第6話 魔物退治で悶着
ヘブロが息を呑んだのは、魔物の所在を聞かされたばかりではないようだった。
幼い少年の視線の先で、フィールの瞳が不気味に金色の輝きを放っている。
透視の魔法を行使している証しだったが、初めて見る者には、それこそ魔物めいた印象を与えるものであった。
それに気づいて、赤い髪の美女が安心させるように話しかける。
「驚く事は無い。この方は魔導士でもあらせられる。透視の魔法をお使いになっているところだ」
「魔導士? 魔法使いなんですか」
幼い少年は、今度は別の驚きで目を丸くした。
魔法の存在自体は一般に知られていても、ことウルネシアにあっては、魔導士は滅多にいない。
ヘブロは興味津々で尋ねた。
「どんな魔法が使えるんですか?」
「透視と隠蔽と……まぁ、どちらかというと地味な魔法ばかりだね」
実演をせがまれても困るので、フィールはいくつかを省くことにした。
まぁ、確かに派手な攻性魔法などは修得していないので、事実には違いない。
「ま、それよりも、今は魔物だ。この先に魔力の塊を感じる。たぶん、魔物本体だと思うよ。だけど、どうも静かな感じだなぁ」
透視の魔法を行使しているわりには、フィールの言葉は曖昧なものだったが、それを聞いたシンは心得たようにうなずいていた。
異界からやってきた魔物の中には、透視や検索系の魔法が通じにくい種類もいる。
中には実体の無い、即ち、剣が通じない厄介極まり無い存在もあるが、この先に潜む魔物はそうした悪霊系とは異なるようだった。
もっとも、ゾーガ神の戦闘神官たるシンが携える〈
ただし、〈
現に秩序を守る戦いの中で、その命を散らしたゾーガの戦闘神官は幾人もいる。
その主たるゾーガは剣の神であって、敵を討つには加護を与えるが、決して守護を与える存在では無い。
だが、彼らは、自身に課せられた〈剣の義務〉に応じて戦いに赴いたのであり、シンもその義務からは逃れようなどとは露ほども考えてはいない。
「では、行きましょう」
「あ、ちょっと待って」
決意と共に魔物退治に赴こうとする赤い髪の美女を、金髪の主君は引き留めた。
そして、ここまでいっしょにきた少年に向かって、その美しい手を差し出した。
「その剣を少し貸してもらえるかな」
ヘブロは言われるままに、自宅から持ってきたナマクラな剣を鞘ごと差し出した。
その剣を抜き、刀身を見て、金髪の少女は一つうなずいた。
「やはり、拵えは変えてあるけど、元々は近衛騎士が持つ剣だね。ただ、わざとかな。刃が潰してある。多分、騎士の身分を捨てる時に、君のお父さんが自分でやったんだろう」
おそらく愛用の剣だったのだろう。
何もかもを捨てるつもりだったが、手放せない思い入れもあり、せめて刃を潰す事で所持し続けたのかもしれない。
ヘブロは父親が何を思って、この剣を大事にしまっていたか、とうとう聞くことができなかった。
「ところで、君に聞きたいのだけど」
剣を見ていたフィールが、真正面からヘブロを見つめた。
その美しい顔には慣れると言う事が無く、少年は眩しそうに、自分に対峙する年上の少女を見返した。
「この先、成人の儀を迎えた後でもいいけど……君はお父さんのように近衛騎士になるつもりはあるかい?」
その言葉に少年は少し考え、そして大きくうなずいた。
「父さんは剣を捨てませんでした。身分は騎士では無くなったのかもしれませんけど、たぶん、心は騎士で有り続けたんだと思います。だから、ぼくも、それに倣うつもりです」
「君を見ていると、君のお父さんがいかに立派な人物だったかがよくわかるよ」
金髪の少女は微笑んで言った。
そして、同意の笑みを浮かべていた傍らの側近に確認を取る。
「シン。確か、ぼくにはその権利があった筈だな」
「はい。ゾーガの神託を受けた為、私自身はその資格を失いましたが、王子の側近を近衛騎士とするとの国王陛下の宣旨が取り消されたと言う話は聞いておりません」
「よろしい」
