第8話 再会
カランコロン、とドアベルの音が鳴る。
磨りガラスが嵌められたアンティーク調の木製扉を押し開けて喫茶店の中に入ると、外と違って温かな室温と嗅ぎ慣れた珈琲の香りが漂ってきた。
一瞬僅かに驚いたような目をした後「……いらっしゃいませ」と声を掛けてきたカウンター奥のマスターさんに軽く会釈を返し、店の奥の方にある仕切りで区切られたテーブル席に座る。……店の中も軽く見回してみたけど、私以外にお客さんは居ないみたいだ。
さっきマスターさんが驚いていたのは、私が初見の客だからだと思ってたけど……もしかすると、お客さんが来ること自体最近は珍しいのかもしれない。
開店直後とは言え、もっとお客さんが居た頃はあったけど……俺が最後ここに来た三年前でも、既に俺と咲希以外のお客さんはあまり見なかった記憶がある。
……思い入れが深い場所だけに、無くなってしまわないか心配だ。
「……ご注文は」
「えっと…ブラックで」
一見無愛想にも思える態度でそう訊いてくるマスターさん。記憶よりも白髪が増えて気持ち老けたように見える上、顔の皺も増えて益々強面になってる。
懐かしさを感じると同時に、本当外見で損してる人だよなぁと思う。息子の怜も親父にだけは似なくて良かったと昔から良く言っていた。
母親似で女顔なのもその代償と考えればは軽い物、だとか。マスターさんが不憫だから辞めてあげてほしい。
あとこの人、寡黙なのは見た目の通りなんだけど、なんというか聞き上手な人で、昔から悩み事があるとここに来て良く相談に乗ってもらっていた。
咲希の学費の件で相談した時は、子供の未来を拓くのが親なんだから、気にせず自分のしたい事をすれば良いと言ってくれて……結局その言葉には背いてしまったけど、職場選びとかその後の職場環境についても相談していれば過労死することも無かったかもしれないな、とは後悔している。
……さて。咲希にDMで約束を送りつけたあの日から一週間、既読は付いていたから見てはいると思うけど、結局一切反応は無いまま今日を迎えた。
『待ってる』と送っただけに、今の時刻はここの開店時間である朝9時から数分経過した程度。大体昼頃まではこのまま待つつもりだ。
呼び出す場所をこの喫茶店にした理由は、咲希からしたら葡萄乃樹である紫宮樹季――兄と、その兄が死んだ後にそのアカウントを使って活動を始めた『私』との間に少なくとも何かしらの関係性はあると思わせる為。
マスターさんの目もあるしお店の迷惑になるからそもそもここで話をするつもりは無く、咲希が来たら何処か別の場所、近くの公園にでも移動しようと思っている。
……最初DMであれだけ怒っていたし多分無いとは思うけど、もし昼まで待っても来なかったら、私とは顔も合わせたく無いんだと判断して今後一切関わりを持たないようにするつもりだ。最初に考えていた通り、前世のことは前世のことだと折り合いを付けて。
まぁ今こうして呼び出している時点で、と言うか葡萄乃樹のアカウントで活動再開して咲希が私の存在を知ってしまった時点で、既に半ば手遅れだというのは理解している。
でも、もう既にかぐやさんを始めとした御伽組の四人とも関わりを持ってしまったし、どう転ぼうと葡萄乃樹としての活動は続けるつもりだ。
……少なからず、心にしこりは残るだろうけど。
「――お待たせしました」
「あっ、ありがとうございます」
不意に聞こえてきたマスターさんの声に深みに嵌っていた思考を中断して顔を上げると、先ほど店に入ってきた時に感じたものよりも強い珈琲の香りが鼻腔をくすぐった。
いつもの習慣で注文したけど、そう言えば私は一度も珈琲を飲んだことは無かったっけな、と思いながら徐ろにカップに口をつけて――
「に゙っ……!?」
味蕾を刺激する強烈な苦味に、猫舌だから口に含んだ量が僅かだった為に辛うじて吹き出すことは避けたものの、思わず盛大に顔を顰めてしまった。
こ、ここまで苦かったっけ……? 後に抜ける香りが、とか後味が、とか通みたいなことは分からないけど、ここの珈琲はこんなドカンと苦味だけしか感じないような物じゃ無かった筈なんだけど……
……いや、もしかして。ここの味が変わったんじゃなくて、単に私の……俺の味覚が転生したことで変化したってだけの話なのかも。
確かにこれまでも、甘いものを食べた時に前世より幸福感があったり、こってりしたものに少し苦手意識があったりと味覚の差異は感じていた。
でも、その時は性別によって色々と違うんだな、程度としか考えていなくて……流石にこうして珈琲も飲めなくなる程だとは思っていなかった。
