第2話 到着

 辺りに薄暮が漂い出した頃、ようやく月藍ユェラン龍玄ロンシェンの街に着いた。

 黄金色の西日に染まる街は、月藍ユェランが予想していたより大きかった。

 切り立つ谷の狭間ではあるが、平地の部分がかなり広い。そのため谷の陰に入る場所が少なく、あまり窮屈な印象はなかった。

 山道から街の最奥へ繋がる、広く取られた路を輿に乗せられたまま進む。御簾みすから外を覗くと、人だかりが道端に溢れていた。

 高山の街にしては人が多い。玄山シェンシャンの麓一帯では最も人が多い白麓パイルーの街と、あまり変わらないかもしれない。興味津々に花嫁の一行を眺める彼らの顔立ちや衣装は、白麓パイルーと少し違っていて、異国情緒らしいものが漂っていた。

 街並みはというと、石造りの建物がほとんどのようだ。黒に近い灰色がかった石が、精緻に積み上げてある。谷の岩肌もくり抜いて住居としているのだろうか。遠くに臨む四方の崖にもぽつぽつと明かりが見えていた。

 物珍しいが壮観で、とても見応えのある風景だ。

 興味深く街を眺めるうちに、街の最奥へ辿り着いた。崖を背にした屋敷の前で、輿が止まる。


「でかい……」


 そこはまるで、お伽噺とぎばなしの仙境の宮殿のような屋敷だった。

 崖を背に聳える建物は三層に重なり、見上げれば首が痛くなるほど高い。紅いいらかや柱と黒みがかった外壁との対比が美しく、婚礼のための飾り付けで一層華やかに見える。

 これほど豪奢な建物は、初めて見た。人の手を借りて輿を降りた月藍ユェランは、ただただ目を見張るしかなかった。

 ややあって屋敷から使用人らしき者が現れた。長が花嫁を連れてきた旨を伝えていると、恭しく一行は中へ誘われた。

 もう、逃げられない。不安と緊張が身体を強張らせ始める。唇をひき結んで、月藍ユェランは紅い婚礼用の雪洞あかりが掲げられる玄関をしずしずと潜った。

 長い回廊を渡り、いくつかの庭の側を抜け、一際大きな建物に導かれる。先触れが中に入ってから、ややあって広間に通された。

 被衣ベールの合間から様子をうかがう。すでに広間には、花婿側の面々が揃っていた。

 礼に則って、透き通るような碧い石床へひざまずく。深く垂れた頭の上で、室内がざわつく気配を感じた。

 やはり、先方を戸惑わせてしまったようだ。

 月藍ユェランは背が高く、体付きもしっかりしている。女物の婚礼衣装を纏っていても、隠しようがないほど男らしい。月藍ユェランの妹、つまり女性の花嫁が来ると思っていた花婿側が驚くのも、無理がない。

 龍玄ロンシェンの側の赤い髪をした声の大きい男が、白麓パイルーの長に聴き慣れない言葉で詰め寄る。男の訝しげな様子からして、長は交代した花嫁の詳細を伝えていなかったようだ。

 ああでもない、こうでもないといったふうに長たちの言い合いが続く。雲行きの怪しい彼らの様子をはらはら見守っていると、花婿側の青年に声を掛けられた。

 何か一言、二言と訊ねられるが言葉の意味がわからない。戸惑うように見上げると、月藍ユェランが言葉を解していないとわかったらしい。

 青年は白麓パイルーの言葉で言い直してくれた。


「君、疲れていないか? よかったら別の部屋で休んでいてもいいぞ?」


 僅かに発音が違うけれど、今度はわかる。

 でも、どう返事をしたものか。側にいた介添え役に目配せをする。苦笑いを浮かべた介添え役は、そっと耳打ちをしてくれた。


「そうさせてもらいなよ」

「いいのか?」

「長たちの話し合いが長引きそうだからね」


 介添え役の視線の先では、いまだに長と赤い髪の男が話し込んでいる。

 確かに、すぐ話の決着が付く様子には見えていない。


「でも……」

「構わないから、ゆっくりさせてもらっておいで」


 介添え役に押し切られて仕方なく頷くと、にっこり笑った白髪の青年に手を引かれた。

 青年は気遣うように介添え役の肩を叩くと、使用人を伴って月藍ユェランを広間から連れ出した。

 案内された先は、広間のあった建物からさほど離れていない客房へやだった。清潔に整えられ、客人を迎える準備は万端の様子だ。


「おい、入っていいぞ」


 物珍しい意匠の壁掛けや敷布に気を取られていると、青年がながいすの側で手招きをしてきた。こちらへ来いということらしい。

 素直にながいすに腰掛けると、慰めるように肩を叩かれた。驚いて振り仰ぐ。青年が悪戯っぽく笑っていた。


「せっかく来てくれたのに、ごたごたして悪いな」

「い、いえ、こちらこそ、花嫁の交替をお伝えしていなかったみたいでごめんなさい」

「気にしなくていいさ。前にも似たようなことはあったからな」

「前にもですか?」


 数代前の男の花嫁のことだろうか。


「ああ、だから心配せずこれでも食べてのんびりいてくれ」


 そう言って彼は、月藍ユェランの手に綺麗な小袋を握らせた。

 開けてみると、蒸した栗の実が数粒入っている。とりあえず、頭を下げて礼を言う。青年は満足げに笑うと、使用人を連れて客房へやを出て行った。

 ゆっくりと飴色の戸が閉まる。途端に、静けさが室内を満たす。肩の力は少し抜けたが、心許なさもひたひた月藍ユェランに近寄ってきた。


(どうなるんだろう)