フィールはひとつうなずくと、鞘を赤い髪の美女に預け、右手に持ったその剣を高く掲げた。
そして、左手の指先で空中に何かの紋様を描く。
次の瞬間、魔導の素養など皆無のヘブロにも感じられる、桁外れに膨大な魔力が動いた。
その魔力が、フィールの掲げた剣に働きかけ、剣の刀身が全く異質のものに換わる。
伝説級と言って良いレベルの「変化の魔法」だった。
「オ……オリハルコン?」
シンもさすがに息を呑む。
ウルネシア王宮の宝物庫に小さな欠片だけが密かに安置されている、古代に失われた超技術でしか作り得ない伝説の金属。
ゾーガ神殿にも一本だけ、そのオリハルコンで造られた剣が有り、これがゾーガ神の象徴ともされている。
フィールが手にする剣の輝きは、一度だけ目にした、そのオリハルコンと全く同じであった。
「残念だけど、少し違うかな。ま、組成と特質は似ている筈だけどね」
そして、目を丸くしている少年に向き直った。
「そこにひざまずいて」
言われるままに少年がひざまずくと、フィールは少年の肩に、その剣の平たい部分、いわゆる剣背を置いた。
「我、ウルネシア王家の長子として、この少年を側近となす。また、この少年が長じて騎士たらんと欲すならば、近衛騎士として取り立てるものである」
「雷戦士シン。我が主神たるゾーガの名の元に、その証人たることを宣言します」
少し変則的ではあるが、ヘブロにはこれが騎士の叙勲の儀式だとわかった。
わからないのは、ウルネシア王家の人間だと言う「少女」が、何故に布切れ一枚の格好でいるかと言う事と、女人禁制を謳われるゾーガ神殿の神官、その最高峰である雷戦士の称号を、なんでこの「美女」が名乗る事ができるかである。
しかし、この二人が嘘をついたり、からかったりしている訳では、決して無いと言う事は何となくわかった。
「ええと……」
叙勲の際には、宣誓を行うものだと言う知識はあったが、この場合、どのように言ったものかわからずに口ごもる少年に、フィールは笑いながら声をかけた。
「ああ、今はいいよ。本当に近衛騎士になる時に、改めて宣誓すればいいさ」
そして、側近から鞘を受け取ると手にした剣を納め、もう一度何かの魔法をかけたようであった。
「申し訳ないけど、これはしばらく封印させてもらうよ。君が成人の儀を迎える時、この封印は解ける。だから、その時に考えが変わらなければ、この剣を持ってウルネシア王宮に行くといい。ぼくの「証」をいっしょに封じてあるから、この剣を見せれば君がぼくの側近にして、近衛騎士たる資格がある事が分かるはずだ」
「え……と、「証」って?」
「んー、なんと言ったらいいかな。『残留思念』と言うのが一番近いんだけど」
意味不明の言葉が出てきて、ヘブロは余計に頭を悩ませたようだったが、ともかく、この剣が何らかの証明になる事だけは何とか理解した様子だった。
そこまでを見て取ったフィールは、最後に念を押した。
「いいかい。君のお父さんの仇は必ず取る。だから、君はここまでだ」
「そ、そんな」
「君はぼくの側近となったんだ。命令に従ってもらうよ。それとも、ぼくの側近でいるのはいやかな?」
そう言って小首を傾げて、フィールは覗き込むように、ヘブロに顔を近づけた。
信じられないような美しい顔を間近で見せられては、この少年に抗う術は無かった。
おずおずと頷くのを見て、金髪の少女は最後に微笑みを浮かべると、きびすを返して、そのまま森の奥、魔物のいる方向に向かって歩き出した。
シンもそれに続こうとして、ヘブロに別れを告げる。
「では、達者でな。魔物を仕留めたら勝ち鬨を上げて知らせる」
「あ、あの……」
幼い少年が顔を真っ赤にして、何かを訴えるような表情で赤い髪の美女を見上げた。
何か頼みがあるのを察して、彼女が優しい表情で促すと、ヘブロはおずおずと、その頼みを口にした。
「あの……ハグしてもらえますか」
少し意外な願いであったが、金髪の主のような他意はなさそうである。
