第7話 廃墟の村で悶着

 ナウザー大陸の東部では大国として知られるウルネシア王国。

 その西端の国境に位置するカナンは、堅牢な砦と、そこに常駐する数百の兵士相手に商売をする人々で構成される街の総称である。

 ウルネシア王国は方針として周辺国に対し融和政策を取っていることも有り、カナン砦は外敵への警戒より、関所という役割に重点がおかれている。

 そんなカナン砦に、二人の若者が運び込まれた。


「残念だが別人だ」


 カナン砦を統括する兵団長は苦々しい表情を浮かべ、吐き捨てるように言った。


「なんだと?」

「こいつらの顔を、もう一度よく確認しろよ」

「さっさと報酬の金貨1万枚をよこしやがれ!」


 二人の若者を運び込んだ一団――ウルネシア国境から離れた、西方に広がる草原に点在する開拓民団の男達は、口々に不満の声を上げた。

 彼らの言葉に従ったわけでもないが、兵団長は苦々しい表情を崩さぬままに、砦内の広場に運び込まれた二人を再度一瞥した。

 一人は金髪で、もう一人は赤毛の、どちらも年端もいかぬ若者のように見えたが、荒縄でぐるぐる巻きにされた挙げ句、元の人相が分からぬほどに暴行で腫れ上がった顔をしては、確認するしない以前の問題である。

 もっとも、一人はくすんだ金髪で、もう一人は茶色に近い赤毛であり、輝くような金髪のフィールと燃えるような赤髪のシンとは全くの別人であることは明白であった。


「もし……もし仮にだ。この二人が、であったなら、報酬どころか貴様らは一人残らず斬首だぞ。なにせ、一人は我が国の王族だからな」


 それを聞いた荒くれ者達は「え?」とか「はひ?」とかいった意味不明な声をあげ、残らず愕然とした表情を浮かべていた。


(まぁ、それ以前に貴様ら程度で、もう一人の、ゾーガの戦闘神官をどうこうできようはずもないがな)


 内心でそう呟きながら、兵団長は配下の兵士達に、男達を叩き出し、哀れな二人の若者を解放して手当てするように指示を出した。


「まったく。金に目が眩んだバカものどもが、これほどいるとは思わなんだぞ」


 執務室の座席に戻り、なかばぼやくように呟いた兵団長の前に、お茶の入った碗を置きながら副官と従卒を兼任する兵士が、なだめるような声をかけた。


「今日だけでも三件ですからね。まぁ、金貨1万枚ともなれば無理もありませんが」

「宰相閣下は足るを知る清廉な人物との評判だからな。下々の欲の深さというやつをご理解いただけておらんのだろう」


 失踪したとされるウルネシア王国の第一王子と側近の騎士に莫大な報奨金がかけられた結果、それらしい二人連れの情報が夥しい頻度で報告されており、ウルネシアの治安維持を担う部門はパンク寸前の状態であった。

 中には懸賞首か何かと勘違いした手合いによって、先ほどの気の毒な若者達のように乱暴な手段で捕らえられてくるケースも珍しくは無かったのである。


「あの二人は、まだしも運が良かったのかもしれませんね。中には生首を持ってこられた、などと言う事例もあるそうですし」


 慨嘆するように言う副官の声を聞き、兵団長は低く呻いた。



 こうした混乱はフィールをよく知るウルネシア国内では皆無に近かったが、通達を出された周辺国、さらには、その通達を転送された他の国々などでは著しいものがあった。

 むろん、ウルネシア側も正しい通知の敷衍に務めたのだが、人の噂とは変節するものであり、結果として少なからぬ悲劇がもたらされたのである。

 また、こうした事態を受けて幾度となく繰り返された正しい情報を知らせる為の努力は、後にさらなる混乱を及ぼすこととなる。

 出奔した王族の存在をウルネシアが公式に認めたことで、その王族、つまり、フィールになりすまして金品を詐取するなどの犯罪を行う輩が数多く現れたのだ。


 ――これらの悲劇や犯罪によって、後世における世界各地で〈闇の魔王子〉フィールの名が災禍と同義に語られることに繋がっていくのだが、この時代におけるウルネシアの人々にとっては、フィールは未だに〈光の聖王子〉であり、その側近たる〈雷戦士〉シンも人望のある英雄だ。

