Episode:1 第四章

いつもの酒場

 日も暮れて夜の帳が落ちたエディンオル市街――。


 明かりも少なくひっそりと静まり返る貧民街の中、酒場だけは昼間のように喧騒に包まれていた。

 酒場の客たちは、熱量に差こそあるものの、揃いも揃って日中に溜め込んだ鬱憤を愚痴に乗せて吐き出していた。


 それは夜ごとに繰り返される日常的な風景だった。


 酒場の壁際には、ひとりテーブルに頬杖をつくシェリーの姿があった。

 その顔には店内の空気とは切り離されたような空虚な憂いを浮かべていた。


 シェリーはグラスの中の酒をちびりと舐めた。そして口を焼く苦い味に顔を歪める。

 酒場に出入りするようになったのは昨日今日の話ではない。

 最初は不味いとしか思えなかった酒の味にも、最近は少し慣れてきたと思っていた。


 しかし今日は何を飲んでも不味いとしか思えなかった。


 理由は分かっていた。というか理由はひとつしか見当たらなかった。

 墓地で見たライアンの凛々しい顔が脳裏に浮かぶ。

 自分が知る限り、最も騎士らしくない人間が見せた、最も騎士と呼ぶに相応しい気高く信念を宿した顔だった。


 その顔を思い出すたびに、無力感と少しばかりの苛立ちを感じる。


 自らの命を捧げて国を救ったライアンに対して、この国の皇女である自分は感謝するべきなのだろう。

 さすがは我が国の騎士だと、褒めるべきなのだろう。


 でもそんな感情は微塵も浮かんで来なかった。


 皇女として騎士である彼を救えなかったこと、友としての言葉も彼には届かなかったこと。

 なんとも無力な自分の存在を思い知らされ、そんな自分に腹が立つ。


 しかも、全てが終わった今となっては、この無念を晴らす術は無い。

 諦めるしかないという現実だけがあった。


 この繰り返される思考と感情の渦から意識を逸らしたくて、シェリーは再びグラスに口をつけた。


 鼻腔を通る臭気に顔をしかめていると、隣のテーブルに二人の男女が座った。


 男の方は若い剣士。整った身なりはこの酒場では少し浮いている。


 女の方は剣士よりも更に若くて、幼さが残る可愛らしい顔をしていた。

 身につけている黒のワンピースは髪と瞳の色と合ってよく似合っている。


 ここに居るはずの無い二人の姿をみて、シェリーは酔いすぎて幻覚でも見ているのかと思った。

 剣士の男が店員に向かって手をあげた。無愛想な店員が男の方を向いた。


「いつもの二人前」


 剣士の男は慣れた口調で注文を済ました。


 シェリーの頭の中で何かが切れる音がした。



「いっっっつもの、じゃねぇぇぇぇえ!」


 シェリーは酒場の屋根が吹き飛びそうな大音声で叫んだ。


 ぴたりと喧騒が止んだ店内。

 先程まで騒いでいた客たちは、握り拳を震わせて立つシェリーを黙って見つめている。


「い、居たのか、シェリー……」

 剣士の男が顔面蒼白で呟いた。


「居たのかじゃねえぇぇ! なに普通にメシ喰ってんだ、お前は!」


 再び発せられたシェリーの叫び声からは皇女の気品など微塵も感じられなかった。

 シェリーは剣士の男――ライアンの胸ぐらをつかんで激しく揺すっている。


「お、落ち着いてくれ。落ち着いてくれ。せ、説明するから……」


 ライアンは恐怖に慄きながら、怒り狂う皇女を宥める。


 連れの少女――リリアは、膝の上の握りこぶしを見つめて硬直していた。


 多少酔いが回っていたせいもあり、シェリーはたかが外れたようにライアンを締め上げた。

 そうしている間に料理が運ばれてきたが、もちろん手をつける者はいなかった。


 この凶暴な皇女様をどうしたものかと、ライアンが頭を悩ませていたところに、ちょうどトリシアが現れた。

 今晩、皇女様は親衛隊の目を盗んで抜け出していたらしく、トリシアは慌てて追いかけてきた格好だった。


 トリシアは冷静に状況を把握し、まずはシェリーを宥めてくれた。

 ライアンから引き離して座らせて、一杯の水を与えた。シェリーが勢いよく水を飲み干して、落ち着いたところを見計らって、トリシアはようやく口を開いたのであった。


「説明してもらおうか。何故、二人ともまだこの街に居る」


 予想通りの質問にライアンはばつの悪い顔をした。

 隣を見るとリリアは俯いたまま握りこぶしを見つめている。


「履行できなかったんだ。リリアとの契約を終わりに出来なかったんだ」


「どういうこと?」

 反応したのはシェリーだった。


「……あの後、契約を履行――終わらせようとしたんだ。でもうまく行かなかった。前に魔物の群を掃討した時と同じで、何度やってみてもできなかった。リリアが言うには、まだ俺の願いが果たされていないらしい。俺がリリアと交わした契約の願いは『この国に迫る脅威を打ち払え』だ。つまりは――」