身をかがめ、優しく少年の身体に腕を回すと、少年もぎゅっと抱きついてきた。
「……母さん」
小さな、本当に小さな少年の囁きは、折から吹いた風の音に紛れて、赤い髪の美女に届くことはなかったのである。
◇
いつまでも見送るように佇む少年の姿は、歩みを進めて行くうちに森の木々に隠れて見えなくなった。
「良い子でしたな。可能であれば連れて行きたいところでしたが」
シンがそう言った途端、フィールが露骨に顔をしかめた。
「冗談じゃ無い。女の子ならまだしも、男の子じゃ御免こうむる」
「え?」
赤い髪の美女は、眼が点になった。
「え? ええ?」
いっしょに寝たり、近衛騎士になる段取りをつけたりと、この主君も気に入っているように見えたので、呆気にとられてしまった。
そんな側近に構わず、フィールは別の事を口にした。
「アニエス姉さんを覚えている?」
「は、はい」
面食らいながらも、シンはうなずいた。
アニエスはフィールの乳母をしていたシンの母親の、その姉の娘、つまり、シンの従姉である。
幼い頃に、よく、シンやフィールの相手をしてくれた綺麗な少女だった。
たしか、シンが十歳になる前に、駆け落ちして行方しれずになったと聞いている。
今のシンの容貌は、少し、そのアニエスと言う娘に似ているかもしれない。
「あのヘブロと言う少年は、アニエス姉さんの子供だよ。最初に見たとき、もしかして、と思ったんで、一晩かけて検知の魔法で『遺伝子解析』したから間違い無い」
幼い少年とは言え、この王子が男の子と添い寝するなど珍しいと思われたが、身体を接することで何かを探っていたようだ。
主君の言葉について行けず、シンは眼を白黒させて、そして、ひとつ、深呼吸して落ち着こうとした。
「つまり、あの少年は私の従甥に当たる、と、そういうわけですか。確か、従姉殿は恋仲の騎士と駆け落ちしたと聞きましたが」
「恋仲の騎士……か。うん、立派な騎士だったんだろうね。恋人の忘れ形見とは言え、血の繋がりの無い子供を、あそこまで育て上げたんだから」
「はい?」
「あの子の父親は、わが不肖の叔父上さ。これも『遺伝子解析』した結果だよ」
シンが決闘を申し込んだ事もある王弟は、確かに女と見れば見境無く手を出す人物との評判であった。
「たぶん、当時、叔父上がアニエス姉さんを手籠めにしたんだろうね。その後、身篭もったと分かったんで、今度は面倒事にならないように密かに殺そうとした。それで、恋仲だった騎士は姉さんを連れて、こんな辺境まで来て……」
フィールは、最後まで言わずにため息をついた。
だが、それを聞いたシンはため息で済ませられるものではなかった。
激昂の言葉が整った唇からほとばしる。
「おのれ! 許せぬ。これからでも、あの首を叩き斬ってやる」
「叔父上が幽閉されている砦はこことちょうど正反対の東側国境だよ。それに、お前はあの決闘騒ぎの時、剣気で心をへし折っているじゃないか。今更、生きる屍を斬ってもしょうがないよ。むしろ、あのまま生きてもらった方が刑罰としてはふさわしいさ」
フィールはのんびりとした声で猛る側近を宥めた。
「罪滅ぼしになるかどうかはわからないけど、近衛騎士への道筋はつけたし、後はあの子次第だね。大丈夫。しっかりしているようだから、育ての親に似た立派な騎士になるさ」
「王子はそうでしょうが、私も何かしてやらねば」
「血のせいかな。あの少年が、お前に見いだしているのは、抱かれたことも無い母親の面影のようだけど。いや、お前が望むなら、無理に止めないよ」
「う……」
幼い子供への慈愛心に溢れたシンだが、さすがに母親役は難しかった。
仮にシンが望んだとしても、四六時中、このような格好で居続けなければならない状況では、さすがに近衛騎士の母親は無理がある。
加えて、それが元男だと知れたら。
諦めたように息をつく側近を力づけるように、フィールが言う。
