第9話



 しばらくして、痺れを切らした私は、家に帰ろうよと言った。


 夜は深くなっていく一方で、朝が近づく。


 12時を回るまでに、今来た道を引き返そうよと言った。


 そのうちに岡山の標識が見えた。



 バイクは加速していく一方で、反対に、街の景色は小さくなっていく。


 いよいよ人気がなくなってきて、反対車線にはまばらなフラッシュライト。


 涙はすっかり乾いて、風に浮き上がった前髪のそばでただ前を見てる。


 止まらないスピード。


 止まらない時間。



 「お前が泣いたのはいつやった?」



 亮平は聞いてきた。


 私が泣いたのはいつだったか。


 ——わからない


 そう、答えた。



 「楓が初めて泣いた日を知っとる」



 難しいことを言うつもりはない。


 だけど俺がブレーキを踏めないのは、お前の心に追いつきたいから。


 亮平はそう言った。


 ——追いつくって?



 亮平の意図した言葉が、私のところに届かない。


 密着した体の先で、夜は峠を越えて下降線を辿っていった。


 月が遠くなる。



 「ねえ、帰ろう?」



 街の明かりはすでに消えた。


 ここがどこだかはもう分からない。


 ヘッドライトと、垂直に伸びていく2人の影の下で、延々と続く地平線。



 「俺たちはもう引き返せないところに来とる」



 亮平は振り向き様、私の目を見た。


 私は戸惑いながら、次のインターで降りようと催促する。


 それでも、あっという間にバイクは標識を過ぎて、曲がる気配を感じさせないまま、インターを過ぎた。



 引き返せないって、どういうこと?



 私は聞かずにはいられなかった。


 亮平は言った。



 「お前が初めて泣いた日のこと、俺はよう覚えとる。運動会の日、お前は必死になって練習しとったのに、こけてしまったよな?」



 もうずいぶん前のことになるだろうか。


 あれはいつだったっけ。



 「昔すぎて、あんま覚えとらんわ…」


 「俺はよう覚えとる。昔から負けず嫌いやったお前が、初めて、勝負で泣いた日やしな」



 亮平は続けざまに言った。



 「俺、お前のそういうところが好きや。悔しいもんは悔しいって言える、そういう性格が」


 「そりゃどうも」



 なによ、急に。


 濡れたハンカチのそばで、柔軟剤の香りが鼻を通りすぎる。


 ひしゃげた鼻骨。


 長いトンネルと、ひび割れたアスファルト。



 「そういうのって、大事やない?」


 「何が?」


 「負けたくないって思う気持ち」



 バイクはサービスエリアに入って、空っぽになったガソリンタンクを補充するためにノズルを外す。


 兵庫を出て、岡山に入ったみたいだ。


 ずいぶん遠くまで来た。



 「明日学校なんやけど」



 さっきは明日の学校がどうとかって、言ってたくせに、急に今晩は岡山のホテルに泊まっていくからとか言い始めた。


 替えの下着も何も持ってきてないってのに。



 「そんなんコンビニにでもあるやん」



 金遣いが荒いやつだ。


 だいたいあんたの家は困んないの?


 おばあちゃん、心配してるんじゃないの?


 ただでさえ素行の悪い孫だってのに。

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