逆賊の徒

 書架が壁を埋め尽くす、とある書斎。


 老年の男が滑らかな手つきでペンを走らせていた。

 静かな部屋の中ではそのペンだけが小気味良い音を立てていた。


 男は手を止めてひとつ息を吐いた。そして顎に手を当てて自らが書いた文書を眺めた。


「これで、あのお転婆も少しは大人しくなってくれれば良いが……」


 誰にも聞こえないような小声で男はひとりごちた。

 そこへ控えめなノックの音がした。


「入れ」

 先程の独り言とは違い、扉の外に聞こえるようによく通る声で男は告げた。


「執務中失礼いたします。クロムウェル卿」

 部屋に入ってきたのは執事の格好をした初老の男だった。


「構わぬ。今、終わったところだ」

 執事の男は慇懃に頭を下げた。


「姫殿下への書状ですか」


「ああ、そうじゃ。これを、姫殿下の元へ送っておいてくれ」


「直接お会いにならなくても良いので?」


「良い。今、あの御方に会うのは危険じゃ。あの御方の下にはあの男がおるからの。あやつは何をしでかすか判らぬ。姫殿下に会うのはあやつを排除してからじゃ」

 執事は再び頭を下げた。

 そこへ再びノックの音が響いた。執事はクロムウェル卿と顔を見合わせて、主の頷きを確認した。


「入りなさい」


 入ってきたのは若いメイドだった。おどおどした顔で落ち着かない様子だ。


「あ、あの、執務中に失礼とは思ったのですが……、こんなものを手渡されまして」

 メイドは手に持っていた紙切れを執事の男に見せた。

 それに目を通した執事は険しい表情になった。


「なんじゃ。なんだそれは?」


 クロムウェル卿は訝りながら聞いた。執事はメイドの手から紙切れを取ると、

 無言のままそれを主に見せた。紙切れを手に取ったクロムウェル卿の眉がぴくりと動く。

 執事は目くばせをしてメイドに退室を促した。若いメイドは頭を下げて早足で書斎を出て行った。


「いかが致しましょう?」

 執事の男が小声で呟いた。クロムウェル卿は無言のまま紙片を握りつぶした。

 そして、刃物のような眼差しで虚空を見つめたまま、囁くように何かを告げた。


******************


 館の中は暗く、とても静かだった。物音があるとすれば、夜風にあおられた窓がその身を震わす音だけ。

 その館のホールをひとりの男が落ち着かない様子で歩き回っている。


 何か目的があって歩いているのでなく、同じ場所をいったりきたりとしている。

 爪を噛む口元は歪んでいて、不安と焦燥が色濃く滲み出ていた。


 ふと、せわしなく動いていた男の足がぴたりと止まった。

 男は外へ通じる扉の方を見ながら耳を澄ました。外から誰かが近付いてくる足音がした。男はホールの隅に身を隠した。


 扉が不機嫌そうな音を立てて開いた。

 来訪者が持つランタンの光がホールの中を淡く照らした。ランタンの光は持ち主の顔も照らして闇に浮かび上がらせた。


「ク、クロムウェル卿……」

 ホールの隅に隠れていた男が来訪者に呼びかけた。来訪者の持つランタンの光が、男に向けられる。


「レーゼマインか」

 その良く通る声に反応して、男はホールの隅から出てきた。

 ランタンの光に照らされた顔は安堵の色を浮かべたレーゼマイン卿だった。


「良かった。来て下されないのかと思っておりました」

 レーゼマイン卿は擦り寄るようにクロムウェル卿に近付き、憫然とした声で囁く。

 クロムウェル卿は黙ったまま、周囲に灯りをかざす。


「だ、大丈夫です。一人で来ました。従者のひとりも連れて来ておりません」

 クロムウェル卿は、媚びるような顔の貴族をじろりと見る。その眼は射殺すような鋭さをもっていた。


「ほ、本当です。わたしは閣下にだけは嘘は申しません」


「ほう。その言葉自体が嘘では無いだろうな」


「な、何を仰いますか。今まで、わたしがどれだけ身を粉にして閣下の為に尽くしてきたか、ご存知でしょう! な、なぜ、そのような疑いの目をされるのですか」


 貴族の威厳など脱ぎ捨てたかのようにレーゼマイン卿は哀訴する。

 その縋るような顔の前に、クロムウェル卿は一枚の紙切れを突き出した。


 これを読めとばかりに、文字が書かれた面をレーゼマイン卿に向けている。

 それを見たレーゼマイン卿の顔は凍りついた。


「どうやら、本当らしいな。そこに書かれていることは」

「で、でたらめです! こんなものは事実無根のでたらめです。わたしはアンジェリカ様のお屋敷などには行ってはおりません。わたしは今日ここへ来る以外、一歩も外に出てはおりません! その事実はわたしの屋敷の者に聞いて頂ければ明白です!」