「お前が出来ることは、あの少年の敵討ちさ。それが、この地域に住む人々の安全を守る事でもある」
「確かに。この上は、魔物を退治して、あの少年への
二人が進んでいくと、やがて、フィールが察知した場所にきた。
森の中で、そこだけが荒れたように地面が剥き出しになっており、そこに散らばるのは夥しい数の骨だ。
ほとんどは、何か小さな動物の骨らしいが、それらに混じって、人間のものと思しきものもある。
そして、その中央に、禍々しい存在がいた。
腐肉を思わせる色合いの、やはり樹木と言えば良いだろうか。
ねじくれた太い幹から、やはりねじくれた枝が生えていた。
葉は一枚もないが、枝のそこここに血の色を思わせる果実のようなものがぶら下がっている。
辺り一帯に漂う濃密で甘い香りは、その果実から放たれているようでもあった。
その魔物を金色に輝く瞳で観察したフィールは、自分の見立てを口にした。
「ふ~ん。こう言っちゃなんだけど、魔物がいるわりには被害が少ないと思っていたら、植物系か。道理で静かな気配だと思った。たぶん、あの果実みたいなやつの匂いで獲物を引き寄せ捕食しているのかな。自分では動かないから、あの少年の父親は運が悪かったか、そこで骨になっている人を助けようとしたんだろうね」
「動かぬとあれば、こちらから赴くまでです」
そう言って、シンは呪文が描かれた厚手の布を脱ぎ、背中の剣を抜いた。
それは剣と言うよりも、その形状をした板と言うべきであっただろうか。
表面にびっしりと何かの紋様が刻まれている。
〈
赤い髪の美女が捧げるように両手で振りかぶると、一面に刻まれたゾーガの神呪を示す紋様が輝きを放ち始め、そして光の刃を形成する。
眼も耳も持たぬ筈の魔物は、それでも何かを感じ取ったのか、そのねじくれた枝をざわりとうごめかせた。
シンの後ろで、フィールも動きの邪魔にならぬように呪文入りの布を取り、輝くような裸身を露わにする。
そして、何かの魔法を発動しようと両手で印を結びかけ、ふと、思いついたようにその手を止めた。
どういうわけか、魔法の行使をやめて、少し様子を見ようとしているふうでもあった。
そんな主君の動きには気づきもせず、赤い髪の美女は、滑るような足の運びで、慎重に近づいていった。
引き締められた美貌に、不意に何かに気づいたような表情が浮かぶ。
それと同時に、引き締まった形の良い脚の、その足下の地面が割れ、夥しい数の触手が現れた。
剣の使い手にとって、下からの攻撃は一番厄介である。
そもそも、そういう攻撃を想定した剣技と言う物は、まず存在しない。
長い刃物を振り回して足元を攻撃するともなれば、下手をすれば自分の足を切ってしまう。
それゆえ、下からの攻撃は足運びで躱すと言う事になるが、しかし、地面一体が触手で埋め尽くされてはそれどころでは無い。
「くっ」
ゾーガの戦闘神官は、あっさりと捕らえられ、行動の自由を奪われた。
毒々しい紫色の、表面を何かの粘液で覆った触手が赤い髪の美女の手足を縛り、その豊かな胸や、剥き出しの太腿の上を這い回る。
「ふーむ。根毛が変化したもの、というところかな。何にせよ、やはり、女体に触手はよく似合うな」
フィールがうんうんとうなずいている。
どうも、この触手の群れを察知していながら、眼前の光景を見るために黙っていたらしい。
「アホですか、あんたは!」
シンは泣きたくなるような思いで叫んだ。
主君の性格は知悉していたつもりだが、ここまで節操が無いとは想定外である。
「いや、そういうつもりは無い……ことも無いんだけど、この魔物はどうにも見づらいので、根の様子を知るために犠牲になってもらったんだ」
生まれたままの姿をさらしている金髪の美少女は、もっともらしい事を言いながら、再び、その瞳を金色に輝かせた。
「ふむ。水脈がこうで、根の形がこうか。そうすると……」
なにやらブツブツと呟いているが、その間にも、赤い髪の美女には危機が迫っていた。
形の良い足が大きく広げられ、下着をつけていない色々な部分を露わにされる。
