第14話 不安とくちづけ

龍暁ロンシャオ?」


 もう少し墓の側にいると言ったホンと別れて幕屋に戻ると、龍暁ロンシャオが佇んでいた。

 片手に三羽の肥えた雉を下げている。ホンに頼まれた狩りを終えて戻ったところのようだ。


「おかえり、早かったな」


 側に駆け寄ると、つい、と距離を取られた。

 龍暁ロンシャオらしくない反応に、月藍ユェランは目を丸くする。

 いつもなら自慢げに戦果を掲げて月藍ユェランに見せてくれるのに、今は弓と矢柄を担いだまま、じっと地面を見つめている。


「どうした? 気分でも悪いのか?」


 跪いて龍暁ロンシャオを覗き込む。するといやいやと頭を振って、顔を背けられた。

 本当の子供のような仕草に戸惑う。龍暁ロンシャオ、と名を呼ぶが、なんと言葉を続ければいいのかわからない。

 気まずい沈黙を挟んで、ようやく龍暁ロンシャオが口を開いた。


「……月藍ユェランは、帰りたいか」


 黒々として澄んだ瞳が、月藍ユェランを見上げる。

 普段は自信に満ちている双眸が、今は不安に揺れている。意味を掴み損ねた月藍ユェランが見つめ返す。

 龍暁ロンシャオは何かに堪えるように拳を握り、問いを重ねた。


「俺から、逃げたいんじゃないか」

「え?」

ホンと、話していただろう。谷の向こうで」


 狩りの途中で見てしまったと、龍暁ロンシャオは言った。


「あいつの一人目の嫁の話を聞いていたよな」

「ああ、あれな。聞いたけれど。でもそれがどうして、私が白麓パイルーに帰りたいなんて話に繋がるんだ?」

「離縁を選んだ花嫁の身の振り方を知って、どう思った」

「どうって」


 なんと答えて良いのかわからず、言葉に詰まる。

 するとそれをどう捉えたのか、龍暁ロンシャオはくしゃりと顔を歪めた。


「帰れるって、思ったんじゃないか」


 雉が龍暁ロンシャオの手から落ちる。空いた手が上着の裾を強く握り、まだ張り出していない喉がひくりと鳴った。


「この山や俺たちは、色々と、下界と違う。それを月藍ユェランはずっと怖がっている。俺の気持ちにも、いつも困っている」

「っ、そんなことない!」

「でも毎晩、閨で月藍ユェランは怯えているじゃないか」


 血を吐くような呟きに、ぎくりと月藍ユェランは体を強張らせた。


「俺が月藍ユェランを怖がらせたままだから、珠がなかなか大きくならないんだ。きっと」


 否定しようとした言葉が、喉の奥に消えた。

 月藍ユェランもずっと、龍暁ロンシャオと同じことを考えていた。月藍ユェラン龍暁ロンシャオを恐れてしまったから、無意識に同性の伴侶を厭っているから。だから、いくら夜を重ねても珠が成長しなくて、きちんと龍暁ロンシャオの妻になれないのではないか。

 自分ですら疑っていたことだ。聡くてやさしい龍暁ロンシャオが、気付けないはずがない。思い悩まないはずもない。どうして今まで、気付いてあげられなかったのだろう。

 伸ばしかけた手を戻して胸元を握る。否定できたらいいのに、できない。代わりになる言葉も見つからなくてもどかしい。


月藍ユェラン、離縁しよう」


 龍暁ロンシャオが、ぽつりと言った。驚いて見つめ返すと、彼は何かに追い立てられるように言葉を紡いだ。


「珠が大きくなっていない今ならまだ、あんたを自由にしてやれる」

「ま、待て。離縁って、自由って、そんな」

「生活が心配か? ならホンに頼んで、別の街で暮らしていけるよう手配するぞ。当面の金も工面できる」


 どうだと訊ねられて、月藍ユェランは返事に困った。

 破格の条件だが、受け入れてはいけない気がする。どうしていいかわからなくて途方に暮れた。


龍暁ロンシャオはそれでいいのか?」


 必死で考えて、質問を返した。

 龍暁ロンシャオの言うことは、月藍ユェランのことばかりだ。彼自身の気持ちがわからない。龍暁ロンシャオが、息を詰まらせた。

 瞳がゆらゆら揺れる。まだ幼さを残した細い顎が、小さく肯いた。


月藍ユェランには、幸せでいてほしいから」


 それは秋の夕風に紛れるような声だった。

 龍暁ロンシャオの繊細な部分を剥き出しにした、痛々しさに満ちた告白だった。

 声に触れた耳から心へ、ほのかな温もりが月藍ユェランに注ぎ込まれる。泣きたいような切なさと暖かな喜びが、身体の中心から隅々まで巡っていく。

 これは恋で、きっと愛だ。ちゃんと自分は、彼を愛せている。

 くらりと酩酊にも似た心地に任せ、月藍ユェランは腕を龍暁ロンシャオに伸ばした。まだ月藍ユェランよりも小柄な彼を、大切に包み込む。


「なあ、龍暁ロンシャオ

月藍ユェラン……?」

「あのな、私はな、これまで何度もお前が怖いと思っていたんだ。私を人ならざるものに作り変えてしまうやつだから、恐ろしい、とな」


 でも、と龍暁ロンシャオを抱きしめる腕に力を込める。


「今、それ以上に、お前が愛おしいと思えた」


 腕の中の肩が、ぴくりと跳ねる。龍暁ロンシャオの顔は見えないけれど、想像はできた。彼にそういう表情をさせられるなんて、自分はなんて幸せなのだろう。


「これからも、一緒にいていいか?」

「……俺の側に、いてくれるのか」

「もちろんさ」


 恐る恐る訊ねる龍暁ロンシャオに、月藍ユェランは微笑む。

 夕陽に負けないほど、瞳を煌めかせて。


「私を、ちゃんとお前の嫁さんにしてくれ」


 応えはすぐ、やさしい唇となって返された。

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