第20話 里帰り

 白麓パイルーの街に月藍ユェランたちが入ったのは、途中で立ち寄った妹たちの宿営地を出発した翌日の昼前だった。

 道行きは相変わらず順調で、予定よりも早く到着することができた。

 今回の里帰りはツいている。早く街にたどり着けたし、何より土産がたっぷりある。妹夫妻から預かった羊肉やチーズに、昨日の道中で狩りをして龍暁ロンシャオが仕留めてくれた見事な毛皮の狐。ちょっとないほど豪勢な見舞いの品だから、母もその面倒を見てくれている長姉も喜んでくれるに違いない。

 そして、龍暁ロンシャオがいるもの良い。

 月藍ユェランのことを、母はとても心配をしている。男を男に嫁がせる、という特殊な婚姻に差し出してしまったからだろう。これまでの里帰りで顔を合わせるたびに、婚家で不自由していないか、つらくはないかと何度も何度も気にしていた。

 だから、龍暁ロンシャオの顔を見せてあげたいと前々から思っていたのだ。

 結婚したばかりの頃はともかく、今の龍暁ロンシャオはすっかり大人の男だ。月藍ユェランとならんでも見劣りしないたくましさと、いずれ龍玄ロンシェンの一族を背負う者らしい威厳を備えつつある。