 カナン砦の兵団長以下の兵士達や、その街で生活を営む民も、敬愛する王子と忠実な騎士の行方を心から案じていたのである。


「それにしても、捜索隊の規模も千を超えるというのに、王子の行方について一向に手がかりすら得られぬとはな」


 溜息交じりに言う兵団長に、副官も似たような声音で応じた。


「噂では宰相閣下の子飼い……月光とか言う連中まで動員されているそうですが」

「まぁ、我らとしては役目を果たすまでだな」


 そう言うと、兵団長は再び溜息をつき、山と積まれた書類に視線を向けた。

 それらはフィール王子の行方に関して、カナン砦方面での目撃情報が記された報告書である。


「これでも、私と部下で、ある程度は精査しております」


 言い訳がましくいう副官に黙って頷きながら、兵団長はそれらの報告書に目を通し始めた。

 先にも述べた通り、フィールとシンらしい二人連れの情報は夥しい頻度で報告されており、中には愚にもつかぬ内容も含まれている。

 従って、責任ある立場の人間が目を通す前段階で、情報のふるい落としがなされているのだが、それでもこの分量なのだ。

 兵団長は三度みたびの溜息をついたが、それでも最重要と指定された案件を片付けるべく、徹夜を覚悟しながら次々と報告書に目を通していく。

 ただ、ふるい落とされた報告書の中には、マント姿の赤い髪の美女が、もう一人の人物と共に国境から西へと続く険しい山道を通っていったという、ある猟師の目撃情報があったのだが……むろん、彼には知るよしも無かったのである。



             ◇



 マントの前をしっかりと閉じて、挑発的な服装を隠している赤い髪の美女――シンにとって、じつに意外だったのは、女体化した為に劣化したと思えた身体能力についてだった。

 たしかに瞬発力こそ落ちたものの、持久力の方は、むしろ向上していたのだ。

 そして、それは金髪の美少女となった主君も同様であるらしい。

 王宮での生活においては、もっぱら読書三昧であった筈のフィールが、現役の兵士ですら音を上げるであろう険しい山道を、苦も無く歩き続け、さほど疲れもみせていない。

 露出が多い……どころでは無い格好なので、鋭い葉を持つ下生えなどは回避しなければならないが、マントとして羽織っている、呪文がぎっしりと書かれた分厚い布の効果で、虫や蛭、蛇の類いが寄ってこないのはともかく、登山の類いに相応しいとは言えないサンダルを履いた綺麗な足で、道なき道をひょいひょいと進んでいくのは異常なまでの強靱さと言えた。


「まぁ、『ヒンズースクワット』みたいな激しい動きや、けっこう『アクロバティック』な体位もあったからなぁ。たぶん、その影響かな」


 その疑問を口にした時の、フィールの応えがこれである。

 意味不明な単語はともかくとして、何かを(嬉しそうに)思い出すような風情であったことも含めて、あまり深く尋ねない方が良いと察したシンは、二人の体が変化した段階で、身体能力が向上するような魔法的な作用があったのだろうと心の中で結論づけた。

 どちらにせよ、これまでの鍛錬で身につけた剣技のいくつかは再調整が必要のようだった。


「それはそうと。我々はどこに向かっているのですか?」


 話題を変える意味もあって、シンは道行きを主導している金髪の主君に尋ねた。

 ウルネシアの西に位置するシェレク王国を目指しているのは明らかだったが、どうやらフィールは特定の場所を目指しているように思えたのだ。


「妖魔の一つが存在する……とおぼしき場所だよ」


 フィールの回答はあっさりとした口調だが、その内容は、じつは深刻極まりないものであった。


妖魔デモンですと!?」


 遙かな過去において、神々が顕現し邪悪な存在と戦ったとされる神話の時代。

 現存する魔物は、そうした時代に異界から召喚され、この世界に居残ったもの、あるいは、その子孫とされており、多くの魔物は、言ってみれば魔力を持つ猛獣というシロモノだが、中には知性を持つ存在もいる。

