第8話



 時計は午後10時を回る。


 夏の鈴虫が耳の中を打つ。


 月明かりの下でさざ波を打つ高い音符。



 「俺たちはいつだって、走り続けなくちゃならんのや」



 走る。


 その言葉の真意が、今もわからずにいる。


 だけど、いつも勝気なその声の下で、いつからかこの言葉の上澄みが、朝、アラームの音と共にやって来る。


 あれから夏が過ぎた。


 秋が来た。


 冬を越えて、野に咲いたタンポポの花。


 アクセルを踏み続ける足が、広い道路の真ん中に落ちる。


 亮平、あの日、本当はどこに行きたかったの?


 なにを探していたの?


 アスファルトの上に刻まれたタイヤ痕が、この目に焼き付いて離れない。




 キーちゃんは不思議そうに私を見ていた。


 バスの後部座席で、窓越しに視線を預けている私がきっと、頼りなく見えたんだろう。


 どこに降りるかもまだ分からない。


 西宮の街に近づいているでもない。


 だけど、なにも考えてないわけではない、そんな私の顔が。



 「あのね、キーちゃん」



 私たちを乗せたバスが、たくさんの人を乗せて、運んで、新しい場所に行こうとしている。



 「なんや?」



 夕暮れが近づいてきて、薄暗い空の色が、街の風景を鮮やかに照らしている。


 街並みは少しだけ閑散とし出した。



 「泣いた私を連れ出して、亮平のやつ、すごい遠いところまで行ったんやで」


 「どこまで——?」



 唇を噛み締める。


 私の耳にはただアクセルの音だけが残ってる。


 スカイウェイブの単気筒。



 あの日亮平は言ってた。


 泣きたければ泣いてもいいんだって。


 だけど前を向かなくちゃ、新しい1日はやってこないって。




 「どこまで行こうとしていたのかはわからない。それでも…」


 「…それでも?」


 「それでも、迷いはなかったみたいなんや」



 私はしばらく亮平になにも言えなかった。


 いつものように私を連れ出して、ドライブをしているだけなんだろうって、思っていたから。


 亮平は黙ってた。


 なにを話すでもなく。


 ブレーキをかけるわけでもなく。

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