 彼の頼もしい夫っぷりを間近で見せることができれば、母の不安も少しは減らせるはずだ。そうすればきっと、何よりの親孝行になると思う。

 良い土産に、良い夫。すべてがそろった今回は、誰にとっても良い、楽しい滞在になるだろう。

 そんな浮かれた気分で街に入ると、目抜き通りがざわついていた。

 もとより白麓パイルーは、交易都市として賑わう街である。騒がしいことは当たり前だ。

 だが、今この状態は何かが違う。

 よくよく観察してみて、通りに人の姿、特に女子供の姿が少ない事に月藍ユェラン気づいた。

 いつもの明るさが形を潜め、代わりに肌をチリチリとさせるような緊張が漂っているようだ。


「何が起きているんだろう?」

「さあ……」


 龍暁ロンシャオと顔を見合わせる。


「ひとまず実家へ行くか。あんたの母さんか姉さんに聞けば、事情を教えてくれるだろう」

「あ、そうだな。一番それが良いかもな」


 龍暁ロンシャオの提案に、月藍ユェランは手を打つ。

 街の住人である母や姉なら、確かな情報を持っているはずだ。

 それに先ほどから、居心地の悪い視線も感じる。

 余所者への当たりがきつくなるのは、良くないことが起きている時だ。

 で、あるならば月藍ユェランたちは早く安全な場所へ行くべきである。

 そうと決まればと二人は月藍ユェランの友人の厩で馬を預けて、実家へと急ぐことにした。


「まさかここに中原のやつらが来るなんてな」


 友人の厩を早足で後にしながら、月藍ユェランが呟いた。

 聞いた友人の話によると、昨日妹のところで小耳に挟んだ中原の集団が、今まさに街に滞在しているらしい。

 集団の中心にいる人物は、先年隣接する中原の地方に赴任した高官だという。

 これがずいぶんと傲慢か強くの深い人物であり、前々から白麓パイルーを含めた近隣の国や都市に無理難題をふっかけて回っているそうだ。

 高官は皇太子の後ろ盾である一族の端くれで、無駄に金とコネを持っている。

 そのため中原の怒りを恐れて、白麓パイルーのようなさほど大きくない都市は、彼を邪険にできず困っているらしい。

 そんなただでさえ迷惑な者なのだが、今回の来訪は特に酷い。

 何を考えてか、平素は城壁の外で待たせる約束の護衛兵を、無理やり街の中に入れさせたらしい。

 幸い、まだ兵たちは族長の館周辺に待機して大人しくしているという。

 だが彼らが武器を手放す様子を見せないことから、緊迫した空気が街全体を覆ってしまった。

 一触即発、というわけではないがそれに近い。そう考えて街の人々が息を潜めて警戒しているから、この異様な静けさなのだそうだ。


「面倒な客と行き合ったものだ」


 土産を入れた籠を背負い、龍暁ロンシャオは不機嫌そうに言う。

 なんだかんだで街に来るのを楽しみにしていたのに、台無しにされた気分のようだ。

 本当にな、と月藍ユェランもため息を吐く。

 母や姉夫婦とゆっくりしたかったが、長居しない方がいいかもしれない。

 元々白麓パイルーの民である月藍ユェランはともかく、龍暁ロンシャオは異民族だ。

 中原の者たちの目に止まれば、何をされるかわからない。

 しかも、龍玄ロンシェンと中原は、真隣の朱鷹ジュインほどでないにしろ折り合いが悪い関係にある。龍珠や玄山シェンシャンが抱える豊富な鉱物資源を巡って、幾度も対立した過去があるのだ。

 もし龍暁ロンシャオの身元がバレると、大なり小なり危険が及びかねない。


「あんたの母さんの顔を見たら、夜に紛れてこっそり帰るぞ」

「それがいいな。後で私が厩へ戻って、手筈を頼んでくる」

「悪いな、頼んだ」


 いいんだよ、と繋いだ手を軽く揺する。

 申し訳なさそうに寄せられていた龍暁ロンシャオの眉が少し開いた。


「それにしても、白麓パイルーになんの用があるんだろう?」

「さて、な。朱鷹ジュインの世嗣に攻められた時の被害の補填じゃないか」

「あの若様に? なんでまたそんな……」

「昨日あんたが酔いつぶれた後に聞いたんだがな。いつの妹に当たる朱鷹ジュインの姫が嫁いだ支族が中原の奴隷狩りに遭ったらしい」

「奴隷狩り……」


 その言葉に、思わず月藍ユェランは顔をしかめる。

 中原の者は基本的に、中原以外の地に住む人間を異民族と蔑む傾向がある。

 平素はあまり乱暴なことはしてこないが、時折思い出したように中原以外の地を侵して人や物を奪うことがあるのだ。


「皇帝が離宮を建てたがっていて、その労働力がほしかったみたいだな。男も女も、老人以外は根こそぎ連れていかれたんだと」


「昨日おっしゃっていた不幸な若様の妹君って、もしかして」


「ああ、その支族に嫁いでいた姫だ。夫君が逃がしてくれて、命からがら実家に帰ってきたそうだ。それで可愛い妹の財産を略奪された報復ってことで、あいつは国境沿いの都市数ヶ所を派手に焼いて略奪し返したんだが──」


