皇子と剣聖

 青空の下で木剣同士がぶつかり合う音が響く。


 その音を聞いているだけで、ライアンの脳裏には懐かしい光景が想起される。

 貧民街から訳も分からぬうちに連れて来られて、木剣を握らされて、何の説明もないままに叩きのめされた屈辱の記憶。

 あるいは、鼻持ちならない貴族の子弟の鼻っ柱を叩き折ってやったこともあった。


 戦い続けなければ、貧民街に戻されると言われ、必死に剣を振った日々。

 ついこないだまでは、思い出すのも嫌だった剣戟の音が、今日は何故か楽器の奏でのように心地良く聞こえて不思議だった。


 ライアンは芝生の上に寝転がって、そんなことを考えていた。

 言いつけ通り、彼は怪我人のフリをしていた。

 剣戟の音を奏でているのは、親衛隊の隊員とルドルフだった。


 親衛隊の剣士は額に汗を滲ませて息を荒げているのに対して、ルドルフは汗ひとつかかずに、柔らかな笑みさえ浮かべて剣を振るっているのが対照的だった。


「ルドルフさん。お強いのですね……」


 横に座るリリアが呟いた。彼女は膝を地面につけて屈み込み、いかにも介抱をしているフリをしていた。

 ライアンは薄っすらと眼を開けて、稽古の様子を盗み見た。


「まったくだ。とても隠居していたとは思えねえな。おそらく鍛錬を続けていたんだろう。あれなら、今すぐにでも騎士団長に戻れそうだ」


 ひときわ甲高く木剣の打撃音が響いた。ルドルフの剣によって払い上げられた木剣が宙を舞った。

 空中で回転しながら孤を描いた木剣は、ライアンのすぐ傍の芝生に落ちた。もう少し落下場所がずれていたら当たっていたところだ。


 薄目のままルドルフを見た。老騎士は口元に笑みを浮かべていた。


「あのジジイ。俺が動けないのをいいことに遊んでやがる」


 その呟きにリリアの反応は無かった。木剣が飛んできたことに驚いているのかと、隣で膝をつく少女の顔を仰ぎ見た。

 リリアは真顔でルドルフを見つめていた。黒く澄んだ双眸には感情の色は覗えない。

 つぶさに情報を感じ取ろうとする意思だけが見てとれた。


「どうかしたか、リリア?」


「え、あ、いえ。凄い方だなぁと思っていまして。よくよく考えてみると、ルドルフさんのお導きのお陰でここまで来られたのだな、と思っていました」


「まだ、終わってねえけどな」

「そ、そうでした。まだでしたね」


 穏やかな顔で互いを見つめるライアンとリリア。

 その二人の耳にまた木剣の剣戟音が届いた。また新たな親衛隊員がルドルフに挑んでいるようだった。

 木剣の調べと芝生の匂いの心地良さに、眠りに落ちてしまいそうになった時、ふいに声を掛けられた。


「そなたは、ここで何をしている?」


 声変わりもしていない少年の声だった。


 驚いて眼を開けると、いつの間に現れたのか、リリアの背後に少年が立っていた。少年はとても興味深そうな顔でこちらを見ている。


「あ? なんだ、ボウズ、どこから入って――」


「こ、こ、この方は、け、け、怪我をしたので、休んでいます!」


 ライアンがぶっきらぼうに言おうとしたところに、リリアの大きな声がそれを遮った。

 その尋常ではない様子を見て、ライアンは口を閉じた。


「怪我? どこも悪いところは無さそうだが」

 少年は無垢な目でライアンをじろじろ見ている。


 ライアンは薄目になって再び怪我人のフリに転じた。

 よく見ると、少年はレースの飾りがついた煌びやかな上着を纏っていて、それだけで高貴な人だと判った。


 しかし、背丈はリリアよりも低いくらいで、顔も幼く髪を伸ばせば少女と間違われそうな中性的な雰囲気を纏っていた。


「どうかなされましたか、皇子?」

