第12話 墓参り

 岩の間の急な小径を、するするホンが登っていく。


ホン殿! 待て、待ってくれ!」


 後ろから続く月藍ユェランは、余裕なく叫んだ。

 石段はあっても悪い道なのに、ホンの足取りは早すぎる。距離はどんどん広がるばかりだ。


「らーん! がんばれよー!」


 あっという間に登りきったホンが叫び返してくる。

 助けてくれる気はないらしい。酷いと思いながら、心で泣いて月藍ユェランは足を進めた。

 いつも助けてくれる龍暁ロンシャオは、今月藍ユェランの側にない。昼食の後、夕食の材料を狩ってこいとホンに追い出されてしまったのだ。

 最初は龍暁ロンシャオも、なぜ俺がと抵抗していた。だが、ホンに美味しい米を炊いてやると囁かれて、渋々弓を手にした。身体相応の食欲を抱えた龍暁ロンシャオにとって、米は腹持ちが良い魅惑の食べ物の一つだ。

 すぐ帰ると月藍ユェランに繰り返し言って、森の方へ出掛けていった。

 残された月藍ユェランはというと、これは墓参りに誘われた。

 ホンの妻の墓が、この近くにあるらしい。山菜を採るついでに行こうと言われ、月藍ユェランは籠を背負ってホンに従った。

 今にしては、それが間違いの始まりだった、と思う。目指す場所が、狭く小さいとはいえ谷の向こうとは想像もしなかった。


「の、登りきった……」


 ようやく最後の踏み石を登りきり、大きく息を吐く。体力には自信があったのに、とんでもなくえらい目に遭った。


「ずいぶんしんどそうだが休むか?」

「だ、大丈夫、まだ歩ける」


 差し出された皮袋の水を飲むと、少し呼吸が落ち着いた。


「そうか、まあもう少しだから気張ってくれよ」


 ホンが先ほどより緩めた歩調で、歩き始める。今度は着いて行けそうだ。ほっと安堵して、月藍ユェランは後に続いた。

 白樺の林をふたりで進む。いくらもしないうちに、開けた場所に出た。


「これは……」


 うららかな秋の日差しに満ちた光景に、月藍ユェランは目を見張る。

 その広場の中央には木が立っていた。枝を天に向かって大きく広げ、茜色の葉を穏やかな風に揺らしている。

 こんな鮮やかな木は、初めて見た。


「綺麗な木だろ。かえでっていうんだ」


 ホンが微笑む。


「あれが嫁さんの墓標でな」

「奥さんの?」

「そう、生前好きだった木なんだ」


 ホンが木に歩み寄って、その根元に持ってきた花を供えた。

 手を合わせて、静かに目を閉じる。月藍ユェランも彼に倣って、木へ手を合わせた。


「嫁さんの話、少ししてもいいかい?」


 ひどく愛おしそうに幹を撫でて、ホンが言った。

 黙って頷くと、ありがとな、と嬉しそうにホンは笑って話し始めた。


「この下で眠っている嫁さんはさ、俺の二人目の嫁さんなんだ」

「二人目? 別の人とも結婚していたのか?」

「ああ一人目は、お前と同じ白麓パイルーから来た嫁さんだったんだぜ」

白麓パイルーってことは、つまり盟約の花嫁、だよな」

「そ。今から百年くらい前か。白麓パイルーとの盟約の時期に俺が成人してな、長の血縁だしちょうど良いだろってことでその人は俺のとこへ嫁いできたんだ。でもな」


 ホンの元へ嫁いだ女性は、白麓パイルーの花嫁としては珍しいことに、不老長寿になることを恐れた。

 人以外のものになりたくない。普通に生きて死にたいと泣いて、下界に帰りたがったのだそうだ。


「嫌がる奴に無理強いはできんだろ? だから、離縁しようってことになった」


 だが離縁すると決めても、そうは簡単にはいかない。

 婚姻の破棄は、盟約を破ることに繋がる。白麓パイルーに戻せないし、龍玄ロンシェンにも居づらくなる。

 だからホンと女性は話し合い、ひとまず新婚旅行と称して山を降りた。旅をしながら、女性の住みやすい土地を探すことにしたのだ。

 二人は兄妹を装って、足掛け一年も下界で旅をした。そして様々な土地を巡った甲斐あって、西域にある大きな国でこれはという男が見つかった。

