第2話

 寒い日の体育終わりは、着替えが一大イベントのようになる。みんな手が悴んで、制服のボタンを留めるために必要な力を指先にこめることができなくなるのだ。だけどなぜかぼくだけは、いつも通りスルスルとボタンを留めることができちゃうから、まだ制服のボタンを留められていないクラスメイトのボタンを留めてまわっていた。

「優斗〜!おれのボタンも留めてくれよ!」

「優斗、こっちも頼む!」

ボタンを留められるってだけで人気者になった気分だ。

「うん!順番に行くから、待ってて!」

普段から仲良しのりょうへいくんのボタンも、普段あまり話さない古岡くんのボタンも、ぼくの名前を呼んだみんなのボタンを順番にどんどん留めていく。みんな正義のヒーローに会ったような顔で「助かったよ」「ありがとう」と言うから、くすぐったい気持ちになった。


 ぼくが調子に乗って鼻歌を歌い出した頃、ピンポンパンポーンと校内放送のチャイムが鳴った。

「一年四組、杉野くん。杉野剣太郎くん。急いで職員室まで来てください。繰り返します。一年四組、杉野くん。杉野剣太郎くん。急いで職員室まで来てください」

校内放送を聞くために静かになった教室がまた騒がしくなるまで、そう時間はかからなかった。ケンちゃんが、職員室に呼び出されたのだ。

「す、杉野くん、とにかく早く行ったほうがいいよ!」

と誰かが叫んだ。みんな口々にそうだそうだと賛成の言葉を放った。


 その時ケンちゃんはまだ、制服のボタンを留めるのに苦戦していた。教室の端で一人で壁に向かって手の悴みと戦っていたケンちゃんは、校内放送が終了したその瞬間に、教室中の視線を一気に集めた。その視線は決して、人気者に向けられるようなものではない。悪いことをした人に向けられる、冷たくて残酷な視線だ。

「おまえ、まだボタン留められてねぇのかよ」

そう、呆れたように言ったのは吉崎くんだ。

「寒くて、うまくできんくて」

ケンちゃんは吉崎くんの方を一切見ずに言った。

「早く行かないと怒られるぞ」

「わかってるし」

「わかってるなら早くしろよ」

吉崎くんの言い方には棘がある。ケンちゃんを嫌な気持ちにさせてやろうというイジワルな考えが詰まった言葉のナイフだ。


 教室の空気は最悪で、誰も吉崎くんを止めなかったし、止められなかった。ただ、そのときのぼくは、調子に乗っていたんだ。ちょっと人より手があたたかくてボタンが留められるからって、人気者の正義のヒーローになったつもりでいたんだ。

「杉野くん、ぼくが手伝うよ」

そんな日曜の朝のスーパーヒーローみたいなセリフを言って、ぼくはケンちゃんのボタンを留めに行った。ケンちゃんは「ありがとう…ほんまにありがとう」と言いながら、ぼくがボタンをひとつひとつ留める様をまじまじと見ていた。ケンちゃんの白い指先が、寒さのせいかピンク色に変わっていた。ボタンを留め終えた後のぼくも、まだ調子に乗っていて、

「行こっか」

なんて言ってケンちゃんの右腕を掴んで廊下に飛び出した。驚いたケンちゃんが「え、なんで」と裏返った声で言ったのにも「困った人を助けるのに、理由なんていらないでしょ」って、漫画のセリフのような言葉を返した。


 名前も知らない先生に走ってはいけませんと注意されたのも聞こえないふりをして、ぼくたちは階段を駆け降りた。その時、ぼくは完全に自分のことをヒーローだと思っていたから、階段を駆け降りたのは高層ビルの屋上を飛び移っているように感じていたし、左手で掴んだケンちゃんのこともぼくが守らないといけない大切な存在に思えていた。


 職員室につくと校長先生とぼくたちの担任の先生がケンちゃんを待っていた。先生にぼくは外で待つか教室に戻るかの二択だと言われて、仕方がないからすのこの上に腰掛けて上履きのゴムを掴んで伸ばしたりして、ケンちゃんが職員室から出てくるのを待っていた。時間が経てば経つほど、さっきまでの自分の言動が恥ずかしくなってきた。なんだよ、困った人を助けるのに理由はいらないって…。耳が赤く熱くなるのを感じて、手で耳を覆った。ケンちゃんが早く出てくるのを願いながら、神さまにさっきまでの自分の言葉を取り消せないかと交渉をはじめた。


 しばらくして職員室の扉が開いた。担任の先生と一緒にケンちゃんが出てきた。ぼくはケンちゃんに何があったのか尋ねたけれど、先生に聞かないでと言われてしまった。誰も何も話さないまま、三人で階段を登って教室に向かった。階段を登っている間、ちらっとケンちゃんの顔を覗いた。その時の怒っているのか悲しんでいるのかわからない、ただ黒いだけの生きた感じのしないケンちゃんの目を、ぼくは半年くらいが経った今でも忘れることができない。

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