そして、特別に大きな、凶悪な形状をした触手が、ゆっくりとその部分に近づいて行く。
南方の河川に済む肉食性のウナギの一種は、獲物となった動物の肛門から進入して、柔らかい内蔵から貪り食う獰猛な性質で知られるが、この魔物も同様の捕食形態をもっているようだった。
凶悪な形状の触手が、その部分に触れようとする寸前。
フィールが膨大な魔力を行使したのが分かった。
と同時に、蠢いていた触手の群れは、一斉にその動きを止めた。
「この魔物が根を伸ばしていた水脈の一部を『除草剤』と『枯葉剤』に変換してやった。やはり、迷惑な
環境に優しい魔法使いなフィールだった。
そして、ひょいと顔を上げると、初めて側近が危機一髪の状況にあった事に気がついたようだ。
「あ、タイミングが少し早かったかな」
美しい唇が、そう呟くのをしっかりと聞いたシンは「後で説教してやる!」と、心に誓ったのだった。
ともあれ、触手の力が段々弱まっていくのがわかる。
もうすぐ、この縛めをふりほどく事も可能だろう。
その前にひとつだけ言っておく事があった。
「お、王子。み、見ないで下さい!」
精悍な印象を与える美貌を真っ赤に染めて側近の騎士は叫んだ。
彼女の、未だに足を広げられ、露わになった部分を、フィールが凝視しているとあっては当然であろう。
だが、そう叫びつつも「無駄」と言う言葉が本人の脳裏に浮かぶ。
果たして、金髪の主君の応えはこうだった。
「大丈夫。不公平の無いように、お前にも後でじっくりと見せてやる」
何を、とは聞くまでも無い。
少女の、美しく輝く瞳の奥底に、いやらしい中年男にも似た粘着質な光を感じた気がして、赤い髪の美女は嫌悪に身を震わせた。
それだけでもたまったものではないが、金髪の主君は現在の観察状況、及び、差異について嬉しそうに語り始めたのである。
その声音は、鈴を振るような、と言う形容が相応しい美しく清らかなものだったが、その内容が聞いている方が恥ずかしくていたたまれなくなる露骨な描写とあっては、平然と聞いていられるほど彼女の神経は太くなかった。
(説教は通常の三倍にしてやる!)
羞恥と怒りが活力を与えたのか、あるいは触手の力が弱まってきたのか、赤い髪の美女の手足がじりじりと動き出す。
「うん、そろそろ、魔物もおしまいだね」
灰色に変わり始めた触手の群れを見ながら、フィールは一人でうなずいていた。
結局、この魔物退治においてはゾーガの戦闘神官は良いところが無く、この女体化した王子の魔導があっさりと片付けてしまった事になる。
「まぁ、せっかくの機会だし、このさい、もう少し近くで見ようかな」
自分の視覚的欲望に、単純なまでに忠実な金髪の少女は、肌を晒したままの姿で、枯死しかけてぴくりとも動かない触手をかき分けて近づいてきた。
いや、視覚的、と言うだけでは済まなそうだった。
「ついでに、学術的な見地からの検証も必要かな。魔導によって女体化した部分の感覚はどうなっているか。自分では試したけど、こういうものは複数の検体から立証しなくては意味が無いし」
学者のような言いまわしだが、その内容はただの変態である。
さすがにシンはキレかけ、近づいてくる王子を睨みつけた。
「王子、いい加減にしませんと、本気で怒りますよ」
現在の格好はともかくとして、その眼光はゾーガ神の戦闘神官に相応しい、迫力のあるものだった。
だが、涼しい顔のフィールが口にした言葉で、それは狼狽へと変わってしまった。
「わが忠誠に疑いあらば、この身を全て検められよ。五臓でも六腑でもお望みのものをお目にかけ、二心無きことを示しましょう」
あの山荘でシンが誓った言葉である。
「確かに聞いたぞ。それを局所的に履行してもらうだけだが?」
「え? いや、たしかに、それは……」
「まさか、雷戦士ともあろう者が口にした言葉を撤回するか? では、あの少年の叙勲における証人の宣誓も無効となるな」