「お前の屋敷の者が口裏を合わせていないという証拠が無かろう」

「そ、それは。しかし、わたしがアンジェリカ様のお屋敷へ行ったという証拠も無いはずです! わたしは行ってないのですから」


「確かに証拠は無い。だが、姫殿下の屋敷に探りを入れたところ、気になる証言はあったぞ。今朝の明け方に、姫殿下の屋敷に一人の貴族らしい男が素性を隠して来た、とな」

「ばかなっ! 私を疑う根拠はそれだけですか!」


「儂もこんな紙切れだけではこのような真似はせぬ。だが、姫殿下の屋敷に身分を隠して、訪ねる貴族がお主以外に誰が居る? 他の貴族どもには素性を隠す理由が無かろう?」


 クロムウェル卿は用意していた言葉を流れるように突きつけた。

 レーゼマイン卿は必死に反論しようとしたが、突きつけられた理屈を覆す言葉が見つからなかった。

 やがて膝を床に落として茫然と床を見つめた。


「観念したか。答えよレーゼマイン。姫の屋敷で何を話した」

「わ、罠です! これは奴等の罠です」

 この場に来てから表情を崩さなかったクロムウェル卿が、わずかに訝る表情を見せる。


「罠じゃと?」


「そうです、これは私と閣下の仲違いを狙った罠です! 奴等はわたしが閣下を裏切ったと見せかけて、私たちをあぶりだそうとしているに違いありません!」

 その言葉にクロムウェル卿は冷笑する。


「愚かな。儂がお前と繋がっていると、なぜ奴等が知っておるのだ。あの時――」


「――愚かなのは貴方よ。クロムウェル卿」


 鈴を鳴らしたような凛然とした声が響いた。続いて闇を払うように一斉に明かりが灯った。

 ホールの中をいくつものランプが明るく照らす。

 煌々と光るランプの群に照らされた声の主を見て、クロムウェル卿は驚愕した。


「アンジェリカ様……」


 そこに立っていたのは、皇女アンジェリカ――シェリーだけではなかった。

 甲冑で武装したトリシアとライアンに加えて、リリアも顔を揃えていた。


「正直、こんなにうまく行くとは思わなかったわ。我ながら己の才覚が恐ろしいわね」

 口元に手を添えた優雅な仕草で、シェリーは満足気な表情を浮かべている。


 その様子を一瞥したライアンは、驚き固まる二人の貴族を見やった。

「しかし、こんな手に引っかかるとはね……」


「簡単な話よ。言ったでしょ? 相手が『ふたり』なのが幸いだって。共犯者がいる場合、お互いの裏切りが最も怖いはず。しかも、あなたのレーゼマイン卿への揺さぶりがあった後なら、その警戒心と猜疑心は否が応でも高まるはず。あとは、それを煽ってあげれば……ご覧の通りよ」


 自分の策が嵌ったのがよほど痛快なのか、シェリーは滔々と語る。

 そんな皇女を横目にライアンは二人の貴族の方へ一歩進み出た。


「さてと、洗いざらい喋ってもらおうか」


 ライアンは凄みを効かせながらにじり寄る。


「…………ふ、ふははっ、わはははははっ!」

 突如してクロムウェルが哄笑した。その突然すぎる様変わりにライアンはたじろいだ。

 クロムウェル卿の笑い声が、ホール中に響き渡った。


 そして、ひとしきり笑い終えた後、彼は不敵な笑みを浮かべた。


「いや、失敬。あまりにも私の思惑通りに進んだので、興奮を抑え切れませんでした」


「……どういう意味かしら? クロムウェル卿」

 シェリーが腕組みをして問うた。


 クロムウェル卿は恭しく跪いて頭を垂れた。

「アンジェリカ様。ここにいるレーゼマインがリアンダールに弓引く逆賊の徒であることをご報告致します。殿下と同じく、わたしもこの男の怪しげな動向を密かに調査しておりました。そして、こやつの謀反の確固たる証拠は、すでにわたしの手中に御座います」


 その言葉に真っ先に反応したのはレーゼマイン卿だった。

「何を仰られているのですか、クロムウェル卿! 私は全て閣下の言いつけ通りに!」


「見苦しいぞ、レーゼマイン。事ここに至っては全ての罪を白状せい」


「見苦しいのはお前の方だろうが、クロムウェル。今更自分だけ逃げるつもりか!」

 殺気をむき出しにしてライアンが叫んだ。


「下等な騎士は下がっておれ。儂はアンジェリカ様と話をしているのだ」


 殺気立つライアンだったが、トリシアが前に出た。

「クロムウェル卿。あなたとレーゼマイン卿との先程の会話は、アンジェリカ様を含めてここにいる全員が聞いております。どう足掻いても、あなたとレーゼマイン卿が繋がっていたことは明白。観念なされよ」


「それこそ、私の罠なのだよ。パトリシア」


「罠?」


「左様。先程も言ったようにこのレーゼマインが怪しいと睨んでおったのだ。だが、決定的な証拠が無くてな。そこで儂はこやつの味方になるフリをしたのだ。こやつの懐に入りこみ、謀反の証拠を――」