 龍暁ロンシャオの語る報復の詳細に、月藍ユェヤンは口を噤んだ。

 何と言えばいいか、凄まじい。とにかくすさまじくて、血なまぐさいの一言に尽きた。

 血縁の結束が強く、血の掟が苛烈なことで有名な朱鷹ジュインらしいと言えばそうなのだが。

 顔を引きつらせる月藍ユェヤンの肩を、龍暁ロンシャオがなだめるように叩いた。


「敵に回さなきゃ大丈夫だ」

「うん……」

「まあ、中原の方は皇位争いが起きているそうだからな。皇子の誰かの資金調達、なんて可能性もある。他にも思い当たる節がありすぎてわからん」

「つまりあれか。何であっても、どうせろくな理由じゃないってことだな」


 うんざりと月藍ユェヤンが呟くと、龍暁ロンシャオは鼻を鳴らして答えた。

 元々中原の現王朝である麟青リンチンは、碌でもないという定評がある。

 長く生きている龍輝ロンフェイホンたち曰く、現在の中原は稀に見る腐敗っぷりだそうだ。

 腐敗するのも、滅ぶのも構わないが、迷惑を撒き散らさないでほしい。

 おちおち里帰りもできやしない。


「おや、月藍ユェランか」


 住宅街に入って、いくらもしない場所で声をかけられた。

 振り向くと、すぐ側の道に面した家から老人が顔を覗かせていた。昔からよく知っている、商店街の顔役だ。

 見知ったご近所さんの姿に、月藍ユェランはほっと肩の力を抜いた。


「おじさん、こんにちは。ご無沙汰しています」

「久しぶりだね。里帰りかい?」

「ええ、母の顔を見に来たんです」

「孝行息子だねえ」


 おっとりと老人に褒められ、月藍ユェランは照れ臭そうに微笑んだ。

 にこにこ顔の老人が、ちらりと月藍ユェランに寄り添う龍暁ロンシャオを見た。珍しげに頭から足の先まで見回して、訊ねてくる。


「ところで、そちらさんは誰かな?」

「ああ、彼は私の夫です」


 月藍ユェランに紹介されて、龍暁ロンシャオが軽く老人に礼を取る。


月藍ユェランの旦那さんというと、龍玄ロンシェンの方ですか」

「……長の甥です」

「それはそれは、よくいらっしゃいましたね」


 挨拶を返してから、老人が何か思い出したような声を上げた。


龍玄ロンシェンといえば、族長さんが交易のことで龍玄ロンシェンの方と相談がしたいと仰っていたな」

「族長さんが? どんなことですか?」

「よくは知らんがね。取引したい品があるらしい。そうだ、よろしければ月藍ユェランの旦那さん、相談に乗ってやっていただけませんか。龍玄ロンシェンの長のお身内であれば、族長さんも否やはありませんでしょうし」


 突然の申し出に、月藍ユェラン龍暁ロンシャオは顔を見合わせた。

 私用で来ているから断りたいところだが、龍暁ロンシャオの立場を考えると無碍に断るわけにもいかない。五つ数えるくらい思案してから、龍暁ロンシャオは溢れそうなため息を堪えて了承した。


「なら、帰りにでも族長殿の元へ寄らせてもらう」

「今すぐは無理ですか? 大事な話だそうで、ことと次第によれば長引くやもしれませんから」

「悪いが、今日は月藍ユェランの付き添いで来ている。今の街中は物騒らしいから、月藍ユェランを優先したいのだが」

「でしたら私が月藍ユェランに付き添いましょう。旦那さんの案内も、うちの息子に申し付けます」


 いいことを思い付いたとばかりに、老人がぽんぽんと手を叩く。

 すぐに月藍ユェランも知る老人の息子が姿を見せた。有無言わせない行動に、せっかく取れた龍暁ロンシャオの眉間の皺が復活する。

 不審そうな黒曜石の双眸が月藍ユェランに向く。


「悪い、シャオ。このおじさんは昔から押しが強くて」

「大丈夫なのか、これは」

「悪い人ではないし……」


 ちらりと息子に龍暁ロンシャオを案内するよう申し付けている老人を見る。

 断りたいところだが、老人は商店街の顔役だ。下手に機嫌を損ねれば、実家の穀物商の仕事を引き継いだ義兄の仕事に差し障る。母や姉の生活のためにも、問題を起こしたくはない。


「仕方ないな」


 月藍ユェランの思考を読んだのか、龍暁ロンシャオが諦めたように目を伏せた。


「すぐ行って、帰ってくる。あんたは実家に閉じこもって待っていろ」

シャオ、ありがとう。お家で母さんたちとご飯を作っておくよ。何が食べたい?」

「……焼き飯」

「胡桃と羊肉の入ったやつだな、任せろ」


 くすりと笑うと、頬を撫でられた。愛おしそうな手で触れられると、なんだか嬉しくなって不安な気持ちが軽くなった。

 繋いだ手を強く握って、そっと離す。龍暁ロンシャオは背負い籠を老人に託すと、老人の息子に伴われて元来た道を戻っていった。

 しゃんと伸びた背中が道の角に消えるまで見送って、月藍ユェランは老人に向き直る。


「お待たせしました、おじさん」

「ははは、構わんよ。旦那さんとは仲が良いんだな」

「良くしてくれる人ですから」

「そうかそうか、じゃ、行こうかね」


 のんびりと老人が歩き出す。彼に一歩遅れて、月藍ユェランも歩を進めた。

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