ケンちゃん

あんころもち

第1話

 ガタンガタンと音を立てて、自販機がサイダーを吐き出した。ぼくがそれをケンちゃんに渡すと、ケンちゃんはニヤリと白い歯を見せた。そして、ぼくたちはサイダーを振らないように慎重に慎重にジャングルジムに登った。てっぺんの棒に腰掛けたら、ぼくの目に世界の全部が映った。ここならなんだって見える。田中のおじちゃんが飼い犬のハナを散歩させてるのだって、遠くの方で五年生が野球をしてるのだって、なんだって見えるんだ。みどりいろの風がぼくとケンちゃんの前髪を持ち上げた。

「おまえ、でこ広いな」

とケンちゃん。

「ケンちゃんだって広いじゃん」

とぼくが返す。


 ケンちゃんがサイダーの蓋を開けると、サイダーはしゅうと鳴いた。ケンちゃんが「ん」とだけ言ってぼくにサイダーを差し出す。ぼくはありがとうを言ってサイダーを一口飲んだ。何味かわからない甘ったるい液体が、ぼくの口の中でぱちぱちと暴れる。サイダーが甘いくせに爽やかに感じるのは、このぱちぱちのせいなんだと思う。でもこのぱちぱちのおかげで少しだけ、痛い。ぼくはペットボトルをケンちゃんに返して、もう一度世界を見下ろした。

 大人たちは世界は広いと言ったり、狭いと言ったりする。大きいと言うこともあれば、小さいって言う時もある。大人たちによると、ぼくたち子供は世界のことをよく知らないらしい。確かにそうかもそれないと思う。ぼくは外国に行ったことがないから。英語だって、ハローとサンキューくらいしか言えない。それでも、確かにぼくたち二人は、このジャングルジムで世界の全部を見ている。


 ケンちゃんがサイダーを飲むと、ケンちゃんの喉仏が水車みたくサイダーを運ぶ動きをする。ぼくはじっとサイダーを飲むケンちゃんを見ていた。サイダーを飲むケンちゃんの姿はとても綺麗で、どこかに消えてっちゃうような気がした。ケンちゃんはケンちゃんが満足するまでサイダーを体に流し込むと「ぷはぁ」と息を漏らした。そしてしばらくして「ゲエ」とゲップをした。

「きたないなぁ」

とぼくが笑う。前言撤回。ケンちゃんはまだ消えてはしまわないだろう。


◯●◯


 一年生の三学期の始業式の日、ケンちゃんは転校生としてぼくたちの教室にやってきた。ぼくは初めてケンちゃんを見たとき、あれは人間じゃないと思った。そして

「きれい」

と、思わず口に出してしまった。隣の席のミキちゃんがぼくの言葉を聞いて「あの子、男の子だよ」と笑ったけれど、そんなことぼくにはどうだってよかった。男とか女とかの区別なんてばかばかしくなるくらいに、あのときのケンちゃんには人間離れしたきれいさがあった。担任の先生の隣にピタッと立っていたケンちゃんの頭には、確かに天使の輪っかがついていたし、一見ぼくらと同じデザインの制服を着ていたように思われたけど、あれは絶対に天の衣のはずだ。シャツは月で作られた絹でできているし、ボタンには真珠が使われている。膝よりも短い黒いズボンは、きっと八咫烏の羽で色を染めているに違いない。


 「じゃあ、杉野くん。名前を黒板に書いて、自己紹介をしてくれる?」

担任の先生がそう言って、ケンちゃんにチョークを渡した。ケンちゃんはチョークを受け取って、黒板に名前を書いた。ぼくはあまり字がきれいじゃなくてよくお母さんに怒られる。ケンちゃんの黒板に書いた字は、そんなぼくの字と互角の勝負ができるくらい、きれいじゃなかった。


すぎの けん太ろう


「杉野剣太郎です。大阪から来ました。好きな食べ物は唐揚げとハンバーグとオムライスとおにぎりで、好きな動物はハムスターです。よろしくおねがいします」

ケンちゃんが自己紹介を終えてから一秒だけ、教室が静かになった。この一秒の短い時間で、ぼくたちクラスメイトはお互いに目を合わせるだけで情報を共有することができた。

「関西弁だね」

情報共有の一秒が終わってすぐ、先生の「はいじゃあみんな、拍手ぅ〜」の合図でぼくたちは拍手をした。さっきおぼえて共有した違和感をかき消すように、みんな一生懸命に手を叩いた。

 ケンちゃんはあの時、「〜です」「〜ました」と、きちんと丁寧語を使って話していた。それでも話し方や音の強弱が、ぼくたちの耳馴染みのあるものとは違っていた。わかりやすく説明すると、テレビのお笑い芸人の人が喋っているような言葉の雰囲気がケンちゃんにはあったのだ。


 ケンちゃんに対するクラスのみんなの対応は大きく三つにわけられた。ケンちゃんの関西弁をかっこいいと言う人たち。特になにも言わない人たち。そして、バカにしてからかう人たち。ケンちゃんの関西弁をかっこいいって言ったり、なにも言わない人がほとんどだったけれど、クラスの中心の吉崎くんがケンちゃんの喋り方をわざとおかしくマネするようになってから、クラスの雰囲気がだんだんと変わっていった。


 

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