「まだこの国には脅威がある、と」


 先回りしたトリシアの言葉に、ライアンは首肯で返した。

 トリシアの口から深いため息が漏れた。その大げさなため息が自分への悪罵のように思えて、ライアンはいたたまれない気分になった。


「そもそもが、『脅威』ってのが曖昧よね」


 重い空気を払うようなシェリーの軽い口調だった。

 彼女は皆の視線が自分に集まったことを確認して言葉を続ける。


「考えてもみてよ。飢えに苦しむ貧民街の住人や、仕事が無い市民たち、この酒場で愚痴をこぼしている酔っ払いの中にだって、どこにでもこの国を恨んでいる者は居るわ。その人たちはまだ行動を起していないだけで、明日にでも国に矛を向ける可能性はある。それって、立派な『脅威』よね?」


「いや、それは俺たちも同じことを考えた。でも、それらの『脅威』に俺たちは線を引けるんだ…………リリアの力で」


「そ、そっか。リリアちゃんの力で見分けることができるんだ」


 名を呼ばれて思わずリリアは顔を上げた。

 しかしシェリーと目が合うと、ぎこちなく視線を逸した。そのやり取りを横目で見つつ、ライアンは説明を再開する。


「もう二人は知っていると思うが、リリアの力はこの国の脅威となる存在に反応する。だから、今シェリーが言ったとおり、街に脅威となる存在が潜んでいないか探して回ったんだ。街の中心や城の周り、貧民街に至るまでくまなく探した。途中、貧民街のゴロツキに喧嘩を売られたこともあった。だけど、そういう奴らにはリリアの力――瞳は反応しなかったんだ」


「じゃ、このままでもいいじゃない」

 頬杖をついたシェリーがぶっきらぼうに言った。


「それは駄目だ」

 ライアンは反論するが、シェリーはむくれた表情で応えない。


「なぁ、シェリー。もう一度だけでいいから、俺たちを城の中に入れてくれないか? そうすれば……」

 ライアンは最後まで言うことができなかった。

 みるみる険しくなるシェリーの横顔を見ると言葉が続かなかったのだ。


 表情を険しくしていたのはトリシアも同じだった。

「それは容認できない。ただでさえ、クロムウェル卿の謀反の騒ぎで城内の空気は不安定だ。これ以上かき回されたら、それこそが『脅威』だ。それに、婚礼の儀の準備として相手方が来訪する予定もある。お前の相手をしている暇など無い」


 ――婚礼。相手方。ライアンの頭の中で何かが閃いた。


「そうか、隣の国の奴等か」


 確信めいた声音に、シェリーはその意図を察して眉根を寄せた。

「アンタ、まさか。ザウスベルク帝国を疑っているんじゃ……」


「『脅威』があるのは何も国の内部とは限らない。むしろ、国の敵は他の国にあるほうが自然だ。結婚相手はザウスベルクのゲルハルト皇子だったか。そいつはどんな奴なんだ? 今度来るのか?」


「不敬にも程があるぞ。ライアン」

 殺気混じりの視線がトリシアから刺さった。

 その場が戦場さながらのひりついた空気で圧迫された。


「ゲルハルト皇子を疑っているのなら、見当違いもいいところよ。あの御方がこの国の『脅威』なんてありえないわ」

 シェリーがため息混じりで言った。


「クロムウェル卿が黒幕だったことだって思いもよらなかった。有り得ないとは言い切れないだろう? 仮に皇子がそうで無いとしても、側近が裏で糸を引いていたりとか……」


「それこそ、有り得ん!」

 トリシアが視線をいっそう鋭くして、厳として否定した。


「ゲルハルト皇子の傍には、『剣聖』とまで謳われたザウスベルク帝国の至高の剣士、ジークムント殿が仕えている。貴様とて剣士の端くれならその名声は聞いたことがあるだろう。剣の腕前は言うに及ばず、その知性と品性ももはや常人の域ではない。生きながらにして伝説と謳われる御方が、この国の『脅威』など断じて有り得ん!」

 熱く語るトリシアは顔を紅潮させて興奮した様子だ。


「そ、そんなもん、噂だけかもしれないだろ……」


「実際に会った事があるから言っている! あの御方、ジークムント様は纏う空気そのものが違う。神に選ばれているとはあの御方のことを言うのだ。あの御方は神が我々の前に遣わした奇跡なのだ。お前のような騎士崩れが疑うことさえ許されることでは無い!」


