貧民街の英雄
夕暮れの街路の上、ライアンは歩みを止めた。
そして、後ろを付いて来るリリアの足音が追いつくのを待った。
リリアが追いつくと、また彼は歩き始めた。リリアと連れ立って歩くときはいつもこうだった。
歩幅が大きいライアンは、ときおり歩を緩めてリリアがはぐれてしまわないようにしていた。
だが、今日はいつにも増してリリアの歩みが遅くて、いつもより止まる頻度も多かった。
それでもライアンは急かすような言葉は口にしなかった。
憂いを露わにするリリアの顔を見ると何も言えなかったのだ。
昨日の夜に二人は約束していた。
『脅威』が去ったことが確認できたら、その日を終わりの日にしようと。
ライアンたちは契約を終わらせる場所に向かって歩いている。
すなわちライアンの命が終わる場所へ。
明らかにリリアは契約の履行を嫌がっている。そのことにライアンは気付いていた。
リリアは本来ならば人が傷つく姿を見るのも嫌なのだろう。
ましてや自分の契約の所為で人が死ぬところなど絶対に見たくないはず。
それが彼女との付き合いの中でたどり着いたライアンの結論だった。
だが、これは彼女の未来を開くための通過儀礼であり、必要なことである。
人が葛藤を乗り越えて大人になるように、悪魔の少女もこの葛藤を乗り越えて人になって欲しい。ライアンはそう思っていた。
しかし、歩くほどに足取りが重くなるリリアを見て、少し急ぎすぎたかとライアンは自省した。
「なぁ、リリア」
明るく話しかけるライアン。
リリアは顔をぴくりと上げた。
「メシにしようか」
*****************
二人が酒場に入ると、店内はしんと静まり返ってしまった。
さっきは外にまで騒ぎ声が聞こえていたというのに、今は嘘のように静かだった。
客たちは皆、ライアンを見てひそひそと話をしている。
だがその視線がいつもと違うことにライアンは気付いた。
いつもは蔑みや憎しみといった感情が混ざった視線なのに今日は違う。
どちらかといえば好意的な視線だった。中には尊敬ともとれる眼差しを向ける者もいた。
空いているテーブルを見つけて腰を降ろした。
それと同時に、およそ二人では食べきれないほどの料理の皿がテーブルの上に並べられた。
いつもの焼いた肉に加え、揚げた肉、魚料理、具がゴロゴロと見えるスープ、ミートパイ、さらにはデザートのようなものまで付いている。
「まだ、頼んでいないんだが」
料理を持ってきた恰幅の良い男――マスターにライアンが言った。
「奢りだ。好きなだけ食いな」
マスターはそれだけ言うとカウンターの奥へ戻っていってしまった。
ライアンは困惑顔でリリアと顔を見合わせた。そこへ身なりの良い男が近付いて来た。
「この店にいる客からの奢りだよ。遠慮せずに食べなよ」
男はいつぞやの情報屋のミックだった。
「そりゃ、どういう風の吹き回しだ?」
「どうもこうもないさ。ここいらの連中はみんな貴族ってのが大嫌いだ。その貴族に一泡吹かせてやったアンタに礼がしたいだけさ」
「礼、ねぇ……」
ライアンがどうしたものかと考えていると、酒場の中がどよめくのが聞こえた。
その正体はすぐに判った。
上等そうな丈の長い上着を羽織った、銀髪の大柄な男が、酒場の雑踏を掻き分けて歩いてくる。
酒場の客たちは皆揃って、感嘆の声でその男の名を呼んでいる。中には立ち上がり握手を求める者もいた。
男はライアンたちのテーブルまでやって来た。
「これは、随分と豪勢だな、ライアン」
テーブルに敷き詰められた料理を見て、男は笑いながら言った。
「いや、頼んでないんだけどな。手伝ってくれよ――師匠」
喝采で出迎えられた銀髪の男はルドルフだった。
騎士団長時代、誰もが畏敬の念を抱く豪腕を持ちながら、平民にも貧民にも分け隔てなく接する彼は貧民街でも英雄だった。
そして、引退した今でもその人気ぶりは衰えていないらしい。酒場の客たちの歓迎ぶりを見て、やはり本物は違うなとライアンは苦笑した。
「どうした? 苦笑いなんぞ浮かべて」
「別に。気にしないでくれ。さぁ、食べようか」
「悪いが、儂は食事に来たのでは無いのだ」
「そうなのか。じゃあ、飲みに来たのか?」
「それも違う。お前、アンジェリカ姫に騎士を辞めると言ったらしいな。姫の使いの者が血相を変えて儂のところへ飛んできたぞ。儂にお前を説得してくれとのことだ」
パンを掴んでいたライアンの手が止まった。
「……師匠。知っているだろう。俺はもう無理だよ」
「もちろん覚えておる。だが、もう一度だけ姫と話をしてやれ」
「どうしてだ、結果は変わらないだろう」
「姫に泣き付かれては、無下にはできないだろう。儂にも立場というものがある」
ライアンはいかにも面倒臭いといった表情見せる。
「そう嫌な顔をするな。姫との話し合いには儂が同席してやる。儂の指示通りに話せば、あとはうまくまとめてやる」
その後、ルドルフは明くる日の会合に向けてライアンに指示を伝えた。
最初は大人しく聞いていたライアンは、最後の言葉を聞いて驚きの声を上げる。
「いいのか、それ?」
「あながち間違ってもいないだろう」
ライアンは顎に手を当てて考え込んだ後、深々と頭を下げた。
「判った。よろしく頼む。師匠」
「ふん、世話のかかる弟子だ」
リリアには二人が何を話しているのかは聞こえなかった。
だが、頭を下げるライアンを見つめるルドルフの顔が、どこかで見たことがあるような気がしていた。
話が済むとルドルフは、料理には手を付けずに足早に帰ってしまった。
「すまない。リリア」
妙に軽やかな声音でライアンが言う。
「例のアレは、明日に延ばしてくれるか?」
言葉でこそライアンは謝ってはいるが、その顔は虚心坦懐とした表情をしていた。
その軽やかな空気に少し戸惑いながらも、リリアは首肯で応えた。
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