第5話 山奥の森で悶着

 例えば、難解な魔導法式を考えている人物が居たとしよう。

 この場合、相応の知識を持つ魔道士でもない一般人にはその内容は理解できない。

 しかし、それは内容を理解できないだけであって、何を考えているのかと言う括りでは、結果はおのずと明らかだろう。


 では、何を考えているかわからない、と言う場合。

 これに当てはまる人物は、まず、何も考えていない。

 シンはごねる主君を説得しながら、しみじみとそう痛感した。


「ですから、そういう場合ではないでしょう」

「止めても無駄だぞ。ぼくは行く」


 その主君は、確かに何も考えていないように思われた。

 この状況下で、当初の目的を果たす事を真っ先に主張したのだから。


「そもそもだ。初志を貫徹せずしては、ウルネシア男児たるものの恥だとは思わないのか」


 フィール王子はきっぱりと言い切った。

 形の良い胸やら、くびれた腰やら、艶やかなお尻やら、淡い茂みに覆われた秘部やらを丸出しにした美少女の姿で。

 シンとしては無理を承知で、男児としての恥より女性としての恥じらいを求めたいところである。


 確かに現在の身体は女性なのだから、ナギ神殿の沐浴場に入る事それ自体は何とかなるだろう。

 しかし、その神殿関係者専用区域に入り込む事が厄介きわまりない話である。

 そもそも一般に開放されている区域に入るにしても、こんな毛布のようなものを被ったままでは怪しまれて、通報を受けた衛士が駆けつけてくる事は明らかだ。

 だからと言って、この封印の呪文入りの分厚い布を脱いだ格好を人目に晒すのも問題だ。

 現在の「彼女シン」にしてからが、扇情的な、それこそ娼婦か酒場の踊り子のような服装である。

 このような姿で夜の色街以外の場所を出歩けるほど、首都ラーラルルネの風紀は無原則に寛容では無い。

 それが首飾り以外に何も身につけていない少女であれば、どんな騒動になるかは容易に想像がつく。

 忠誠の対象である主君に、これらの事実を根気よく言って聞かせ、説得し、宥めすかしているうちに、気がつけばとんでもない事を口にしてしまっていた。


「そこまで言われては、お前の言を入れぬわけにもいかないな」


 金髪の主君はそう言うと、今の今までごねていたのが嘘のような態度になった。

 一方のシンは一種の思考停止状態になり、自分の言葉を反芻した。


「わが忠誠に疑いあらば、この身を全て検められよ。五臓でも六腑でもお望みのものをお目にかけ、二心無きことを示しましょう」


 これは、古代の王に謀叛の疑いをかけられた将軍が、その潔白を証明する為に言った言葉と伝えられている。

 そして、その将軍が躊躇いも無く自身の胸に剣を当てるのを見た王が、それを押し止め、将軍の潔白を信じたという説話で、吟遊詩人が語る、広く知られている演目のひとつだ。

 先の台詞は、この時代にあって、武人が主君に讒言する場合によく使われる言い回しでもある。

 もっとも、原本のままでは過激なきらいがある為、もう少し婉曲にした表現や物言いで、この時代における王族とその騎士と言う主従関係でのやり取りの中で使われることは、さほど珍しくも無い。

 だが、赤い髪の美女の豊かな胸や腰に向けられる、フィールの期待に満ちた視線を鑑みるに、あるいは、取り返しのつかない言葉を口にしてしまったのかもしれない。

 シンは困惑と焦りのままに言葉を重ねようとした。


「あ、あの、ですね。そうは言っても……」

「わかっているよ。まずは、首都ラーラルルネを出る算段が先だ。行先をスラティナにするにしろ、アゾナにするにしろ、宰相が国外に出ようとするぼくを放置するとは思えない。」


 フィールはしれっと言った。

 何も考えていないどころか、艶かしい美女となった側近から何かしらの言質を取るのが目的だったようだ。


(こ、この王子は……)


 亡き母から後事を託されていなければ、とシンが思うのはこんな時である。

 だが、ゾーガの戦闘神官として、武人として、何より息子として、母の今際のきわで〈剣の誓い〉を立てたのだ。

 身体が女になったからといって反故にできるものではない。

 あるいは、王子の実態がこんなだと知っていたら、母はそんな頼みはしなかっただろうか。

 だが、母も前王妃に願いを託されたわけで、そもそも、王子の実態がどうであっても母にとっては実の子供よりも大事な忘れ形見であったわけだから、おそらく、結果は同じだったかもしれない。