 妖魔デモンとは、そうした知性をもった魔物の総称だ。

 知性を持っている分通常の魔物よりも危険で、フィールとシンの旅の目的であるところの〈賢者の鏡〉の逸話においても、それは明らかである。

 従って最優先で討伐すべき対象とされているのだが、それを聞いた赤い髪の美女が示した反応は、小首を傾げる、というものだった。


「おかしいですね。もし妖魔がいるというのなら〈剣の騎士団〉が動員されている筈ですが……」


 剣に象徴され、雷にも喩えられる軍神ゾーガを奉じるゾーガ神殿。

 そのゾーガ神殿が擁する〈剣の騎士団〉は、遙かな過去――神々の時代において、ゾーガの加護の元に魔物の軍勢に対峙した武力集団の子孫達と言われている。

 創世神ナウザーに敵対する邪悪な存在を討ち、世界の秩序を維持するとされるゾーガに倣い、異界からの魔物を討伐する事を目的とする、極めて強力な騎士団だ。

 通常の騎馬ではなく、飛龍や走龍といった龍種を移動手段としている為、龍騎とも呼称される彼らは、魔物の情報を得るや、その機動力を発揮して速やかに討伐する、まさに世界の守護者と目されている。

 後世においては、ソルタニア聖皇国や神殿都市アゾナの後ろ盾によって〈冒険者〉と呼ばれる魔物退治を専門とする武力集団が現れることとなるのだが、この時代、その役割を担っているのは〈剣の騎士団〉なのだ。

 国家間の、つまりは人間同士の争いには関与しない方針を貫いていることから、大陸各国からの警戒や干渉を寄せ付けない、中立的で独立した武装組織でもある。

 むろん、ゾーガの戦闘神官――雷戦士たるシンも無関係ではありえず、むしろ〈剣の騎士団〉においては将軍のような立場にある。

 事実、シンは二年前に〈剣の騎士団〉を率いて九つの頭を持った巨大な妖蛇を討伐し、その勇名をナウザー大陸全土に轟かせていた。

 その功績があればこそ、ゾーガ神殿から、シンはフィールの側近に専念することを許されていたのだ。

 厳密には、シンの武勲が大きすぎた為、他の雷戦士とのバランスを取る意味で、しばらくゾーガ神殿から離れることとなったのであるが。

 とはいえ、伝令などによる連絡は密に行っており、最近までの〈剣の騎士団〉の動向は把握している。

 そして、シェレク王国方面に〈剣の騎士団〉が派遣された、もしくは、その予兆があるなどという連絡は受けていないのだ。


「いや、以前、風土病の調査で各地からの情報を集めた時に目にしたものだからね。十年以上前の噂とかだったかな」


 当時は詳細がまったく不明であった風土病の原因を調べるため、言い伝えや迷信の類いまでかき集めたわけであるが、その中に含まれていたもののようだ。

 そのフィールの言葉に、シンの疑問は瞬時に氷解した。

 極めて強力で優れた機動力を誇る〈剣の騎士団〉と言えども、おのずと限界というものはある。

 動員にあたっては、少なくとも明らかな被害が報告されるか、その可能性が大きいという確証が必要だ。

 あるいは、人目につかず蠢動する魔物を放置することになるやもしれないが、これは仕方のないことであろう。

 さて、最初の疑問は解けたところで、当然、次の疑問がわき起こる。

 そのような、あやふやな伝聞であるにも関わらず、それでもなお、王子がそこを目指す理由だ。


「まぁ、ハズレならそれに越したことはない。滅多に人が足を踏み入れない場所だけど、万が一にも妖魔がいるかどうか、この目で確認しないわけにはいかないよ。どのみち、当面の目的地であるアゾナやスラティナとは同じ方向だしね」


 そんなフィールの言葉を聞いて、シンは、ある違和感を覚えつつも、なるほどとうなずいた。

 仮に妖魔がいるのなら、猟師や樵などが遭遇する可能性もあるのだ。

 その、国家を超えても民草を思いやる気持ちに感動すら覚えていた。

 思えばシンの母親が命を落とす原因になった風土病の根絶。

 そこから派生した『定期検診』なる制度の創設。

 オーランド公に功績を奪われる形になるであろう綿花の成長促進法も、結果としては市井の民へ恩恵をもたらすものであった。


(そう、そうなのだ。この方こそ真の王族といえる)


