第21話 待ち受けていたもの

 老人の家から月藍ユェランの実家までは、そう遠くない。世間話をしながら歩くと、あっという間に辿り着いた。

 門の前で礼を言って老人と別れ、勝手口を潜って声を掛けた。


「母さーん、ただいまー」


 のびやかな月藍ユェランの声が響くが、いくら待っても誰も出てこない。

 閂は掛かっていないから、母が在宅しているはずだ。なのに返事がないのはどうしたことだろう。

 不思議に思いながらも待っていられず、月藍ユェランは中に入っていった。背負い籠を二つ、えっちらおっちらなんとか玄関まで運ぶ。もう一度声を掛けても返事はなかったので、月藍ユェランはぴったりと閉じられた扉を叩いた。


「私だよ、月藍ユェランだ。ちょっと早いけど帰ってきたんだ。母さん、いないのか?」


 何度扉を叩いても、来訪を告げても、返事は返ってこない。

 おかしい。さすがに不審になって扉に耳を押し当てた。耳を澄ませてみるが、物音一つしない。扉の鍵は掛かっていないのに、中には誰もいないかのようだ。

 午睡で眠っているのか、たまたまちょっと留守にしているのか。それならまだいいが、病か何かで倒れていたら恐ろしい。放置してしまって、母の命に関わる事態になったら悔やみきれないこととなる。

 たっぷりと悩んだ末に、月藍ユェランは屋内へ入ろうと決めた。ただの無用心であってほしい。祈りながら扉をそっと開く。


「ただい……ま……?」


 扉の向こうの光景に、口から出たはずの言葉が消える。

 嵐に巻き込まれたように荒れた居間。我が物顔で居座る中原風の武装をした兵たちと、街の古老を始めとした幾人かの街の有力者。砕けた食器や家具が散らばる床には、月藍ユェランの母と長姉夫婦が捕らえられている。

 血と土にまみれた、暴力の臭いが満ちた光景に、月藍ユェランは立ち竦んだ。


「お前が月藍ユェランとやらか」


 ながいすで酒を傾けている男が、不躾な視線を月藍ユェランに投げつける。男の側に控えた古老が、月藍ユェランに代わって慇懃に返答をした。


「左様です。これが五年前、龍玄ロンシェンへ嫁がせた者でございます」

「ならばよし。連れて行け」


 声も出せない月藍ユェランに、近くにいた兵がじわりと近づく。

 何が、いったい、どうなって。動揺と恐怖に身体を縛られ、動けない。薄汚れた手甲に包まれた手が、月藍ユェランの袖を掴みかける。


月藍ユェランっ!」


 母が叫びで、我に返る。間一髪で呪縛から逃れ、はっと月藍ユェランは掴まれた腕を振り払った。


「逃げなさい!」


 長姉と義兄が拘束の隙をついて、月藍ユェランに近づいてきた兵たちの足元へ体当たりを喰らわせる。

 勢いのついた捨身の攻撃が、数人の足を掬うことに成功する。床に転がったまま、長姉が叫んだ。


「姉さん! 義兄さん!」

「いいから! 旦那さんの元へお逃げ! 早く!」


 母の声に背を押され、月藍ユェランは身を翻した。

 家族を助けたいが、今は逃げなくては。月藍ユェランが捕えられては、助けを求めることすらできなくなる。

 追い縋る兵を振り払い、蹴りを喰らわせて門へ駆け出す。

 月藍ユェランは足に自信はないが、力は強い方だ。敵に反撃をして逃げるくらいわけはない。

 門の勝手口に辿り着く。近くにあった角材を手に月藍ユェランが振り返った。

 追手を数名叩きのめして、障害物にしてやろう。角材を全力で振り抜く。鞘に包まれた剣を振り被る兵の胴が、強かに打ち払われた。


「ガッ!」


 くぐもった苦鳴が上がる。

 月藍ユェランの攻撃を喰らった兵と、もう一人分。よく知る声に、月藍ユェランは動きを止めた。

 開け放たれた玄関の向こう。長姉を庇った義兄が、血を撒き散らして倒れていく。

 女の悲鳴が響き渡る。長姉か、それとも母か。身を切り裂くようなそれに、血が凍る。

 その隙が、命取りになった。


「ぐ、ぁっ」


 後頭部に、大きな衝撃が走る。

 視界ががくんと揺れ、焼けるような痛みが月藍ユェランを支配した。

 指の、足の、全身の力が抜ける。取り落とした角材が、がらんと地面に転がる。月藍ユェランの身体も、ゆっくりと崩れ落ちていく。

 倒れ伏した月藍ユェランの視界を、無骨な軍靴が幾つも埋める。

 殴られたのか。気づいたところで、もう遅い。逃げなければと思うのに、指一つ動かない。


シャオ、っ……)


 たすけて、と唇を震わせる。

 けれども喉が強張って、音にならない。

 視界の端が、黒く欠けていく。乱暴に身体を起こされる。

 ギリギリで保たれていた月藍ユェランの意識は、そこでふっつりと途絶えた。

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