第11話 虹

 ホンの家はそう遠くなかった。

 白樺の森を抜けてすぐ。広い谷を臨む高台の広場に、ぽつんと一つの幕屋が構えられていた。ホンは、この幕屋で一人暮らしいているのだという。


「幕屋なんて、平原以外で初めて見た」

「平原の奴らにもらったんだ。なかなか住み心地は良いぞ」


 中に招き入れられ、パンと茹でた肉、それからバター茶の昼食をご馳走になる。

 これも平原風だ。ホンは平原の一族と交流があるらしい。


「こいつの嫁は平原の人間だったんだ」


 肉を齧りながら龍暁ロンシャオが言った。


龍暁シャオの言う通りさ。もうずいぶん前に先立たれちまったがな」

「え……」

「ああ、気にするなよ。嫁さんは病でも事故でもなかったからな」


 顔を曇らせかけた月藍ユェランに、明るくホンが言った。

 死別した彼の妻は寿命だったそうだ。それも前日までぴんしゃんしていて、朝起きたら布団の中で冷たくなっていたのだとか。

 理想的な大往生だったと笑い飛ばすホンに陰はなく、ひとまず月藍ユェランは安心した。


白麓パイルー以外の下界の人間も嫁いでくることがあるんだな。知らなかったよ」


 龍玄ロンシェンの街に住む人々のうち、下界出身者はすべて白麓パイルーの一族から盟約の婚姻で嫁いだ者ばかりだ。

 ホンの亡妻はどういう経緯で嫁いできたのだろうか。


「俺が見つけてきたんだ。若い頃に下界を放浪していた時期があってな。その時に出逢って、口説き落とした」

「お前が嫁を連れて戻った時、大騒ぎになったと龍輝ロンフェイたちから聞いたことがある」


 黙々と食事をしていた龍暁ロンシャオが、口を開いた。


「お前がふらっと帰っていたら新しい嫁を連れていて、とても驚いたと」

龍玄ロンシェンの者が白麓パイルー以外から下界の嫁をもらうのは珍しいからなあ」


 当時を思い出してか、ホンが懐かしそうな顔をした。


「それでも秀鶯シゥインが嫁いできた時よりはマシだったんだぜー?」

「もっと大騒ぎだったでんですか?」

「男の花嫁で大丈夫なのかってな。今はあいつらも子を成して平穏に暮らせてるけど、そりゃあ当時はすったもんだしたもんだ」


 そう言いながら、ホンはぽんぽんと月藍ユェランの肩を叩いた。


「だから月藍ユェランも心配しなくていいさ。いいようになる」


 おずおずとホンを視線を合わせる。

 黒々とした目が、父性を滲ませていた。その暖かさが心地良くて、小さく笑みを返す。ホンもどことなく嬉しそうな笑顔を向けてくれた。


「……月藍ユェランにべたべたするな」


 親しげな月藍ユェランたちの間に、不満げな龍暁ロンシャオが割り込んできた。

 鋭い目元をさらに鋭くし、声変わり前の声を限界まで低くして唸る。とてもわかりやすい嫉妬だ。一瞬月藍ユェランホンは呆気に取られたが、どちらともなく口元を手で隠した。

 笑うな、と龍暁ロンシャオが口を尖らせて咎めても、余計に忍び笑いは大きくなる。


「くそ、月藍ユェランを連れてくるんじゃなかった」

「からかわれるのが新婚のさだめさ。反応が初々しくてめちゃくちゃ面白い」


 茶碗のバター茶を飲み干して、ホン龍暁ロンシャオの肩を抱く。

 見た目に反して力が強い龍暁ロンシャオの抵抗を物ともせず、ぐりぐりと黒檀色の髪を掻き回した。


「このっ、はなせっ!」

「やーなこった。そうそう、今日は泊まってくんだろ?」

「泊まらない! 帰る!」

「えー? 月藍ユェランはどうだ?」


 じたばたする龍暁ロンシャオを捕まえたまま、ホン月藍ユェランに問うてきた。

 龍暁ロンシャオも何か必死に訴えるような視線を飛ばしてくる。

 急に決定権を与えられて、月藍ユェランは戸惑った。実はお使いへ出立する前に、秀鶯シゥインからホンの元で少し泊めてもらうように言われていた。

 龍玄ロンシェンに嫁いでこちら、月藍ユェランは屋敷にほとんど閉じ籠もった状態が続いていた。たまには息抜きをしておいでと勧められ、月藍ユェランもそのつもりでいたのだ。

 龍暁ロンシャオホンを見比べる。龍暁ロンシャオには申し訳ないけれど、やはりもう少しホンと話してみたい。

 月藍ユェランはおずおずと口を開いた。


「あー、私は、泊めていただきたいかな? せっかく遠出をしてきたんだし」


 ホンの顔が、ぱっと輝いた。同時に、龍暁ロンシャオが「ユェラン」と悲しそうに呟く。

 すまん、と手を合わせると、しょんぼりと黒曜石の色をした目の視線が下がった。


「よーし決まりだな! めちゃくちゃもてなしてやるぜ!」

「あの、ホン殿、お気遣いなく」

「遠慮するなって。客なんて久しぶりだからな!」


 龍暁ロンシャオを捕まえたのと反対の腕が、月藍ユェランの首に回って引き寄せる。

 ぱっと見は川辺の鷺のようにひょろりとしているのに、やたらと力が強い。妙なところが龍暁ロンシャオに似ているものだ。


「今夜はたっぷり飲んで食おう! なっ!」

「ああ! 料理なら任せてくれ、こう見えて得意なんだよ」

「そりゃあいい。おいシャオ、料理上手なんて良い嫁さんもらったなあ?」

「うるさい!」


 鬱陶しげに睨む龍暁ロンシャオに頬擦りをして、ホンが心底嬉しそうにはしゃぐ。

 明るく振る舞ってはいても、人恋しいのかもしれない。

 ならば今日は寂しくないよう、楽しく過ごそう。食事も腕に寄りをかけて振る舞おう。

 そう心に決めて、月藍ユェランホンの肩を抱き返した。

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