魂の理由

「――ちょっと散らかっているが、まぁ入ってくれ」


 ライアンにいざなわれて入ったそこは、小ざっぱりとした部屋だった。

 リリアはきょろきょろと部屋を見渡した。

 ライアンはああ言っていたが、散らかっている風ではない。無駄な物が無くて、ともすれば殺風景にも見えた。

 ただ廃屋とは違って、人の生活の匂いが感じられる部屋だった。彼女が普段感じることのない匂いがそこかしこにあった。


「あいにく、客室ってのが無くってな。ベッドは俺のを使ってくれ」

 ベッドを軽く整えてライアンが言った。

「え? あ、あの、ライアンさんは……」

「俺はここでいい」

 ライアンは床にごろりと横になりながら恬然と言った。


「い、いえっ、わたしが床に寝ます。ここはライアンさんの部屋なのですから!」

「あー、いいから、いいから」

 ライアンはベッドに背を向けて横になり、手をひらひらさせた。


「俺は貧民街育ちだから慣れているんだよ。雨風が凌げればどこでだって寝られる。それに、命と国の恩人に、もてなしくらいさせてくれ」

 そう言われて、居心地の悪さを感じながらもリリアはベッドに腰を掛けた。よりはっきりとした人の匂いが鼻腔を擽った。


「なあ、リリア」

「は、はいっ」

「悪魔って、みんなお前みたいなのか?」

「え、ええと、わたしみたい、というのは、どういう意味なのでしょうか?」

「いや、おとぎ話とか神話とかに出てくる悪魔ってもっと恐ろしいイメージだったからなぁ。お前を見ていると未だに悪魔だって信じられなくってな」


 言葉の意図を理解したリリアは俯く。

「わ、わたしも神話やおとぎ話に出てくる悪魔は知っています。ですので、自分でも悪魔らしくないなぁって思います。でも、悪魔らしくするのってどうすればいいのかわからなくて。正直、こんなのでいいのかなぁっていつも悩んでいます。だから、こんな悪魔だから、まだ誰の魂も……」


 恥ずかしそうに語尾を濁らせたリリアの言葉で、ライアンは廃屋の前でのやり取りを思い出した。

「そういえば、まだ、魂を取ったことが無いんだったな」

 リリアは気恥ずかしげに「はい」とだけ応えた。

 その声音を聞いて、この話を進めてもいいものかとライアンは逡巡する。しかし彼には、確認しておかなければならないことがあった。


「どのくらい魂を取らなくても平気なのか? その、飢えて死んだりはしないのか?」

 ライアンは『脅威』を排除するまでの猶予が知りたかった。

「飢えて死んだりはしません。人の魂が無くても悪魔は存在できます」

 その答えにひとまず安堵した。『脅威』を打ち払うまで、魂の支払いは待ってもらえそうだ。


 そこまで考えて、ふと疑問が浮かんだ。

「じゃあ、なんで人の魂を取ろうとするんだ?」


「人になれるのです」

 予想外の答えに、思わず振り向いてリリアを見た。


「悪魔は人の魂を頂く事で人になれるのです。悪魔としてこの世に落ちた私を、面倒見てくれていた人がそう言っていました。その人は元悪魔だったらしくて、色々と教えてくれました。でも、もういませんけど」

「もういない?」

「もう、死んじゃいました。人らしく老いて、幸せそうに」

 昔を懐かしむように微笑むリリア。その笑顔は少し大人びて見えた。


「どのくらい経つんだ? 悪魔を何年やっている?」

 握った手を口に近づけて、リリアは考え込む。


「ちょっと判らないです。年とか数えていないので。あ、でも、昔この辺りに来たときは、まだあんな立派な城壁はありませんでしたね」

「はぁ? 城壁って、ここのエディンオルを囲む城壁のことか!」

「あ、はい」

 リリアは眼を丸くして応えた。


「冗談だろ。あの城壁は確かに、そこまで古くは無いが。それでも建ってから五〇年以上は経っているぞ」

 リリアは感心する素振りを見せて、少しはにかむ。


「じゃ、わたしの方がお姉さんですね」

 事も無げに言う少女の無邪気な顔とは裏腹に、ライアンの胸中に重たいものがのしかかった。どれだけ少なく見積もっても、この少女は五〇年以上も悪魔として存在している。しかもその間、成果は無しときている。更なる疑問が浮かんだ。

