第15話 そしてまた、近づく心

 近くに温かい泉がある。

 ホンからその話を聞いたのは、少し豪勢な夕餉を終えた頃だった。

 谷底を流れる川を少し登ったところに、湯で満たされた不思議な泉があるのだと彼は語った。ホンの妻が生前好んでいたとかで、今もよくホンが沐浴に利用しているそうだ。そのため夜でも行きやすいよう、石段や道を整えてあるらしい。

 せっかくだから龍暁ロンシャオと二人で入浴しておいでと勧められ、一も二もなく月藍ユェランは頷いた。

 風呂は人と人の距離を縮めてくれる場だ。少なくとも白麓パイルーの街の蒸し風呂屋は、友人と仲良くなるためにもってこいの場所だった。

 龍暁ロンシャオとも一緒に温かい泉に浸かれば、きっと今より仲を深めるきっかけになるかもしれない。そう目論んで龍暁ロンシャオに強請れば、しぶしぶといった様子で頷いてくれた。

 ほんの少し抵抗を示されたのが気に掛かったが、たぶん照れ隠しだろう。龍暁ロンシャオの見た目の年頃にはよくあることだ。

 かわいいなあ、とにこにこ見つめると、悔しげに「覚えていろよ」と低く唸られた。

 その言葉の意味をすぐに理解させられる羽目になるとは、この時の月藍ユェランは夢にも思っていなかった。


 足の先を、水面に浸す。じん、と痺れるような温もりがした。


「あたたかい……」


 想像していなかったほどの水温に、月藍ユェランは驚いた。

 だが、ふわふわとした心地好さは悪くない。警戒心を解いて、ざぷんと勢いよく湯に身を浸けた。


「なかなか素晴らしい泉だな」


 泉のほとりで服を脱いでいる龍暁ロンシャオに話しかける。

 龍暁ロンシャオがぎこちなく振り返る。月明かりに照らされた頬が、まだ湯に浸かっていないにもかかわらず赤い。湯気に当てられてしまったのだろうか。


龍暁ロンシャオ、どうしたか?」

「なんでもない」


 小首をかしげる月藍ユェランにそっけなく答え、服を脱ぎ散らかした龍暁ロンシャオが泉に飛び込んだ。

 ばしゃんと跳ね上がった湯が、月藍ユェランに掛かる。


「急に飛び込むなよ! 湯が掛かっただろうが!」


 珍しく見た目相応の行動をすると思わなかった。笑い交じりに叱りながら、月藍ユェランは広くない泉の反対側に沈む龍暁ロンシャオに近づいた。

 水底の龍暁ロンシャオが、上目遣いに見上げてくる。ぶくぶくと白い泡を口から零す姿が子供臭い。とうとう声を上げて月藍ユェランは笑ってしまった。


「……笑うな」


 湯から顔だけ出して、龍暁ロンシャオが睨んでくる。


「す、すまん、悪かった。なんだかお前が、可愛らしくってな」

「うるさい。あんたも浸かれ、湯冷めするぞ」


 伸びてきた手が腕を掴む。ぐいぐいと引っ張られるに任せて、月藍ユェラン龍暁ロンシャオの隣に身を沈めた。

 ひとしきり笑って、はあ、と大きく息を吐く。白くなって昇る息を目で追って、それから空に浮かぶ月を眺めた。

 良い弓張りの月だ。屋外で湯に浸かって眺める夜空が、こんなにも心安らぐとは知らなかった。


「綺麗なもんだなあ……」

「月がか」

「うん、玄山シェンシャンは高いからうんと近く見えるからな。見映えが良い、酒が欲しくなる」

「そうか」


 会話が少し途切れる。少しして、そうだ、とまだ月藍ユェランが口を開いた。


「なあ、龍暁ロンシャオシャオって呼んでもいいか?」

「どうして」

「愛称の方が呼びやすいし。もっと仲良くなれそうだろ」


 いいだろう? と強請ると、ふいと視線を逸らされた。


「好きにしていい」

「よーし、じゃあこれからはそうさせてもらうからな、シャオ


 返事の代わりに、ぴったりと龍暁ロンシャオが身体を寄せてきた。

 寒いのかと彼の顔を窺うと、月明かりを弾いてきらきらとした黒い瞳が月藍ユェランを映した。

 まじまじと、至近距離で見つめ合う。改めて思うが、龍暁ロンシャオは不思議な瞳をしている。色はよくある黒なのだが、瞳孔は縦に長い。龍輝ロンフェイホンも同じ目をしているから、龍玄ロンシェンの血脈の特徴なのだろう。

 絵画の龍とよく似た瞳だ。彼らが龍の末裔だというのも、月藍ユェランはあながち間違いではないような気がしていた。

 とはいえ、熱を帯びた眼で見つめられると、神秘より気恥ずかしさが先に感じられる。


「どうした?」


 ふい、と目を逸らされる。その代わりにもたれ掛かる身体が、少し重くなった。

 これでは龍じゃなくて猫だ。月藍ユェランは悪戯っぽい笑みを浮かべて、龍暁ロンシャオに抱き付いた。


「なんだなんだ、甘えてるのか?」

「……ああ」


 腕の中の龍暁ロンシャオが、月藍ユェランの頭に手を添えた。


「甘えてるんだ」


 優しく引き寄せられ、唇を吸われる。

 そのまま、くちづけは優しく、ゆっくりと深まっていった。

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