 ひとまず痛い目には遭わされていないが、白麓パイルーの身内とは引き離された。

 それもまったく知らない屋敷の中でだ。逃げ出そうにも逃げ出せない。

 靴を脱いで、ながいすに乗り上がる。ため息を吐こうとしかけて飲み込み、もらった栗の実をながいすの上に出してみた。

 赤みを帯びた褐色の実は丸々と肥えていて艶も良い。とても美味しそうだけれど、今は食べる気が起きてこなかった。

 手持ち無沙汰で、なんとなく栗を弄んでみる。ころころと転がしたり、おはじきのように弾いてみたり。余計な思考に陥らないように、意識して指先を動かした。

 そうして待てども、一向にとは開かない。窓の外がすっかり暗くなってしまったから、かなりの時間が経過したというのにだ。

 話し合いは、どれほど難航しているのだろう。自分の処遇はどうなるのだろう。気になり出せばキリがなく、紛らわせていた気もだんだんと滅入ってくる。

 被衣ベールを脱いで、ながいすから降りる。じっとしていられる気分ではなくなってきた。客房へやから出るのはダメだろうが、中をうろつくくらいなら許されるはずだ。勝手にそういうことにして、客房へやの中をゆっくり眺めて回ることにした。

 客房へやはあまり広くはなかった。ながいすのある居間と隣にある寝間、従者用の控室の三部屋しかない。

 しかし、内装や造りは瀟洒しょうしゃで、材質も高級な物が使われている。柱や梁の木目は端正で、窓には玻璃が嵌められている。家具の細工も凝っているし、敷物や肘掛けの布も西方の毛織物や絹ばかりだ。


「裕福なんだなぁ……」


 寝間を見回して、いまさらなことを呟いてしまう。

 この屋敷は白麓パイルーの長のそれより、ずっとぜいが凝らされている。近隣の大国、中原の皇帝が住むという宮殿もかくやといった有り様だ。

 白麓パイルーの一族もそこそこ豊かではあるが、龍玄ロンシェンはその上を行っているようだ。あまり白麓パイルーの街に龍玄ロンシェンの一族が降りてくるところを見たことがなかったから、そんなこと今まで気づかなかった。


(本当に、私で大丈夫なのだろうか……)


 婚姻の釣り合いが取れているか心配になってくる。

 婚姻の盟約は、月藍ユェランが考えていた以上に、龍玄ロンシェンが優位な立場のものなのではないだろうか。

 だとしたら、断りもなく花嫁をすり替えたことは大変な問題になるのでは。元からあった不安が、胸の中でぶくぶくと膨れ上がる。

 慌ててそれを振り払うように、月藍ユェランは寝台に倒れ込んだ。ばふ、と幾重にも重ねられた柔らかな敷布が月藍ユェランを受け止める。頬に触れる感触は滑らかで心地よい。絹だろうか。寝具一つとっても贅沢なのだなと驚かされる。

 ころりと身体を返す。華やかな刺繍の施された帳が視界いっぱいに広がる。のろのろと視線で帳を上に辿っていく。精緻せいちな彫刻で飾られた寝台の頭の方で、月藍ユェランは目を止めた。

 身体を起こして、四つん這いで寝台の頭の方へ近づく。枕が並ぶ壁の端に立て掛けられた物に、月藍ユェランは思わず声を上げた。


阮咸げんかんが、なんでこんなところに?」


 丸い胴に長い棹、張られている弦は四線。寝台の片隅にあったのは、中原の楽器だった。

 交易が盛んな白麓パイルーの街では馴染みあるものだ。触ってもいいか少しためらったが、懐かしさに負けて手に取る。ひんやりときた紫檀の手触りが良い。居間まで持ち出して、ながいすに腰掛けて構えてみる。

 妹の習い事に付き合ったから、弾き方は知っている。弦を軽く爪弾くと、殷々とした音色が零れた。とても質が良い品のようだ。


「〜♪ 〜、〜♪」


 そのうち月藍ユェランは気分が良くなって、鼻歌交じりに曲を奏で始めた。

 選んだ曲は盛りの花を愛でる内容のものだ。曲調が明るくて、一番気に入っている。

 自画自賛になるが、月藍ユェランはそこそこ上手く阮咸を弾ける。様になった音は耳に良く、不安を和らげてくれた。良い物を見つけられた。嬉しくなって一曲弾き終えても、また別の曲を弾く。

 一曲、二曲と続けて、夢中に弾いていたせいだろう。

 誰かが客房へやに入ってきたことに、月藍ユェランはまったく気がつかなかった。


「あんた、上手に弾くな」

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