 運命と思って諦めるしかなさそうだ。

 机の上に広げた地図を見て何事かを考え始めた王子の様子を眺めながら、いいようのない疲労感を覚えて、シンは柔らかな長椅子に埋もれるように深く沈み込んだ。

 むろん、すらりと伸びた形の良い足の間に〈厳之霊いかづちの剣〉を挟む事も忘れない。

 さすがに王子の歪んだ魔力も、ゾーガ神の顕現である雷戦士の剣を弾き飛ばすわけにはいかないようだ。


「ちぇっ」


 王子が小さく舌打ちをしたようだが気にしない。

 睡眠時間は十分の筈だが、精神的疲労は癒されないようだった。

 先ほどのような問答を始めとしたあれやこれやで、この主君に振り回されっぱなしときてはなおさらである。

 窓の外を見ると、昨夜の嵐が嘘のような穏やかな朝の光景が見える。


 現在、フィールとシンの居るこの山荘は、ウルネシア王族が万が一に備えて用意した、緊急時における避難拠点のひとつだった。

 主に国外へ落ち延びる経路に設けられたもので、王族の女性や幼い年齢の者が一夜を過ごす事を想定して作られている。

 第一離宮からこの山荘までの逃避行は、じつのところ、容易いと言ってよかった。

 王宮には、やはり、万が一の事態に備えた緊急避難用の地下道が設けられている。

 むろん、その存在は厳重に秘匿されているのだが、第一離宮からこの山荘に至る地下道は秘匿の度が過ぎて、現在では誰も知らない状況となっていたものだ。

 フィール王子が透視の魔法を修得していなければ、おそらくは、この先も使われる事はなかっただろう。

 この山荘自体にも同じ事が言える。

 忘れられ、放置されたままであったが、保存の魔道具が仕掛けられていた為、荒廃を免れていたのは幸いだった。

 元々王族以外には知らされない隠れ処のひとつであって、王子が張り巡らした隠蔽の魔法もあって、まず、しばらくの間は安全な場所だと思われた。


(安全?)


 シンは不意におかしくなった。

 別に外敵の侵攻を受けたわけでも逆賊が反乱を起こしたわけでもなく、ウルネシアは平穏そのものである。

 そんな国内にあって、王位継承権を失ったとは言え第一王子とその側近が、身の安全を図る必要がどこにあるだろう。

 女体化した事実に動揺したこともあって、書置きを残して地下道から逃げ出してしまったわけであるが、もう少しやりようはなかったのか。

 自分にそう問うてみるが、やはり、他に方法はなかったようだ。


 昨夜、アクラムから知らされたのは、あらゆる化生の真実の姿を映し、本性を顕現化させると言う〈賢者の鏡〉についてだった。

 その昔、ある国の王を殺し、その姿に身を変えて残虐な振舞を欲しいままにしたと言う妖魔の説話。

 その中で妖魔を退治するくだりで登場する、わりと人口に膾炙されたものである。

 この説話は、一般には作者不詳の作り話と思われているが、アクラムによれば、じつはいくつかの史実を基にされたものであるらしかった。


「説話で語られる〈賢者の鏡〉そのままのものが存在するとは限りませんが、その基となった何かが必ずある筈ですじゃ」


 若かりし時にナウザー大陸全土を旅して、各地で古文書や伝承を見聞したと言うアクラムの言葉には説得力があった。

 その知見の広さを買われてフィール王子の導師に選ばれたとも聞いている。

 だが、若き日のアクラムが見たと言う古文書も、その当時の保存状態を鑑みるに、今となっては失われている可能性が大きい。

 アクラムにしてからが、覚え書きをひっくり返して、色々と調べるまでは、すっかりと忘れていた話であった。

 だが、スラティナ、もしくはアゾナであれば、そうした文献や手がかりになる記録が残っている筈である。

 マズィルの老魔導士は、そう語ったのだ。


 そうした経緯で、スラティナかアゾナへ、即ち、ウルネシア国外へ二人だけで密かに旅立つ事を決めた。

 事情を明らかにして、ウルネシア国家の協力を得ると言う選択肢は、最初から念頭に無い。

 かの伝説に謳われた錬金術師と同等の魔法を操るフィール王子を、あの宰相あたりがどのように遇するかは、火を見るより明らかであった。

 何よりも、女体化した……だけでは無く、下着も穿けない、じつにあられもない恰好となった今の自分の姿を見知った人々に晒す事は、少なくともシンにとっては耐えられない話であった。

