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それから2か月の間に、私は心に卑屈な嘲笑者を住まわせることに成功した。それは自己嘲笑の都度その思考回路を反転させずとも、常時私の脳内で記述される世迷言めいた考察を添削し、具体的でシャープな批判を行うある種別人格のような存在である。私は嘲笑者とともに様々な文献を読んでは二つの真逆な情報を抽出しながら、件の思考操作についての研究を続けた。それらしい情報が見つかったのは見ず知らずの遠い街に関する記録からだった。そこは中世の面影を強く残した古めかしい風貌を持った歴史ある街だったが、無差別な複数人による不自然な暴動とそれに付随する連続殺人事件をきっかけにたった1週間で消滅したという。その1週間が実在したことを示す証拠は僅かに残された数枚のメモ、日記、新聞だけに存在し、そこには人々の自我が摩耗して一つの個となるまでの観察記録や、件の思考操作や被思考操作者による虐殺から逃れる者共の間に渦巻く陰鬱とした希死念慮や他者への不信感に浸された生々しい悪夢が書き記されている。それらの中で最も核心に迫っていたのはある若い男の日記である。その男は人狼ゲームめいた悪夢の7日目、つまり街の終焉まで生き残っていたらしく、如何にして彼がX dayを迎えたのかという経緯と人間の持ちうる数多の異常をきたして歪に膨れた精神はどのように破裂して潰えるのかを確かに記していた。その日、最も恐ろしいものを見た男の顛末が雄弁に語られていたのだ。以下に一部の引用を残しておく。
「彼らが、私を呼んでいる。焦燥感を煽り、心身の疲労感からもたらされる私の絶望感を増幅させる。とうに未来は望めず、街を照らすガス灯の光は遠くまで広がる蛻の群れを煌々と照らしている。窓や壁が殴られていて酷く耳障りだ。あれは政府の陰謀でも、単なる集団ヒステリーでもなく、病気でもない。私がこの一週間に全てを賭けて行った調査が私に与えてくれた真実はただの一つだけだった。あれは、一匹の蜘蛛なのだ。人には見ることのできない、五感の外にのみ実在し、我々の思考せし知能そのものに網を張る、巨大な蜘蛛がそこにいるのだ。それに目的は無く、ただその長い命を保つ為だけに我々と、我々の常識に巣を張って住み着く。やがて、一つの生態系が丸ごとそれの住処となるだろう。糸で雁字搦めにされた知能は他の知能にも糸を擦り付け、自動的にその領域を拡張する。そうだ、今街にごった返す人の姿をした空洞の群衆はマリオネットのように操られながら、同時に一つの巨大なネットワークの中に取り込まれているのだ。そうして逃げ惑う我々を追い込む思考の漁網が完成している。この街にいる時点で、既に私は包囲網の中にいる。私は助からない、逃げられない。そもそも、戦ってはならなかったのだ。あの蜘蛛は知識人の天敵であり、考察した瞬間に我々の敗北が確定する禁忌だった。だが、愚かにも我々はそれを解明できると過信してしまった、真実は明かされるべきだと思い込んでしまったのである。ヒトにもたらされた災厄の精神病は、ネズミやカラスが起こしていた暴動よりもよっぽど悪質で、深刻なものであることは容易に予想できたはずなのだ。全て、私の至らぬ危機感と想像力が引き起こした、自業自得の悪夢なのかもしれない。だが、今でも分からないのだ。一体私はどうすれば良かった?私は」
蜘蛛と表現されたそれは、街を破壊した後に行方を眩ませた。張られた巣と共に、一切の気配を消してしまったのだ。街に溢れていたはずの被思考操作者はこの日記が書かれた次の朝にその悉くは何処かへ行ってしまい、現在も見つかっていないという。私は、これを知って安堵した。つまり、巣を張られたものがいなくなることがこの一連の現象の結末ということならば、既に私の心を蝕む悩み事は2か月前に杞憂となっていたということになる。「そもそもこんな馬鹿らしい話に約3か月もの間常に関わり続けていたということさえ杞憂だったのだ。」私の思考に居座る嘲笑者が、皮肉っぽく呟く。ああ、そうとも。そもそも初めから彼が正しかったのだ。思考操作なんて陰謀論やオカルトの域を出ない、異常者のコミュニティが私にクレームをした後、勝手に行方不明になっただけの単なるオアソビだったのだろう。私はそこへ至るまでの考察過程をノートに纏め、最後に冗談めかしくあとがきを記す。「なんと驚くべきことに思考操作は八本足だったのだ!」私はノートを封筒に入れ、編集部に送った。それから次いで編集担当の彼に電話をかけた。やはりあれは勝手な思い込み、幻覚を真に受けた者共が自分自身に洗脳をした結果であり、それから真に受けた者同士が互いに洗脳をかけ合った為に置きたのだろうと伝えた。彼は大笑いしてから、こう答えた。「そのぐらい気楽に捉えて良いと思いますよ。これで今夜からは安心して眠れますね。」私は軽く返事をして、それから久しぶりに早い時間からの眠りについた。