 凛と澄んだ声がライアンの耳朶に触れた。


 聞き慣れない声音だったが、誰かはすぐにわかった。

 シェリーのよそ行きの声だった。彼女はフリルががちゃがちゃとついた派手な色のドレスを着ている。


「アンジェリカ姫、怪我で動けぬと申す者が居るのだ。どこか別の場所で治療をしてやらなくてもよいのか?」

 少年は皇女らしく着飾ったシェリーに向かって言った。

 その穢れない響きの声は少年の純真さを如実に語っている。


「まぁ、皇子はお優しいのですね。ですが問題ありませんわ。この者はこれでも我が国が誇るラウンド騎士団の騎士。騎士にとって怪我など日常茶飯事。この程度の怪我で治療するなど、この者の誇りに傷がつきますわ」


「そういうものなのか? そうか、リアンダールの騎士とは気高いのだな」

 皇子と呼ばれた少年は瞳をきらきらさせて言った。


 ライアンは一連のやりとりでこの少年の正体を理解した。

 この年端もいかない少年こそが、シェリーの結婚相手であり、ザウスベルク帝国のゲルハルト皇子なのだと。


 酒場でのシェリーの言葉を思い出した。


 ――ゲルハルト皇子がこの国の『脅威』など有り得ない。


 確かに、と思った。剣よりもお人形遊びが似合いそうなこの皇子が、国を内側から滅ぼすような謀をめぐらすとは考えられない。

 しかし外見だけで判断するのも危険とも考え、横で膝をつくリリアに視線を向ける。


 彼女もライアンを見ていたらしく、二人の視線が交わる。

 悪魔の少女は漆黒の双眸をそっと閉じて無言で顔を振る。どうやらリリアの見立てでもこの皇子は『脅威』ではないらしい。


 気を緩めてため息を漏らしかけた時、息を飲むような圧迫感が襲ってきた。


 この場に悪魔の力にも匹敵する程の、濃密な気配が現れたことを感じた。



「皇子」


 それは澄んだ男の声だった。

 その声は、高圧的な響きなど微塵も感じられないのに、何故だか聞く者の身体を萎縮させる作用があった。


「あまり騒がれては、稽古に障りが出るかと」


 男の言葉はゲルハルト皇子に向けられた言葉だった。


「おぉ、そうであった。眺めるだけ、という約束だったな」

 皇子は無邪気に答えた。


 ライアンは気づかれないように薄く目を開けて、その男の姿を見た。


 悠然と立つその姿は、一見すると誰もが容易に触れられそうな穏やかな気配がありながら、誰もが近付くことを躊躇う神聖さを感じさせている。

 さながら神話で語られる宝剣が人の形となって現れたような、見る者に無条件に畏敬の念を抱かせる様形だった。


 ――神に選ばれている。


 酒場でトリシアが言っていた言葉を思い出した。

 同時にこの男が『剣聖』と謳われるジークムントであると確信した。


 男の瞳がライアンの方へ向けられた。


 その双眸は路傍の石を見るかのように無感動でありながらも、全てを見通せるような透徹な輝きも持っていた。

 ライアンは慌てて視線を逸らす。逸らした先には怖気を滲ませるリリアの顔があった。


 しかし、少女の双眸には青色の炎は灯っていない。

 男は同じような視線をリリアにも向けた後、表情を変えずに皇子の方へ向き直った。


「さぁ、もう参りましょう、皇子」


 男はそう言って緩やかな所作で歩き始める。

 皇子は名残惜しそうにしながらも、他の取り巻きたちと去っていった。


 ゲルハルト皇子とジークムントの登場で親衛隊たちの稽古は中断していた。


 そして彼らが去った後も『剣聖』の余韻は色濃く残り、心を奪われた親衛隊たちの稽古が再開されることは無かった。

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