯する愛娘の頭を撫でる。


「地獄に行っても、ずっとお前たちを見守っている」


 去りゆく父の背に手を伸ばすと同時に、一歩踏み出される。そのまま一歩、また一歩と足が動いて追いかけてしまいそうになった。だが、先ほど託された父の願いと屈託の無い弟の笑顔がその足を留める。


「父上」



 私は、父上の娘として生まれてきたことを誇りに思います。

 私を育て、愛を注ぎ、生きて欲しいと願ってくれて――



「本当に、ありがとうございました」


 桜夜は柳夜が駆けていった方角とは反対の道を突き進んだ。そのまま監視の目に注意を払いながら、市街地の外に出る。

 すると、恐怖が滲んだ数多の喚声と凄まじい咆哮が耳朶を打った。その叫号の悍ましさに総毛立ちながらも、桜夜は後方を振り返る。


 そこには、絶句せざるを得ない凄惨な光景が広がっていた。

 あまりにも美しく、それでいて畏怖を抱かずにはいられない白藍しらあいの龍が、霊妙な鳴声を轟かせながら縦横無尽に空を駆けていた。ある時は強靭な尾で家屋を叩き割り、ある時は巨大な水玉を創成してそれを輪皇軍や幕府軍に放っている。


 まさに荒神。本当にあの龍神が、先ほどまで自分を抱きしめてくれた優しい父だったのかと疑いたくなる。


「父上……」


 もう何度口にしたのか分からない『父上』をぽつりと零す。同時に、再び視界が透明なもので揺れた。

 だが、感傷に耽っている暇は無い。桜夜は胸を締め付ける絶叫と神籟を背に、蓮夜が暮らす亡き母の生家へと急いだ。

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