 女体への並外れた嗜好さえなければ……と、シンは主君が玉座にあれば実現していたであろう諸々の可能性を心から惜しんだ。

 もっとも、その並外れっぷりが、想定を遙かに超えていたことを思い知るのは、もう少し後のことである。



             ◇



 シェレク王国に点在する宿場町の一つであるカリペは、いくつかの小さな街道が交差する場所柄もあって、そこそこ賑わっている場所だ。

 そのカリペの、とある居酒屋。

 多くの酔客や女給がざわめく店内の隅で、三人の男が酒瓶と各々の碗のみが置かれてたテーブルを囲んでいた。


「宰相閣下から状況を報告せよとのお達しだが……首尾はどうだ?」


 その中の、やや年かさとみられる、軍人のような雰囲気の男の言葉に、問いかけられた若い男が軽く肩をすくめた。


「お手上げです。うちの猟犬や鴉が総出で探しても見つける事ができません。一応、想定の範囲を広げてもみたんですがね」


 仲間から〈獣使い〉と呼ばれる特殊技能を持った若者からの応えに、年かさの男は腕を組んで唸った。


「そうなると……山道を辿っているということになるな。雷戦士のシンはともかく、王族がそんな経路を使うとは思わなかったが」

「野性の獣の縄張りじゃあ、うちのだと厳しいですぜ」


 たしかに〈獣使い〉が意思を通わせることができる犬や鴉は探索に特化しており、他の獣との争いになれば、あっさりと命を落としてしまうだろう。

 それらは貴重な手駒であり、無理を強いるわけにはいかなかった。


「頭領の方はどうです? 王子の魔力……ええと、その固有波動とかいうやつを手がかりに追うってことで、あちこちの魔導士に渡りをつけたと聞きましたが」


 その〈獣使い〉の問いに、頭領と呼ばれた年かさの男は無精髭に覆われた顎をさすって唸るように応えた。


「王子の持ち出した魔封じの宝玉というやつが結構厄介なシロモノらしい。一種の結界をもたらす為、ある程度の距離に近づかねば王子の魔力を察知するのは難しいという話だった。さすがはフィール王子と言うべきだな」


 ウルネシア宰相が個人で契約している相手であり、隠密活動を専門とする集団〈月光〉を束ねる年かさの男は、そう言って深い息をつき、気を取り直した様子で、そのテーブルについた三人目の人物に、やや丁寧な口調で問いかけた。


「クロノス先生のお考えはいかがです?」


 先生とよばれたのは、こんな場所には不釣り合いな、眼鏡をかけた学者のような男だった。

 事実、その右手首には、学問や知識を司る智神アクアスの使徒であることを示す神紋が刻まれている。

 アクアスの使徒は、一般には学術府の研究職か、宮廷の文官になることが多いのだが、中には「実践での探求こそ学問を極める道である」と主張して、突拍子も無い職につく変わり者が存在する。

 このクロノスという人物も、隠密集団〈月光〉の参謀、もしくは相談役という、智神の使徒らしからぬ立場にあり、その鋭い分析と推論は、確度の高い予知としての充分な実績を積み重ねていた。


「頭領の言われるとおり、山道を辿っていることは間違い無いかな。まさか王族が……という凡人の発想の上を行くあたり、我々が奉じるアクアスの寵愛を受けたとの評判に違わぬ人物だねぇ、フィール王子は」


 アクアスの使徒は、懐から取り出した巻物をテーブルに広げながら言った。


「しかし、僕もアクアスの加護を受ける身なれば、負けてはいられないな」


 それはウルネシア西部とシェレク国境付近を描いた地図だった。


「草原地帯のカナンを含む平野部は〈獣使い〉殿が探索済み。北側の山岳は断崖の続く獣も通れぬ地形。となると……いや、山菜取りや狩人も立ち入らぬ場所を選ぶだろうから……」


 ブツブツと呟いていたクロノスは、ある山腹の一点を指さした。


「ここかな」


 それを見た頭領が眉をひそめた。


「そこは?」

「十年以上前に廃棄された開拓民の村跡があるんだよ。記録では井戸もあり、家屋は石造りだから朽ちていたとしても数日は身を休めることができるはずだ」

「開拓民? だとしても、ずいぶんと山奥につくったものですな。人里との往来も厳しいでしょうに」

「このあたりでミスリル銀の欠片が見つかり、鉱脈があるのでは……ということだったらしいね。正しくは開拓民を装った調査団の村だったわけだが。結局は大した成果が上げられず、廃棄されたと言われている」