 とりわけ、ゾーガ神殿への巡礼の旅を共にした、いわば同期の騎士仲間にこの事実を知られれば――恥辱だけで死ねる。


「ん~、そうかな? 眼福と喜ばれると思うけどな」


 金髪の主君は全く見解を異にするようだが、色々な意味で、論外と言う言葉の生きた見本とも言うべき存在なので、まともに相手をするだけ時間の無駄である。

 もっとも、フィール王子も、現在の自分の立場について多少の自覚はあるのか、ウルネシアを出奔する事自体に異論は無いようだった。

 実験の失敗によって歪められた魔法を解き、本当の姿を取り戻す為の探索の旅。

 それは主従二人だけの、困難極まる冒険の始まりでもあるわけだが、しかし、このまま黙って行方をくらますと言うのはさすがにまずいと言う考えもあった。

 あるいは、何者かに誘拐されたと見なされ、大騒ぎになる可能性もある。

 そんな理由でフィール王子にしたためてもらった書置きを残したのだが……


『本当の自分を見つけてきます。探さないで下さい』


 間違ってはいないが、こちらの意志が正しく伝わった文面だっただろうかと、シンは未だに悩んでいた。



             ◇



 水が跳ねる音が聞こえ、驚いたヘブロは手にしていた剣の鞘をいっそう強く握り締めた。

 剣と言ってもろくに切れもしないナマクラではあったが、この十歳にもならない少年にとっては唯一の武器である。


(ま、魔物か?)


 つい、腰が引けそうになるが、自分が村から二日をかけてこんな山奥まで来たのは、その魔物を退治する為であったことを思い出し、とにかく音の正体を探ろうと足音を忍ばせてゆっくりと歩く。

 少年の背丈ほどの雑草に身を隠しながら進んでいくと、やがて泉が見えてきた。


(わ!)


 ヘブロはあやうく、声を出しそうになるのを危うく堪えた。

 そこには一糸纏わぬ姿で、泉に半身を浸した一人の娘がいた。

 年齢の頃は、ヘブロよりも七つほども上……成人の儀を済ませたばかりのようで、娘というよりは未だに少女の範疇にあるようにも見受けられる。

 透き通るような白い肌に、輝くような金髪の、今までに見たこともないほどに美しい少女だった。

 二年前に村の娘たちが近くを流れる川で水浴びをするのをこっそりと覗いた経験があるが、それとは雲泥の差である。


(綺麗だな)


 野卑な思いをもって見ては罰があたりそうな神々しいまでの裸身、そして信じられないほどに美しい顔立ち。

 精霊が姿を現したか、聖なる御使いが天から降りてきたものか。

 ヘブロは我も忘れて、その少女に見入ってしまっていた。


 不意に、その美しい顔がこちらの方を向く。

 と同時に翡翠のような瞳が、一瞬、金色に輝いたようにも見えた。


「誰? 誰かいるの?」


 ヘブロは慌てて茂みに身を隠した。

 村の娘たちを覗いていたのが見つかった時の、思い出したくもない記憶が脳裏に浮かぶ。

 だが、少女はまっすぐにこちらへと向かってきた。

 泉から上がり、その裸身から水を滴らせながら恐れるふうもなく、ヘブロの隠れている茂みに近づく。


「こんなところで何をしているの?」


 その美しい顔に優しげな笑みを浮かべて、少女は茂みの向こうから少年を見下ろしていた。


「あ、あの、その……ご、ごめんなさい」


 ヘブロは真っ赤になって俯くと、真っ先に謝った。

 二年前には魔が差したわけではあるが、元々が素直な少年であり、若い女性がそのような恰好でいるところを覗いたりするのは悪いことだと、そう自覚するくらいの分別はあった。

 だが、少女から返ってきた言葉は意外なものだった。


「謝る事はないよ。男子たるもの、当然のことだからね」

「はい?」


 予想もしなかった言葉に驚いて俯いた顔を上げると、その少女は茂みをかき分けてヘブロの前に現れるところだった。

 何も隠さない、その生まれたままの恰好で。

 挙句の果てに。


「さ、思う存分に見るが良い」


 と、両手と両足を広げた恰好で、きっぱりと言い切った。

 その次の瞬間。


「いたいけな子供に、何を見せてくれているんですかぁぁああ!」


 唐突に現れた赤い髪の美女が、少女の後頭部を張り倒していた。

 ヘブロはもちろん腰を抜かした。



             ◇



 シンは主君に手を上げた事を悪びれるふうもなく、フィールを睨み据えて言った。


「正座!」


 激怒している赤い髪の美女に逆らえるはずもなく、金髪の少女は痛む後頭部を押さえながらおとなしく正座した。

 そして、何事かを言いかけたが、赤い髪の美女はそれを許さなかった。

 まだ幼い少年には目の毒とばかりに、その視界を遮るような位置に仁王立ちのようなスタンスで立つと、腰に両手を当てて上体を少女に傾け、つまり、怒気をはらんだ野性的な美貌をフィールに近づけた格好で主君を叱り始めた。


