第3話 不思議な少年

「あんた、上手に弾くな」

「!?」


 突然かけられた若い声に、弦を弾き損ねる。

 ギャンッ、と調子外れな音を立てて、月藍ユェランは顔を上げた。


「だ、誰だい、君……?」


 いつの間に現れたのか、正面の窓から少年がこちらを覗き込んでいた。

 年の頃は十三か十四くらいか。黒鹿毛の馬に似た色の髪と、日によく焼けた健康そうな肌が印象的な少年だ。

 黒々として落ち着いた大きな瞳が、興味深そうに月藍ユェランと阮咸を見比べている。


「俺はここの者だ」

「ここの? 花婿さん側のご親族?」

「そんなものだな」


 にこりともせずに言って、少年は窓を開けた。

 ひょいと桟を乗り越えて客房へやの中に入ると、まっすぐ月藍ユェランに近づいてきた。

 間近で少年を見て、月藍ユェランは彼がずいぶん良い服を着ていることに気づいた。革衣の刺繍は手が込んでいるし、黒い色も丁寧に染め抜かれている。腰に巻いている猩猩緋の布は、驚いたことに西方の天鵞絨だ。縁取りも金糸でされていて、実に見事な逸品である。

 凛とした佇まいも相まって、生半可な出自に見えない。この少年は、きっと花婿の弟か何かだ。

 見当をつけて、月藍ユェランは彼に話しかけた。


「勝手に入ってきていいのか? 大人の許しは得ているんだろうな?」

「屋敷のどこに俺がいようと誰も構わない」

「は?」

「それより、阮咸げんかん、もう弾かないのか」


 素っ気ない少年の返事に、月藍ユェランは早々に次の言葉を見失った。

 ながいすの真正面に少年が座り込む。胡座の膝に頬杖をついて、漆黒の瞳で月藍ユェランを見上げてきた。


「もっと聴きたい。弾いてくれ」


 突然の要求に月藍ユェランは目を丸くした。


「……いいのか、弾いて」

「何が言いたい」

阮咸こいつ、勝手に借りた物なんだけれど」

「いいんじゃないか。さっさと弾いてくれ」


 本当にいいのだろうか。疑問に思うが、少年の視線による催促が痛い。

 見つめ合うことしばらく。結局月藍ユェランは押し負けて、抱えた阮咸を構え直した。


「何か聴きたい曲は?」

「ない」

「言い切るな……」

「あんたの好きな曲を弾けばいい」

「私の?」


 こくりと少年は頷いた。


「歌も歌ってくれ。あんたの声は良い」

「……わかったよ」


 追加の要望をため息混じりで受け入れる。

 なんとなく、断っても頷くまで求められる気がした。ここは素直に聞いておいた方がいいだろう。それに花婿の親族の機嫌は取っておいて損はない。

 呼吸を整えて、弦に指を滑らせる。奏でるのは草原を駆ける馬の歌だ。曲調は軽快で、調子テンポが良い。月藍ユェランが少年時代に好んでいたから、この少年も気に入るかもしれない。