このまま我慢して無理に飲むのも失礼だし、砂糖かミルクでも貰えるかマスターさんに訊こうかなと迷いながらカップを手に固まっていると、私の前にコトリとミルクが入ったカップが置かれた。
「え、っと……?」
「お出しするのが遅れました、こちらサービスです」
「あ、あはは……すみません。ありがとうございます」
ブラックと注文してるんだから無いのが正しいのに、私が珈琲とか喫茶店に詳しくなくて知ってる言葉を言ってみただけだと思ったのか、素知らぬ様子でミルクを持ってきてくれた。
その気遣いに申し訳無さと気恥ずかしさを感じて苦笑を漏らしつつ、ありがたく珈琲にミルクを入れ混ぜてからまた口をつける。……うん。これまでカフェオレは飲んだこと無かったけど、マイルドな感じがしてこれはこれで美味しい。
「――お客様は……」
「……?」
暫くカフェオレを少しづつ冷ましながらちびちびと飲んでいると、カウンター奥に戻ったマスターさんが不意に話しかけてきた。
「本日は、何故此方に?」
「えっと……何故、というと?」
「……初めてご来店される方でしたので。どのような理由でいらっしゃったのかと」
「あぁ、そういうことですか……待ち合わせをしているんです。知り合いと」
マスターさんがそういう事を訊いてくるのは珍しいなと思いながら、少し誤魔化しつつ理由を答える。
SNS関係で少しいざこざがあって、対面で話し合いをする為に一旦の集合場所としてここで待ち合わせている、と。
当然マスターさんも咲希とは顔見知りなので、その待ち合わせ相手が咲希であることも伝えた。
……色々と話し終えてから、いつもの相談の感覚で話し過ぎてしまったな、と我に返ると、マスターさんが何か難しそうな表情をしているのが目に入った。
――どこか釈然としないような。疑念の感情とそれを掻き消す納得感、しかしそれも信じ難く混乱している、といった感じの表情。人の感情には敏感な私でも正確には読み取れなくて……良く分からないけど、少し胸騒ぎがした。
「……あの、マスターさん――」
何が気にかかっているんだろうと自分自身に困惑しながら、その表情の真意を聞こうとして――
カランコロン、と。
ドアベルの音が鳴った。
店の入口である扉の方に目を向けると、そこに立っていたのは、記憶よりも成長しているとは言え見間違えようの無い人物。
「――ちゃんと来たんだ」
「……咲希」
その顔に見たこともない冷たい微笑を貼り付けて、スタスタと此方まで歩いてくると、そのまま私の対面の席に腰掛けた。
「……正直、私は貴女のことが分からない。死んだ兄のアカウントが二年ぶりに動いてイラストを投稿したと思ったら、そのイラストの題材でもある兄が描いたVTuberの配信に兄を騙って貴女が出て……最初はただの乗っ取りだと思ってた。でも、それからの貴女を見ていると余計分からなくなった。……ねぇ、貴女は――」
「ちょ、ちょっと待って……!」
矢継ぎ早に話す咲希に意表を突かれて聞くに徹していたけど、その言葉を遮って、マスターさんも居るし流石に本題をここで話す訳にはいかないと伝える。
すると、僅かに笑みを深くして、さも当然のことの様にこう口にした。
「大丈夫。マスターさんにも話は伝えてるから」
バッとカウンターの方に振り向くと、マスターさんは罪悪感を顔に浮かべながら静かに此方の様子を伺っていて……その様子から、先程までのマスターさんの態度にも得心がいった。……最初から、すべて知ってたんだ。
良く考えてみれば本当に当然のこと。咲希からしたらどんな人間かも分からない私と二人きりで話すなんて、普通に考えて危険すぎる。
誰か大人に同席して貰った方が良いに決まっていて……そんな中私がこの喫茶店に呼び出したのだから、俺とも関わりのあるマスターさんに事情を話して同席してもらおうと考えるのも納得が行く。
……元々私も、咲希にだけ話そうと思っていた訳では無く、いずれは母さんと父さんの様な信頼の置ける人には打ち明けようとも思っていたから、聞かれるのがマスターさんだというのなら私も否やは無い。
「……で。私を此処に呼び出したってことは、色々と話すつもりで来たんでしょ?」
私に対してどんな感情を抱いているのか分からない冷たい表情のままそう促してくる咲希に、私も覚悟を決めて、小さく息をついてから話を切り出した。
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