ぐうの音もでない。
こうなれば、と、シンは渾身の力を振り絞って、片手から離さなかった〈
そして、ありったけの闘気を、その刀身に注ぎ込む。
切り札でもあり、次に使えるようになるまで一両日の時間を必要とする技だが、現在、自分を捕らえている魔物の触手と、泣きたくなるような話ながら、その次に伸びてくる主君の魔の手から、自分の貞操(?)を護る為にはやむを得なかった。
さすがにフィールも慌てたような声をあげた。
「わ、ちょっと、待て」
雷戦士の剣に刻まれたゾーガの神呪が発動し、刃を形成していた光が四方八方へと放たれた。
秩序を司る軍神にして、剣の神の顕現は、その威力に反して驚くべき精密さでシン自身やフィールには傷一つつけず、魔物の触手や枝をズタズタに切り裂いた。
触手によって宙に浮かされた身体が解放され、落ちるところを鮮やかに着地する……はずだったが、シンはずるりと足を滑らせた。
危うく顔面を強打するところを、反射的に肘と膝をついて免れる。
「な、なんだ?」
辺り一面に濃密な甘い香りを漂わせる、どろどろしたものが溢れかえっている。
フィールもそれに足を取られ、大の字にひっくり返ってしまっていた。
「魔物の果実の中身だね。こんなものが詰まっていたんだ」
あちらこちらに砕け落ちた血の色をした果実を見ながら、フィールが呆れたように言った。
「蜜、と言う事になるのかな。それにしても凄い粘性だ。身動きもできない」
フィールの言葉を聞いたシンも、肘から先と膝から下が全く動かせない状況を確認し、焦ったような表情を浮かべた。
「む、くっ。確かに凄まじいまでの粘着力ですな。これはまずい……ひゃっ」
肘と膝をつき、ちょうど四つん這いのような格好になっていた赤い髪の美女が小さな悲鳴を上げた。
その高く掲げられ、捲れ上がった短衣から剥き出しになった臀部に、とろとろと滴り落ちるものがある。
首をねじ曲げて見上げると、未だに残っている枝にひときわ大きな果実がぶら下がっており、光の刃で切り裂かれたそこから、蜜のようなものが落ちてくるのが見えた。
位置的に、ちょうど彼女の尾てい骨辺りの真上なので、その滴りを尻の割れ目で受け止める格好だ。
「お、王子、変化の魔法で何とかなりませんか」
「この格好じゃ印を結んだり、陣を描いたりが出来ないからなぁ」
大の字になったまま身動きもできないようで、少女も困った様子だった。
「助けを呼ぶしか方法が無い」
そうは言っても、こんな山奥では人などいる筈も無い。
いや、一人だけ、ここから遠くない場所にいる筈であった。
「あの少年に助けを求めましょう」
「この格好でかい? いや、ぼくは構わないけど」
仰向けに大の字になった全裸の美少女と、腰から下を剥き出しにして高々と掲げている四つん這いの美女。
さすがに、年端もいかない少年に見せるには問題があり過ぎる光景だった。
「それに、彼が来てもどうしようも無いと思うよ。いっしょにこの蜜に捕らえられて終わりさ」
フィールの言葉の正しさをシンは認めた。
ヘブロを呼ぶ事は、少年の生命と――倫理感を危険に晒す行為には違いない。
しかし、このままでは、二人ともあちらこちらに散らばる骨の仲間入りは確実だった。
「ぬう、さすがは異界の魔物と言うべきか。最後の最後にこんな罠を……ひぃっ」
赤い髪の美女が、再び、妙に可愛らしい悲鳴を上げた。
それを聞いたフィールが訝しげに尋ねる。
「どうした?」
「あ……ああ、は、入ってくる。あっちにも、ひ……あそこにも」
切羽詰まったような口調で窮状を訴えてくる。
どうやら、彼女の逞しい割れ目を伝わり落ちる蜜が、色々と口外できない部分に進入しているようだ。
「う~ん、麻痺作用もあるのか。ますます厄介だな。それはそれとして、この位置からじゃ見えないな。ちぇっ」
女体化した王子は、こういう状況でも言動にぶれが無いと言うべきか、一貫して節操が無いと言うべきか。