 歌いながら、ちらりと少年を見る。表情はほとんどないが、目の輝きは増している。喜んでいる、ようだ。たぶん。指を止めず曲を弾き続ける。

 一曲終わると、少年はじっ、と月藍ユェランを見つめた。一言も発していないが、眼差しがもっとと強請っている。

 阮咸げんかんを置くに置けず、月藍ユェランは再び弦を爪弾いた。

 同じ曲ばかりではつまらないので、別の曲にする。空を舞う鷹の歌だ。勇壮な調べが白麓パイルーの街の若者に人気だった。

 少年の頬が少し赤くなる。興奮ぎみな様子が可愛らしい。ほんの少し微笑んで、月藍ユェランは阮咸を弾いて歌い続けた。


「あんた、何故ここに来たんだ」


 少年が口を開いたのは、三曲目が終わって四曲目を弾き始めた頃合いだった。


「花嫁は女だと聞いていた。でも、あんたは男だ」


 黒曜石のような瞳が、ひたりと月藍ユェランを見据えた。

 これはダメだ。嘘を見抜く瞳だ。知らず知らず、喉がなる。


「私は、花嫁になるはずだった子の兄なんだ」

「兄?」

「そう。でも妹は事情があって嫁げなくなってな。だから、代わりに兄の私が嫁ぐことになった」

「あんたが代わりか」


 考え込むように少年が視線を逸らした。重い眼差しが外れ、ほっと肩の力を抜く。


「私が来て驚いたのかな?」

「……ああ」


 少年が首を縦に振る。月藍ユェランは苦笑いを浮かべた。

 無理もない。男の花嫁なんて、荒唐無稽にすぎる。前例があると言われても現実味がないから、疑問が山ほど湧いて当然だ。

 阮咸げんかんを置いて、月藍ユェランながいすの上で少年のように胡座をかいた。小卓の茶器から冷めた茶を飲み、肩を竦める。


「悪いな、前例があるからって私が来てしまって」

「前例か」

「だいぶ昔のな。ここへうちの一族の男の人が嫁いだことがあるらしい」


 知っているかと訊くと、少年は頷いた。意外にも有名な話らしい。


「不思議な話だよなあ。男が男に嫁いでも、意味はないだろうに」


 当たり前のことだが男の花嫁では子を産めない。婚姻の目的を果たせないから、受け入れる花婿側にとって大変な迷惑になるはずだ。

 なのに、何故受け入れられたのか。考えてもわからないが、今回も同じようにことが運ぶと思えない。


「今話し合いがもたれているけれど、私は用無しかもしれないな」

「何故そう思う」


 首を傾げる少年に、月藍ユェランは吹き出してしまった。


「私みたいな大男、花婿も嫁さんに欲しいと思わんだろう」


 女と見まがう中性的な容姿をしているならともかく、月藍ユェランはどこから見ても男だ。背は周りと比べても飛び抜けて高く、しっかりと筋肉もついている。

 その容姿に繊細な美しさがあるとすれば、薄い金色の髪と白麓パイルーの銀灰の瞳くらいだろうか。

 それでも、男は男だ。婿に欲しいと望まれても、嫁に欲しいとは思われまい。

 そう言って月藍ユェランはからから笑ったが、少年は表情を揺らさなかった。

 ただ、月藍ユェランを頭の先から爪先まで見つめるばかりだ。たっぷりと、目に焼き付けるように月藍ユェランを見てから、少年は腰を上げた。


「どうしたんだ?」


 返事はない。代わりに月藍ユェランの頬へ、細い手が伸びた。

 冷えた手のひらが白い頬を包む。ぱちくりとする銀灰色の双眸を覗き込んでから、少年は月藍ユェランの額に口付けた。


「おいっ!?」


 不意打ちの柔らかな感触に、月藍ユェランは肩を跳ね上げて逃げを打つ。

 が、頬を包む手がそれを許さなかった。少年とは思えないほどの力にぎょっとする。


「帰るなよ」


 ぼそりと少年が呟いた。刃を咥えたように引き結ばれた口元が、ほんの僅かに緩む。突然の微笑みに月藍ユェランの目が瞬くが、次の瞬間にはまた元に戻ってしまった。

 頬から手が離れる。呆然とする月藍ユェランを置いて、少年はすたすたと戸に向かって歩いて行った。

 出ていく間際、くるりと振り返る。


「また、阮咸げんかんを弾いてくれ」


 それだけ言って、少年は戸の向こうへ姿を消した。

 戸の閉まる音で、月藍ユェランは我に返る。額に手を当てる。

 口付けられた辺りが、なんとなく熱い。そんな気がして、何度も擦る。


「あの子、なんだったんだ……?」


 月藍ユェランの問いに答える者は、もういない。

 灯明の芯が焦げる音が、小さく聴こえただけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る