 テーブルを拳で叩きながらトリシアは言い切った。

 話しながら興奮はさらに昂ぶった様子で、話し終わった後も彼女の鼻息は荒い。

 ライアンはそのトリシアの変貌振りが理解できず、救いを求めるようにシェリーを見やった。

 シェリーは苦笑いを浮かべて言う。


「ジークムント殿の話になると、いつもこうなの」


 その言葉で我に返ったトリシアは顔を真っ赤に染めた。

 そして恥らう乙女のごとく顔を伏せるのであった。

 そんな様子を見て、ライアンはこれ以上話を続けて良いものか困惑してしまった。


 奇妙な沈黙に包まれた一同。そこへ一人の大柄な男が近付いてきた。

 男は顔を隠すように目深にかぶっていた帽子を取りながら話しかけてきた。


「また、面白い話をしているな」


「師匠」

 ライアンは呟くようにその男を呼んだ。現れたのはルドルフだった。


 彼は顎をひとさすりすると、口角を上げてにやりと笑った。


***************


 英雄の突然の登場に、酒場はしばらくの間ざわめいていた。


 ルドルフは客たちの熱烈な歓迎にひとしきり応えた後、椅子に腰を降ろした。

 そして酒を一杯呷った後、笑みを浮かべて一同を見渡した。


「さて、話の邪魔をして悪かったな」


「珍しいわね、ルドルフ。あまりこういった店で飲むのは好きじゃ無いって、言ってなかったかしら?」

 シェリーが尋ねた。


「アンジェ――いや、シェリー。あいにく飲みに来たのでは無いのだ。なにやら、そこの騎士が何かまた嗅ぎ回っていると聞いてな」


「世話のかかる弟子をお持ちになると、おちおち隠居も出来ませんね」

 トリシアはいつもの冷たい口調に戻っていた。


「ふん、まったくだ」 

 にやりと笑いながらルドルフは言った。


「ちょうどいいわ、ルドルフ。貴方の意見も聞かせてくれるかしら」

 一同を代表するようにシェリーが話を切り出した。


「――という訳で、そこの騎士様が言うには隣国――ザウスベルク帝国が怪しいんじゃないかって、言っているのよ」

 シェリーはライアンの推論を端的に説明した。

 その間ルドルフは、瞑目して小刻みに頷きながら話を聞いていた。


「ふむ……ライアンの考えはあながち間違っておらぬかも知れんな」


 途端、トリシアの目が険しくなって、鋭い視線をルドルフに向けた。

 しかし、ルドルフは緩く笑って、その視線を受け流しながら言葉を続ける。


「儂もひとつ気になっていたことがあったのじゃ」

「気になっていたこと?」

 シェリーが問い返した。


「前に一度話をしたかと思うが、ジルドが造った例の薬には、リアンダール国内で手に入れることが困難な薬草が使われておる。その入手困難な薬草。どこの国なら簡単に手に入ると思う?」


「この話の流れで、どこの国かなんて意地が悪いわ、ルドルフ。その国はザウスブルグ帝国。そうなんでしょ?」

 シェリーの返答に、ルドルフは鷹揚に頷いた。


「し、しかし。薬草が手に入るというだけで怪しいと決め付けるのは早計です。クロムウェル卿の片棒を担いでいたレーゼマイン卿、彼は外交に明るかったはず。彼ならば薬草の一つや二つ、ザウスベルクから仕入れることくらい容易いはずです!」

 トリシアが前のめりで反論した。


「お主の言う通り、薬草の入手にはレーゼマイン卿が関わっておるだろう。あやつの権限を以ってすればそれは可能だろう。しかしその量が問題なのだ。知り合いの薬師によると、新しい薬の生成には試行錯誤の過程にて、大量の原料が必要となるらしい。リアンダール国内で済む話であればレーゼマイン卿やクロムウェル卿の力があれば問題ないだろう。しかし、その大量の原料はザウスブルグ帝国の協力無しには揃えることはできなかったのだ」


「そ、それは……しかし、それだけで怪しいというのは、やはり」


「早計かもしれん。しかし、怪しくないと決め付けるのも、また早計じゃと思うがの。トリシアよ。姫の安寧な婚礼を願うそなたの思いはわからぬ訳ではない。しかしだからこそ、先入観に囚われてはならん。姫のことを本当に思うのならば、あらゆる視点から物事を捉えるべきだ」


 トリシアはなおも反論しようとしていたが、言葉は出ずに押し黙ってしまった。

 その姿を横目で見ながら、シェリーは酒を一口飲んで、ライアンを見る。


「ライアン。貴方をもう一度城に招く話、受け容れることにするわ」


 シェリーは口の中に広がる酒気が甘く変わっていることに気づいた。


 ――少し飲み過ぎたかしら。そう思いながら、紅く染まる頬を緩ませた。

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