その節操の無い、美しい少女が何かに気づいたような表情で、そちらを見た。
ほどなくして、彼女が顔を向けた茂みから、みゃう、みゃうと鳴き声を上げて小さな獣がわらわらと出てきた。
一見して、子猫のような可愛らしい獣である。
それらの獣たちは、辺り一面を覆う蜜に群がり、舌を出して舐め始めた。
「ははぁ、あの骨は、こいつらの仲間だったようだな。この魔物が蜜を与えて、その代わり、いくつかを捕食する『共生関係』というところか」
「うくっ、うう、き、危険はありませんか?」
何かを必死で堪えるような表情で赤い髪の美女が尋ねる。
「散らばっている骨を見る限り、こいつらに鋭い牙は無いようだね。大丈夫、果実や花の蜜を舐める温和な獣だ。ふむ、子猫のようでもあるから、舐め猫、とでも言えば良いのかな。王国図書の書物には記載が無かったから、遠方から来た種かもしれないな。ともかく、こいつらが蜜を舐め取ってくれれば、ぼくたちも解放される。やれやれ、どうやら助かった」
安堵の息をつく金髪の王子だった。
一方の側近の騎士も、同じく安堵はしたが、今はそれどころでは無い。
「は、早くしてくれ。このままでは……」
その願いを聞き届けたように、一匹の「舐め猫」が粘着力のある蜜の上をすたすたと歩いて、四つん這いのまま身動きの取れない赤い髪の美女の方へと近づいて行く。
どうやら、肉球から分泌される油のようなものが、蜜の粘着力を緩和しているようだ。
そして、彼女が必死で力を込めている部位に流れる蜜を、長い舌を出して舐め取った。
その瞬間、精悍な美貌の戦士は、声にならない悲鳴を上げた。
「いぃいいいいいっっっっっ」
当然の事ではあるが、そこの蜜を舐め取ると言う事は、諸々の部分も舐めると言う事である。
「うっ、ううっ。待て、ちょっと待て。バ、バカ、止めろ」
むろん、その「舐め猫」は本能のままに蜜を舐めているだけなので、その蜜が地面を覆っていようが、別のモノを覆っていようが全く関係ない。
満足げに、みゃう、と鳴くと、巨大な果実から際限なく滴り落ちる蜜を一心不乱に舐め始めた。
やがて、周囲の蜜を舐め取った仲間も、新鮮な蜜を求めて参加してきた。
中には、舌をつきだして、入り込んでしまった蜜をこそげ取るように舐める者もいる。
「お、お、王子、た、助け……ひぃいいいいっ」
赤い髪の美女は、金髪の主君に助けを求めようとするが、しかし、事情はフィールも同じである。
大の字になって身動きの取れない少女も、ざらついた舌で全身を舐められていた。
◇
父と暮らした小屋に、今でも飾られている母の絵姿にどことなく似た、精悍で美しい年上の女性。
行ってしまった彼女が約束した勝利を叫ぶ声。
それを一心に待っていた少年の耳に聞こえたのは、凄まじい悲鳴だった。
「ま、魔物にやられているんだ。助けにいかなくちゃ」
ヘブロは悲鳴が聞こえる方向に走り出そうとした。
だが、彼の足はその意に反して、ぴくりとも動かない。
彼には知る術もないが、それは、フィールが張った結界によるものだった。
だが、少年は、それを自分が恐怖で竦んでいるものと勘違いした。
「ど、どうして。どうしてなんだよ。助けにいかなくちゃいけないのに。動け。動け、動け、動いてよ」
焦燥に駆られる少年の耳に、間断無く聞こえてくる悲鳴。
それは、明らかにあの精悍な美女が助けを求める声だった。
もっとも、切羽詰まった悲鳴ではあるものの、しかし、断末魔のものとは少し異なる響きがある。
だが、幼い少年には、そんな違いなど分からない。
よく耳をすませば、「あうっ、そこは駄目」とか「ひぃいい、そこはもっと駄目ぇ」などという言葉も聞こえた筈だが、焦る少年はそれどころではなかったようだ。
結界に阻まれている事も知らず、必死で足を進めようとする。
永劫に続くかと思われた、助けを求める女の声が、一際大きな悲鳴を後に、ふつりと聞こえなくなった。
「あ、ああ……」
少年の眼から涙が溢れてくる。