真っ暗闇の中で、私は目を覚ました。身体によく馴染む、少し硬いいつものベッドの上だ。酷く寝汗をかき、寝姿勢が悪かったのか右腕が痺れていた。まだ頭がぼんやりしていて、周囲の音に騒々しく感じる。喉の渇きが気になり、キッチンへ行こうと立ち上がった。外は風が強いのだろうか、壁が軋んで不安を覚える。ガタガタと窓枠が揺れ、何かが窓ガラスに叩きつけられる音がする。ゆっくりと歩いてキッチンへ向かうが、どうやらその数歩さえもしっかりと踏み込めないほどには私は寝惚けているらしい。目は暗闇に慣れていて漠然と自分のいる場所は分かっているが、万が一のことも考えて、私は電気をつけることにした。壁沿いにゆっくりと歩き、スイッチを押す。一瞬の眩しさが私の脳を完全に覚醒させる。私は思わず閉じた目をゆっくりと開けた。が、キッチンへ行くための道のりを見る前に、私の目は窓の外に移った。そういえば昨日夜の天気は安定すると言っていたのを思い出した。風は穏やかで、雨粒一つも降らないのだと。さらに言えば、私の家は山奥にある。空高くまで伸び上がった緑の屋根が私の家を降水から守ってくれるし、周囲に広がった木々が良い風よけとなるはずである。私は窓を叩くそれを、必然的に見ることになった。その光景はB級のゾンビ映画のワンシーンか、或いは大きなデモ行進。数多の腕が、群衆が、そのガラスの板を叩いていた。著名な政治家から知り合いの農家まで、老婆から少年まで、この国の人間から遠い国のファッションスタイルの人間まで、あらゆる人間が私の視界に入っていた。全員が私を見つめ、その形容しがたい色の歪んだ瞳孔を開いていた。それだけではない、窓以外の壁や天井から人の手が叩きつけられる音が何度も何度も響いた。私の暮らす安寧の小屋を、数多の人間の網が取り囲んでいる。それだけは確実だった。もはや喉の渇きなど気にならなかった。いや、もし仮にこの時水を飲もうとしても恐らく喉を通らなかっただろう。私は早急に編集部、私の担当編集者へ電話をかけた。だが、繋がらない。無気力に受話器を落としながら、私は彼の言葉を思い出していた。「これで今夜からは安心して眠れますね。」私は恐らく、いや間違いなくあの時そう聞いた。にもかかわらず私は気が抜けていたのだろう。愚かにも、その言葉をよく考察しなかったのだ。私は彼に自らの不眠について語ったことは無かった。いったい彼は、どうして私の不調を知っていたのだろうか。私は嫌な想像をして、同時にその想像は更に嫌悪すべき地獄めいた仮説へと繋がってしまった。彼がもし私の一瞬のみ想像し、そして私を守る自己嘲笑によって駆逐された推測の通り、既に件の思考操作の影響下にあったのなら、一体いつから彼は絡めとられてしまったのだろう。いや、それよりも問題視しなければならないことがある。彼は思考操作されていながら、私と会話していた。さらに杞憂かもしれないが、あの言葉の裏には私を眠らせて今のような包囲網を気づかれずに作ってしまおうという策略があるようにさえ思える。そもそも、編集部はどうしているのだろう。そういえば、私は詳しい事情を編集部から聞いていない。今にして思えば、あの大きな人事変動はあまりにも不自然だった。クレームが殺到した多忙な時期ではなく、思考操作を訴える陰謀論者共が一晩のうちに消え去ったあの平穏な時期に、何故人事変動が起こらなければならないのだろう。ふと脳裏をよぎった身の毛もよだつ絶望的な結論に私の芯が怯み、私は体の冷えと共に自らのこめかみに汗が垂れているのを感じた。そうして思い起こされた一見突拍子も無い予測が、私の身の回りに起きた出来事同士を驚くほど自然に繋ぎ合わせ、点繋ぎのペンシルパズルのように一つの巨大な蜘蛛を形作った。彼らはゾンビなどではない。一人一人が思考し、一つの目標に向かって複雑な役割分担とスケジューリングを行ない、我々が認識することのできない独立したネットワーク上で連携を行う軍隊だ。あの日記の男は奴らを蛻の群れと呼んだ。しかし、それが間違っていたのだ。奴らは空っぽのマリオネットにされたわけではなかったのだ。思うに、蜘蛛は知的生命体の思考の方向を歪め、巨大な一つの常識としてその種の思考回路に棲みつくことが出来る。洗脳でも思考操作でもない、もっと根本的なものを捻じ曲げてしまう化け物だ。だが、それがどうした?それを知って私に何ができるのだろうか。暗闇で喉の渇きを覚えていた時から、既に奴らの壁を叩く音は何倍にも増大している。知性あるゾンビ共に囲まれた襤褸小屋から今更どうやって逃げ出そうというのか。酷く煩いノイズが私の寝起きの脳の回転を妨げる。やがて外から呻きが聞こえてくる。信じろ、認めろ、肯定しろ、それがお前の助かる唯一の方法だと、沢山の人間の声で騒ぎ立てられる。と、同時にどこかの壁が破れる音がした。私は咄嗟に手にした消防斧とランタンを見下ろす。果たして私は自分の手で人を殺すことが出来るだろうか、一人一人を殺せたとしても逃げ切れるだろうか。ここは山奥だ、逃げるならばせめて追手の数を減らしたい。ふと、その場で思いついたことを試してみることにした。
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