「――もういいわ」

 垂れ流される言葉をシェリーが遮った。


 その顔は先程までの得意気な笑みは消え、冷淡な表情に変わっていた。


「クロムウェル卿。あなたの戯言に付き合うつもりは無いわ。お願い、リリアちゃん」


 リリアが一歩前に出た。

 彼女は双眸を蒼く輝かしながら右手を前にかざした。


 すると、その手の平を包むように蒼い炎が灯った。

 炎はただゆらゆらと揺れている。


「この炎は、言うなれば裁きの炎。クロムウェル卿、あなたのいう逆賊の徒だけを燃やす便利な代物よ」

 シェリーはそう言うと、炎の中に自らの手をかざした。


 一同が驚く中、シェリーは顔色一つ変えない。

 蒼い炎はゆらゆらと揺れているだけで、かざした手には何の変化も起きなかった。


 シェリーは炎から手を離して前に差し出す。手には煤さえも付いていなかった。


「この通りよ」

 眼光鋭いクロムウェル卿の頬を一筋の汗が伝った。


「さぁ、クロムウェル卿。あなたの言う通り、あなたが逆賊の徒でないのならば、この炎に触れるはずよ。こっちに来てくれるかしら?」


「ハッタリだ! そんな炎はただのまやかしに過ぎない。どうせ何も焼くことができないのだろう!」

 先に反応したのはレーゼマイン卿だった。彼は肩を怒らせてリリアの前まで歩いてきた。


 そしてシェリーを睨みつける。


「これを触ればよいのでしょう。これに触れることができたなら、無実が証明される、それで良いのですね?」


 敬愛の欠片も無い伝法な口調にも、シェリーは冷静だった。


「触れて何も起こらなければ、ね」

 レーゼマイン卿は引きつった醜悪な笑みを見せた。

 そして指先を震わせながら、炎の中に手を突っ込んだ――同時に青い炎は一瞬で腕の肘のあたりまでを包み込んだ。

 身を焼かれる苦痛にレーゼマイン卿が耳障りな悲鳴を発した。


「リリアちゃん!」


 シェリーが鋭く呼んだ。その声がするやいなや、リリアは右手の炎を握りつぶした。

 同時にレーゼマイン卿を喰らおうとしていた炎も霧散してしまった。

 炎が消えてもレーゼマイン卿は呻き声をあげている。炎に包まれた箇所は黒く焼けただれて、辛うじて手の形を保っていた。


「自業自得だろう。アンジェリカ様の言葉を疑った者の末路だ。命があっただけも有り難く思うがいい」

 トリシアが冷たく言い放った。


「さぁ、クロムウェル卿、貴方はどうするの? 彼と同じくその身を焼かれるのを選ぶのかしら、それとも全てを白日の下に晒すのを選ぶのかしら」

 シェリーは毅然と言った。その顔は険しく、この場で起きる全てを受け止める確固たる覚悟が滲み出ていた。


 クロムウェル卿は青ざめた顔に玉のような汗を浮かべていた。

 呼吸は荒く、唇は小刻みに震えていた。

 そして目を閉じると、崩れるように膝を床に落とした。


「私は、ここに来た時点で終わっていたのか」

 床を見つめながら、ぼそりとクロムウェル卿が呟いた。


「残念よ。クロムウェル卿。とても残念よ。なぜ貴方が――」

「アンジェリカ様」

 クロムウェル卿がシェリーの言葉を遮った。


「アンジェリカ様。そこにいるレーゼマインは私の強迫に従っただけです。どうか彼と彼の縁戚に寛大な処置をお願い致します」

「そんなことを頼める立場ではないでしょう」

 斬り捨てるようにトリシアが言った。

 だがシェリーは視線でトリシアを制する。


「罪を犯した者は罪を贖ってもらうわ。だけど罪を犯して無い者まで裁くつもりはないわ」

「有り難う御座います。どうか、よしなに……」

 クロムウェル卿は額を床にこすりつけるようにして、消え入るような声を絞り出した。


 暫しの間、伏せっていたクロムウェル卿はゆっくりと身体を起こした。

 そして気力の消え失せた顔のまま、素早く腰元の短剣を抜いた。


 ライアンとトリシアは即座に反応し、シェリーの前へとその身を投げ出した。

 その二人の姿を見て、クロムウェル卿は薄く微笑んだ。


「お前達、アンジェリカ様を頼んだぞ」

 そう言うと、クロムウェル卿は自らの胸に短剣を突き立てた。

 苦悶の表情を見せるも、呻き声ひとつあげずに崩れ落ちた。

 そしてそのまま床の血だまりの中で動かなくなった。

 トリシアが駆け寄りってクロムウェル卿の身体に手を当てる。だが手遅れを告げるように無言で首を振った。


「申し訳ありません。我々が居ながら」


「謝る必要は無いわ。私にも予想できなかったのだから。でも残りの共犯者が後を追わないように監視して頂戴」


 トリシアは射殺すような視線をレーゼマイン卿に向けた。


「ふん、こいつにはそんな根性ねえよ」


 吐き棄てるようにライアンが言った。館の中に再び静寂が落ちた。

 物音があるとすれば、夜風にあおられて窓が身を震わす音だけだった。

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