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 私は机の脚を消防斧で叩き折り、それからランタンのグローブを叩き破った。ランタンからこぼれ出た炎を新聞紙で拾い、そのままこの小屋を燃やせるくらいにまで育つのを待ってから机の脚に火を移す。メラメラと火が大きくなり、壁に登っていくのが見える。私は窓ガラスが割れる音を合図に寝室の壁を消防斧で叩き壊し、同時に押し寄せる有象無象に松明を向けた。咄嗟に彼らは一歩下がり、私が歩みだす一歩分のスペースが生まれる。やはり彼らには知性がある。いくら狂気に侵された動物のように振舞おうと、。私は松明の火で弧を描き、彼らがゆっくりと後退していくのを確認してから前方へ走り出した。後ろでボロ小屋が崩れゆく音がするが、もはや気にならない。案外この時、この場で最も狂人に近づいていたのは私だったのかもしれない。理性ある彼らには発狂寸前であった私がまさか自分の家を燃やすとは予測できなかったのだと思う。彼らは炎と、狂気的であった私への恐怖からどんどん道を開けていく。その包囲網は驚くほど分厚いものであり、この街に暮らす全員が集まっているようにさえ思えたが、即興で作り出された松明には手も足も出なかった。私は蜘蛛の巣を焼き払うように先へ進んだ。そうして群衆の外へ抜け出した後は松明を後ろへ投げて走った。火が弱まっていた上、常に火を上に向けていないといけなかった為、走るのには不向きだったからである。後ろへ投げ捨てた松明のおかげか暫くの間は追手が来なかったが、5分もしないうちにまた奴らの呻きが聞こえてくるようになった。


 私は森の外周に沿って通る道路に出た。月明かりが暗い夜道を照らす。そこらに乗り捨てられて扉も開けっ放しの車が停まっているのが見え、私はそのうちの一つに乗り込んだ。幸い、座席に鍵が置きっぱなしだったのでそのまま発進させることに成功するが肝心な行先、つまりどこに逃げれば良いのか一切考えていなかったことに気が付いた。サイドミラーで後ろを見れば、追ってくる幾人もの異常者どもの後ろで森が赤く輝いているのが分かった。これなら隣町から消防隊が来てくれるかもしれない、私は隣町の方向へ車を走らせた。背後で窓ガラスに何かがぶつかる音がする。きっと投石されているのだろう。タイヤをパンクさせて車を止めようとしているのかもしれない。そして更にアクセルを踏み込もうとした時、酷い耳鳴りに思わず頭を押さえた。そして同時に複雑なノイズと形容しがたい色のイメージが私の脳を侵蝕しようとしていることに気が付いた。私は、あの燃え盛る小屋の中に自覚すべき自己嘲笑者を置いてきてしまったことを思い出した。私の眼前に、それが感じられた。


 決してそれを人間の物質的世界にある言葉で完全に言い表すことは出来ないが、最も近いものを挙げればまさにあの日記の男が言った通り、蜘蛛である。奇怪な形状と性質を持つ繊維状の何かを全ての認知する生命体の脳から引きのばし、八本の足に巻き付けた巨大な甲虫が計数不能数の眼と思わしき球状のそれで私を見つめているのだ。それは私の角膜に向かって、その言い難い玉虫色の糸をつけた鋭い足を突き刺そうとする。走行中の車のフロントガラスを貫通して眼前に迫る。私はその瞬間、二つの思考が重複した脳を双方向に回転させるのを感じた。一つは理解だった。我々の人生が唯一存在するオブジェクトに向けられたカメラだとして、世界はそのカメラによって確認されたテクスチャであるとすれば、この巨大な蜘蛛型の何かはそれらよりもずっとオブジェクトに近いものであり、テクスチャ世界の外側にあるものだった。カメラの向きや性質如きでは無視できない、オブジェクトの性質に干渉して直接形容できる存在だ。幽霊、怪物、陰謀、都市伝説などとは一線を画す、という理解が芽生えた。そしてもう一つは私の良く知るものだった。燃え盛る家、大きな蜘蛛と押し寄せるゾンビの如き群衆とのカーチェイス、これが現実だとすればあまりにも馬鹿らしい。突拍子が無く、まるで素人の書いた小説のようだ。百歩譲って放火も逃走劇も本物だったとして、果たして巨大なこの蜘蛛をそれらと同じ扱いすべきだろうか。前者は客観的に確認できるだろうが、後者は私しか自覚できないものだ。これを現実と言って然るべきものと言えるだろうか?疲労から来る幻覚か、或いは夢か、可変的で脆弱な視覚情報に過ぎないものである可能性だって十分にあるのだ。例の法螺吹きの言葉を信じるのも可笑しいとは思うが「個々の知性が発見したテクスチャだけが、我らにとって人生と呼べるものなのだ」とすれば、ある人物の脳が引き起こした幻覚や幻聴でさえもその人生には存在すると言えてしまう。真実を知るということは重要ではあるが、命に代えてでもすべきことではないだろう。最も、幻覚自らがお前を殺すことはあり得ないことだが。彼、嘲笑者は私の頭の中で薄ら笑いを浮かべながらそう言ってのけた。直後、眼前に迫っていた蜘蛛の脚が止まった。私はその隙にアクセルを踏んで車を加速させ、道路を埋め尽くす人の群れとの距離を伸ばすことに成功した。サイドミラーでそれを確認し、それから前に向き直った時、既に蜘蛛は消えていた。代わりに何本もの糸を同時に弾くような鈍い響きが、消えかける耳鳴りに混じって一瞬だけ聞こえたが、それは私の背筋にひやりと冷たい小さな恐怖を残した。

蜘蛛がそう言ったような気がした。

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