 しばらく滞在してホンが男の人柄を確かめて事情を話したところ、男は快く女性を娶ってくれたそうだ。


「そんなことが、できたんだな」

「後でしこたまどやされたけどな。やろうと思えばできるもんだ。お前も下界に帰りたいか?」


 唇を片方、わざとらしく吊り上げるホンにどきりとする。

 白麓パイルーに帰りたい、と思ったことは幾度かあった。龍暁ロンシャオたち龍玄ロンシェンの者に知られてはだめだと隠してきたそんな考えを、ホンは見抜いているのだろうか。


「……ところで、ホン殿」


 返事に困り、落ち着かない気持ちを誤魔化すように明るい声で話題を変えた。


「ここに眠っている二人目の奥さんとは、どうやって出逢ったんだ?」

「ん? ああ、あいつに会ったのは、一人目の嫁さんと別れて帰る道すがらだったな」


 その人はたまたま行きあった、朱鷹ジュイン──平原の民だったという。

 彼女はゆえあって氏族の輪から外れ、早くに亡くした父母の代わりに多くの弟妹を一人で育てていた。ホンは懸命に暮らす彼女が妙に気にかかって、しばらく彼女の元に滞在することにしたそうだ。


「一緒にいるうちに惚れちまってなあ。どーっしても連れて帰りたくなって、口説き倒したんだ」


 最初はまだ幼い弟妹たちがいるからと断られ、でも諦めきれずにホンは手を尽くした。

 言い訳になっている弟妹たちを味方につけ、押したり引いたりしながら毎日ホンは彼女を口説いた。

 そうしてほぼ一年近く掛けて粘りまくり、ついにホンは彼女を根負けさせて娶ったのだそうだ。


「連れて帰ったら多少叱られはしたけど、山の奴らにも認めてもらえた。嫁さんの弟や妹たちも一緒で家族が増えたし、嫁さんは可愛いしでな。あの時は本当に、嬉しくってたまらなかった」


 語るホンの目が伏せられる。煙るような睫毛に半ば隠された黒い瞳が、過去を思い出すかのように遠くなっていた。


「でも、あいつと俺は同じになれなかった」

「同じ?」

「いくら閨を共にしても、子ができなくてな。嫁さんは俺と同質の存在になれなかったんだ」


 ホンが、苦く笑って楓の葉を拾う。くるりと指先で弄びながら、静かに続けた。


白麓パイルーじゃなかったからかね。あいつは人並みの寿命しか生きられなかった。だから俺より先に老いて、死んじまった」


 消え入るように吐息を吐いて、ホンが楓を見上げて呟く。


「もっと、一緒にいたかったんだがなあ……」


 風が吹いて、楓の葉を揺らす。さわさわと葉が擦れ合う音が物悲しい。

 月藍ユェランはまだ、恋をよく知らない。だが、ホンとその妻のことへ思いを巡らせると、とても悲しい気持ちになった。

 大切な人に置いていかれる辛さ、悲しさは想像するだけで胸が痛くなる。ホンが明るい気質の人であるだけに、垣間見えた陰りが胸に焼き付くようだった。


月藍ユェランシャオをどう思っている?」


 陽光を透かしたように透明な眼差しが、ゆるりと月藍ユェランへ移る。


龍暁ロンシャオを、か」

「好いているかい?」

「……ああ」


 訊ねられ、月藍ユェランは正直な気持ちを口にした。

 龍暁ロンシャオのことは、憎からず想っている。恐ろしいと思わされたこともあるが、今は可愛らしいと感じることが増えた。振り回されることも少なくないが、それを悪くないと思えるようになってきた。

 愛なのかと問われたら、即座に答えを出せない。けれども月藍ユェランは、龍暁ロンシャオに確かな情を向けていた。

 そうか、とホンが呟く。ややあって、形の良い唇がまた開く。


「あいつはお前に惚れている」

「……やっぱり?」

「見てりゃわかるよ」


 けらけら笑って、ホンが肯定した。


「できれば、俺と同じ気持ちは教えないでやってくれ」


 頼む、とホンが頭を下げる。深く、赦しを乞うように。

 月藍ユェランは、とうとう返事をすることができなかった。

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