 そこまで言ったクロノスの口元が、一瞬、微かな笑みを浮かべたように見えた。


「もっとも別の噂もあってだね。何でもミスリル銀に惹かれた妖魔が棲みついたので放棄された、とかいう話だよ」

妖魔デモン!?」

「まぁ、〈剣の騎士団〉の派遣を要請しなかったことを考えると、シェレク宮廷が調査の失敗を糊塗する為に虚言をふりまいた可能性が大きいかな」

「ふむ」


 クロノスの説明を聞いた頭領はひとつ頷くと、〈獣使い〉の方を向いた。


「先生の言う村跡で待ち伏せする。鳩を使って招集を……」

「いや、こちらから人手を出す必要はないさ。確度は高いと自負しているが、あくまでも推論だしね」


 テーブルの上の地図を再び巻物に戻しながら、クロノスは言った。


「ただ、さいわいにして王子達には多額の賞金がかけられている。噂を流すだけで充分以上の人数が勝手に集まるだろうね」


 はたして。

 それから数日を経ずして、大がかりな山狩りが始まった。

 シェレクの国境一帯で、1万枚の金貨に目が眩んだ男達が、列をなして開拓民の村があったという山腹を目指すという、圧巻とも言える光景が繰り広げられていたのだった。

 万が一の可能性を考慮し、また公平を期す為にと、噂として流された情報の中には妖魔デモンに遭遇する危険性を示唆しているのだが、山狩りに参加した男達は歯牙にもかけていないようだった。

 ただ、ひとつには、その妖魔デモンが、あまり著名では無い種族ということも要因であったかもしれない。



             ◇



 クロノスが仕掛けた、金銭欲にまみれた人々の大掛かりな包囲網を知るよしも無いフィールとシンは、日が高いうちに、ようやく開拓民が居たという村の廃墟に辿り着き、その中でも比較的に原型を留めている建屋の一つに腰を落ち着けた。


「ここに妖魔デモンがいるのですか? ふむ、微かな気配があるようですが……」

「まぁ、出てくるとすると、逢魔が時……いや、あの特性から言うと、人々が寝静まった頃合いだろうね」


 そして、フィールが告げた妖魔の種族名を聞いて、シンは軽く首を傾げた。


「耳慣れない種族ですね」


 ゾーガの戦闘神官たるシンは、妖魔や魔物と戦うことが使命であるわけだが、その実態や種族に関して、さほど詳しいわけではない。

 もっとも、この世に害をなす存在であるならば、物理的に強固なゴーレムであれ、実体の無い悪霊であれ、軍神ゾーガの顕現である〈厳之霊いかづちの剣〉で切り伏せてしまえば済む話なので、そうした知識は不要ということもある。

 中には無垢の赤子に憑依することで、いわば人質をとるような真似をする狡知な妖魔もいたのだが、〈厳之霊いかづちの剣〉の霊力は赤子に傷一つつけることなく、中に潜む妖魔だけを撃滅したとされる。

 要するに、いかな悪辣な知謀を巡らせようとも、力押しで何とかしてしまえるのが、ゾーガの戦闘神官である雷戦士と言う存在なのだ。


「まぁ、無敵と言うわけではありませんがね。こちらを上回る力量の相手であれば、不覚をとることもあるでしょう」

「何というか、脳筋の極みに見えるけど……いや、害悪のみを選択して撃滅するところは、その武威に比べれば、むしろ高い制御力があると言うべきかな」


 金髪の美しい少女は呆れとも感心ともつかぬ声音で呟いた。


「まぁ、いい。それで、そいつの主な能力だが……“惑わし”の類いかな」

「ふむ」


 シンは瞑目して考え込んだ。

 むろん、いかな恐ろしげな幻影を見せられても怯むものではないが――例えば、いたいけな幼児の姿を見せられては剣先が鈍るかもしれない。

 無垢な赤子に憑依した妖魔を斃した逸話は、シンの先達である〈銀腕の雷戦士〉ことオットーのものであって、シン自身がその立場にあったなら間違い無く躊躇し、その結果として被害は大きくなったであろう。


『いいかい、若いの』


 オットーの教え諭す声が脳裏に浮かぶ。


『お前は優しい。優しすぎる。そりゃあ、邪悪から弱き民を護る雷戦士としては必要な資質なんだけどな。それだけじゃ、充分とは言えないぜ』


 師と仰いだ先達は、つよさを持て、と言った。


『単純な力とか技だけじゃない、心のつよさだ。自分の正しさ、自分の信念を貫けるつよさだ』

『だが独善になるな。ちゃんと周りに留意しろ。眼で見るんじゃない。感じろ。常に自分の正しさを疑え』

『無理、無茶を言ってる? だがな、俺達、雷戦士ってのは、そこを何とかする存在なんだよ』

『幾度となく火に入れられ、叩かれる。良い剣てのはな、そうやってできるもんさ』


 その言葉通りに自身の体は無論、心をも鍛えたのであろう。

 シンの記憶にあるオットーは、懐の大きさと柔軟さを備えつつ、いかなる状況でも揺るがぬ何かを感じさせる存在であった。

 一方の赤い髪の美女は、大きさと柔軟性を備え、いかなる状況でも、たゆんたゆんと揺れる胸元を得たわけだが、とりあえず、その事実は念頭から消し去る。


(そうだ。未熟な自分だが、なればこそ鍛えねば)