 ライアンは座り直して、床に膝を立てて身を乗り出した。


「どうして、人になりたいんだ?」

 その質問に、リリアは顔を伏せた。

「あ、いや、嫌なら答えなくてもいいんだ。ちょっと、気になったんだ。飢えることもなく、深い傷を負っても死ななくて、それに――」

 言いながらリリアの幼い顔立ちを見やる。

「――老いることもないんだろう? それって永遠に生きられるってことだろ? なのに、どうして人なんかに……」


「幸せだからです」

「幸せ?」

「はい。私も最初はライアンさんと同じことを考えました。でも、私の面倒を見てくれた人が言っていたのです。人は幸せだと。人の命は限りがある。そして人は皆それを知らされている。だから、必死に輝く。それは幸せなことなのだと」

「輝くことが……幸せ?」

「はい。悪魔は悪魔で有る限り、何もしなくても存在し続けることができるのです。だから、何を成し遂げても、感じても、味わっても、全ては悠久の中に埋もれていくのです」


「けどよ、人として生きるってのは、いいことばかりじゃないぞ。むしろ、嫌な事の方が多いくらいだ。輝くように生きている人なんて、ほんの一握りだぞ」

「確かにそうかもしれません。わたしも輝くってことがどういうことなのか、良くわかっていません……」

「良くわからないのに、人になりたいのか?」

「はい。なってみたいです」

「嫌なことが待っているかもしれないのにか?」

「嫌なことなら、今でもありますから……」


 悪魔の少女は苦笑いを浮かべた。その表情は酷く乾いたものだった。ライアンは胸の奥の方で歯車か何かが噛み合うような感触を得た。

「リリア、改めて約束するよ。俺の魂は必ずお前に捧げる。だから、お前は俺の代わりに輝いてくれ」


 リリアは愛想笑いのように薄く笑った。

 そして「はい」と答えながら頷いた。


********************


 気持ちの良さそうなライアンの寝息が聞こえる。どうやら床で寝るのは慣れているというのは強がりでは無かったらしい。ベッドの上でリリアはまだ寝らずにいた。


 悪魔にとって眠りは食事と同様に不要なものだった。寝ることはできるが、悪魔が寝る時は眠りが必要だからでは無く、起きておくことが必要のない時だった。

 今の時間のように人が寝てしまい何もすることが無い時に意識的に眠り朝を待つ。


 ライアンの匂いがするベッドの上で、床の上の彼の寝顔を眺める。

 ――不思議な人だ。

 悪魔である自分をこんなにも気にかけてくれる人など、今は亡き養父以外には記憶にない。人に身の上話をするなんて、おそらく初めての経験だろう。


 今まで会った人間の多くは、リリアが悪魔だということをまず信じない。だが、重器契約のような不思議な力をみせると一斉に手の平を返すのだ。

 ほとんどの人間は、リリアの強大な力に恐怖を抱いて逃げ出してしまう。中には卑しくも悪魔の力を己の欲望の為に使おうとする人間も居た。しかしそれらの人間たちも、最期はリリアから逃げ去っていった。


 自分を見る数多の人の顔を思い出す。

 それらは今日の酒場で自分たちに向けられた顔と重なる。あの時感じた居心地の悪さの理由が判った。あれらはいつも自分に向けられている顔と同じだった。言葉を発さずとも雄弁に拒絶を語る顔。

 それは、己が世界の理から切り捨てられた、存在を許されていない異物だという宣告に等しい。


 リリアはそっとベッドから降りて、床に座った。


 どうにもベッドは落ち着かないのだ。人の匂いが人の嫌な顔を思い出させる。


 リリアは寝ることにした。眠りが必要だからなのでは無い。

 頭にこびりついて剥がれない人の顔の群を消したかったのだ。

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