とうとう、何もできなかった。
その思いに胸を掻き毟り、少年は慟哭した。
何も知らずに。
だが、彼が全ての事実を知ったならば。
この純粋で素直な少年は、あるいは、グレてしまったかもしれない。
◇
ようやく、四肢の自由を取り戻した筈だが、今度は腰に力が入らずに立ち上がる事もできない。
側近ほどではないが、それでも声を抑える事ができない状態が続いた為、のどもすっかり枯れている感じだ。
「う~む。女体とは、かくも敏感なものか。いや、勉強になった」
それでもそんな事を口走る辺り、この節操の無い王子は強靱な神経の持ち主と言えた。
肌に纏わり付いていた魔物の蜜はすっかりと拭われており、それどころか、いっそうに艶やかさを増しているようだ。
「ひょっとしたら画期的な美容法として売れるかもしれないな。おっと、それどころじゃなかった」
フィールは、忠実な側近がさすがに心配になって、ようやくに身体を起こす。
あの小さな獣たちは満足したのか、一匹残らず姿を消していた。
残っているのは魔物の残骸と、犠牲になった者の骨。
その中に、フィール同様に蜜の罠から解放された赤い髪の美女が横たわっている。
均整の取れた長身が、時折けいれんするように、ひくひくと動く。
短衣がまくれあがった部分は未だに凄いことになっている。
だが、節操無しの王子と言えども、さすがに賢者モードになっているのか、フィールは短衣の裾を降ろし、拾ってきた呪文入りの布で身なりを整えてやる。
そして、自分の分の布を纏うと、彼女の顔を覗き込んだ。
精悍な印象を与える美貌だが、寝顔は意外に幼い感じがする。
その頬を軽く叩くと、シンはうっすらと眼を開けた。
「王子?」
「気がついたか」
赤い髪の美女はだるそうに身体を起こすと、不思議そうに辺りを見回した。
「ここは? 山荘にいたはずでは……」
どうも、記憶が飛んでいるようだ。
「気分はどうだ」
「なんだか、すごく疲れているんですが、妙にさっぱりとした気分です。それと、天国と地獄が交互に来たような覚えがあるのですが……いったい、何があったんです?」
「いや、覚えていなければ良いんだ」
フィールがそう言うと、側近の美女は軽く睨むような視線を向けてきた。
「また、何かの魔法実験に私を使いましたね」
「いや、そういうわけでは……」
「まぁ、良いでしょう。私は王子に忠誠を誓った身ですから、他の人間に迷惑をかけるよりはマシです」
いつのまにか鞘に収まっている〈
「さて、行きましょうか」
記憶は失っているが、無意識のうちに、この場所を離れたがっているようだった。
フィールは軽く肩を竦めると、側近の後を追うように足を進めた。
金髪の王子と側近の騎士は、こうして生まれ育った国を旅立って行った。
◇
後日談として。
少年ヘブロは、傷心から立ち直り、成人の儀を迎えた時にフィール王子の証たる剣により、ウルネシア王国の近衛騎士となった。
だが、その後、ふとした事から自分の出自を知った彼は、母の仇とも言えるウルネシア王家に反逆の狼煙を上げた。
この時、ヘブロの心中で、あの山奥での出会いや出来事が、どのような影響を与えたのかは、余人には窺い知ることはできない。
ただ、彼が兵を起こす際に、全く躊躇しなかった事実だけは確かと伝えられる。
不本意ながらも王家の血を引き、伝説級の剣を掲げた彼の内乱は十年以上に及び、東方の大国が再建を果たすには、更に多くの年月を必要とした。
それらの顛末は記録が散逸してしまい、後世の人々が真実を知ることは無い。
しかし、そもそもの始まりに刻まれたフィールの名は歴史に残る事となった。
後世、世界に大いなる災禍をもたらしたと言われ、禁忌と畏怖の念と共に〈闇の魔王子〉と呼ばれるフィールの伝説に、故郷を内乱に導いた反逆者との記述があるのは、このような経緯だったのである。
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