 シンは改めて覚悟を決めた。

 オットーの『眼で見るんじゃない、感じろ』と言った言葉を再度思い出す。


(妖魔が、いかな幻影を見ても惑うな)

(いや、そうじゃない。そもそも妖魔に先手を許すな)

(そうだ。この地に潜む邪悪を感じ取れ)


 懐かしい追憶からくる感情のままに、敵意、殺意はむろん、僅かな害意をも察知すべく、シンは神経を巡らせた。

 その途端、凄まじい圧力の視線を察知し、刮目した雷戦士は……瞬時にして脱力した。

 無論、視線の主はフィールだった。

 厚手の布をまとった金髪の美しい少女が、その翡翠の瞳を輝かせている。

 美しい花か、夜空の星々を見つめるような風情の視線の先は、考え込んだときに思わず腕組みした赤い髪の美女の、その行為の結果として余計に強調されることになった、はち切れんばかりな胸元だった。

 シンは慌てて体の向きを変え、その豊かすぎる胸を王子の視界から外した。

 腰から下は、金髪の主君と同じ封印の呪文が書かれた分厚い布を巻き付けていたので、覗かれる心配は無いと油断したのが失敗だった、とシンは反省した。

 とはいえ、敵意とも殺意とも害意とも次元の異なる、女体への欲望の視線というものにどう対応したらいいものか。

 言うまでも無いことだが、追憶の中のオットーは何も応えることは無かった。


 どのみち、これでは妖魔を察知することはできないと諦めたシンは、廃屋であった現在の居場所を一通り眺め、気分を切り替えることにした。

 石を積んで漆喰で固めただけの小屋だったものは、フィール王子の変化の魔法によって、アダマンタイトで覆われた、ちょっとした要塞になっている。

 たとえドラゴンやタイタンといった上級の魔物であっても、これを攻略することは恐ろしく手こずるに違いない。

 いわんや、フィールの言う妖魔では、先手をとって仕掛けてきても、小揺るぎもしないだろう。

 一方で内装は家具一つすらないが、壁も床も柔らかな素材に変化して、ソファやベッドの類いが無くとも充分な居住性があり、持ち込んだ食糧や飲料水の量を考えれば、ある程度の籠城戦も可能だろう。

 実を言えば、ここに至る間も木の枝を組み合わせた簡易な天幕を変化させることで、それなりの居住空間を造って夜を過ごしていた為、体力的にも問題無い。

 雨に打たれ、風に吹かれるといった、過酷な野宿の旅を覚悟をしていたシンとしては、拍子抜けする思いではある。


(まぁ、いい。ともあれ、妖魔が出てくるのを待つとするか)


 王子の言う通り、“惑わし”の力を振るう妖魔であるなら、攻撃力や防御力はさほどでもない筈だ。

 おそらく〈厳之霊いかづちの剣〉の一振りで瞬殺であろう。


(しかし、問題は……)


 そこまで思考を進めた赤い髪の美女は、最初に感じた違和感――ずっと抱きつつも、いやな予感がして、あまり明らかにしたくないと思っていた疑問を、いよいよ金髪の主君に問うことにした。


「ところで王子」

「ん?」

「私の思い違いでなければですが。その、王子は妖魔が出るのを、何というか、楽しみにしているように見受けられるのですが……」


 そう。

 この妖魔が存在するという廃墟の村に向かう途上も、そして今も。

 美しい少女の姿をした金髪の王子は、ずっと上機嫌だったのだ。

 それは、過日、ナギ神殿における巫女の『沐浴』を覗きに行く準備をしていた、あの時を思わせるものだった。


「そりゃそうさ」


 金髪の少女は、思わずつられて微笑みたくなるような幸福そうな表情を、その美貌に浮かべ、そして鈴を振るような声で言った。


「いよいよ、あの、妖魔サキュバスを拝めるんだ。くくく、たまらんなぁ」


 フィールが再び口にしたのは、で男を誘惑する女淫魔の名だった。

 

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