荒野

濡れ鼠

荒野

―悲しみを言葉にせよ。言葉にしない悲しみは、不安でいっぱいの心に囁きかけ、壊そうとしてくるのだ。―

(ウィリアム・シェイクスピア『マクベス』より)


玄関のドアを開けたときには、既に視線は下を向いている。靴が一足もないことを確認し、止めていた息を吐き出す。真っ直ぐ自分の部屋に向かおうとして、喉の渇きに気付き、キッチンで足を止める。マグに水を注いだところで、シンクの脇から何かの視線を感じた。二本の注射器が、僕を睨み付けている。

「おい」

父の声が、耳元で聞こえた。振り返ると、白い壁が僕の背後に立ちはだかっている。マグの水が揺れて、床を濡らす。僕は自分の部屋に駆け込んだ。ポケットから携帯電話を引っ張り出し、1を2回押したところで、僕の指が止まる。


携帯電話をベッドの上に投げ出し、本棚から英和辞典を手に取る。通学かばんから副読本を出して、机の上で開く。同じ文章を何度も読んでいることに気付いたとき、玄関のドアが開く音が聞こえた。男女の声が聞こえるが、何を話しているのかは分からない。声が近付いてきて、部屋の前で止まる。ドアが開いて、僕が振り返ったときには、母は僕のすぐ後ろまで来ていた。

「見たでしょ」

夜道を歩く野良猫のような瞳が、僕を椅子に押さえ付ける。

「分かってるよね」

僕は何度も頷きながら、シャツの内側が濡れていくのを感じる。リビングから母を呼ぶ声がして、男の声は父のものだったことを知る。両親の声が、隣の部屋に移動する。声は徐々に大きくなって、しかし変わらず言葉を構成しない。指で耳を塞ぐ。声は指を押しのけて鼓膜に届く。部屋のドアに鍵を掛け、副読本をつかみ、ベッドに飛び乗って、頭から毛布を被る。目に付いた一文を、何度も何度も読み上げる。ドアノブが音を立てる。僕は声を張り上げる。


―何が起ころうとも構わない、どんなに荒れ模様の日でも、時は経つのだ。―

(同前)


頭の中でずっとサイレンが鳴っている。僕は、どこで間違えたのだろう。一緒に住もうと言った母に『嫌だ』の一言が言えたなら。いや、母に『アルバイトを頑張っている』と話しさえしなければ。そもそも、施設に来た母に会うべきではなかった。僕の思考は過去へ過去へと向かい、僕の身体はずっと、ベッドの上にある。


名前を呼ばれていた。何度も呼んで、ドアをたたく。両親は、『さん』を付けて呼ぶことはない。重い身体を引きずって、ドアを開ける。

そういえば、僕は両親から名前を呼ばれたことがあっただろうか。


「大丈夫か」

大丈夫ではない。そう答えたかったけれど、実際に口から出てきたのは、謝罪の言葉だけだった。両親がこれからどうなるのか、僕はよく知っていて、しかし僕がどうなるのかは分からない。

「座って話そう」

僕が口にできるのは、両親が大声で騒いでいたことくらいだ。頭の中で母の瞳が、じっと僕を見つめている。

「そのとき、君は、どう思った?」

どう思ったのだろう。僕自身のことのはずなのに、よく分からない。僕は強張った指先で、僕の心の奥を探る。喉が震えて、目の底が熱くて、言葉は出てこない。

「少しずつでいい、話してみてよ」

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荒野 濡れ鼠 @brownrat

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