「いい加減にして下さい!」

「いや、その……」

「言い訳は聞きたくありません!」

「あの、そうじゃなくて……」

「いいですか。王子の趣味や性癖を今更どうこうは言いません。ご自分だけで楽しむのであれば、それはそれで結構。まぁ、百歩譲って私を巻き込むのも、そこまでは良いでしょう。――いや、決して良くはないのですが、私は王子の側近ですから諦めもしましょう。ですが、それ以外の、しかも年端もいかぬ子供まで巻き込む事は許しません」


 シンは武人としてはむしろ穏やかと言うか、はっきり言えば甘いところがある方であったが、弱い立場の者に権力を振りかざして不正を働く事と、階級は問わず幼い子供を傷つける事については別人のように厳格になった。

 女子供までを手にかけた盗賊は躊躇いも無く鏖殺したし、王弟にあたる人物の馬車が平民の子供を轢き殺しながら、そのまま素知らぬふりで済ませようとした時にはゾーガ神の戦闘神官としての立場で決闘を申し込んだりもした。

 ちなみに、この王弟は決闘こそまぬがれたものの、辺境の砦で終生までを過ごす事になった。

 フィールの行動は、少年に対して被害を与えたわけではなく、むしろ、どちらかと言えばご褒美だったと言えなくもないが、シンの規範では「不適切」であると判断されたようだった。


 シンの説教は半刻ほども続いたが、その頃にはさすがに怒りが収まったようであった。

 それを見て取って、フィールがようやく口をはさんだ。


「あのう」

「何ですか? 言いたいことがあれば伺いましょう」

「いや、そこの……ほら」


 フィールの指さす先を振り返ると、茶色の髪をした幼い少年が腰を抜かしたように座っていた。

 ちょうど、シンのすぐ後ろの位置だ。

 そして、シンが身に着けているのは、足の付け根ギリギリまでを覆う短衣一枚だけである。

 つまり、結果として、赤い髪の美女はこの少年の面前に、大股開きのお尻を突き出すような恰好で説教していたことになる。

 そこからだと、下着をつけていない短衣の中が丸見えになっている筈だ。

 いや、確実に丸見えだったのだろう。

 目を見開き、茫然とした表情の少年の鼻からは、赤いものがたらたらと流れていた。



             ◇



「へぇ、麓の村から二日がかりでここまで。ってことは森の中で一人で夜を過ごした事になるけど」

「猟師だった父さんから色々と教わりましたので」


 宝玉の首飾りを身に着け呪文入りの布で裸身を覆ったフィールは、急速に暗くなっていく中を手慣れた様子で火をおこす少年を見ながら感心したように言った。


「確かに、そのようだねぇ。君を見ていると、お父さんは腕の良い猟師さんだってことがわかるよ。あ、いや、猟師だった……って」


「先日、息を引き取りました」


 ヘブロと言う少年は、淡々とした表情で手を休める事無くそう告げた。


「それは……なんというか、そのぅ」

「大丈夫ですよ。もう、弔いも済ませましたし。それよりも……」


 ヘブロが心配そうに視線を向ける先にはどんよりとした雰囲気を放っている、フィールのものと同じ呪文入りの布の塊があった。


「ん~、まぁ、しばらくはそっとしておこうか。色々な意味で落ち込んでいるみたいだから」


 金髪の美しい少女は肩をすくめてそう言った。


「ところで、どうだった? 初めて見たんだろ」


 先ほどまで少年が見ていた――正確には、見せつけられていたものに関する感想をフィールが脳天気に尋ねると、布の塊がピクリと動いたようだったが、それきり静かになった。


「どうって言われても……」


 さすがにヘブロも困ったような表情を浮かべていた。


「まぁ、口にして語るものでも無いか。あれは見て、触れて、感じるものだしね」

「はぁ」


 そういう事を臆面もなく語る年上の美しい少女に、ヘブロはどう対応して良いものかわからないようだった。

 いや、この少年でなくても対応に困る話ではあっただろう。


「えーと、ひとつ教えてもらっていいかな?」


 いきなり話題を変えたフィールに、ヘブロは面食らいながらうなずいた。


「君のお父さんが亡くなった事と、君が……こう言ってはなんだけど、まだまだ成人の儀を迎えるにはほど遠いような子供が、こんな山奥まで剣を携えて一人でやってきたことは無関係じゃないよね」


 それを言えば、若い女性が二人、それもろくな衣服も無い状態でこんな山奥まで来ているのはどういう事情なのか、と、突っ込みがありそうだが、この幼いと言っていい少年はそのような対応には縁が無いようだった。


「父さんは魔物に遭ったと言ってました。ひどい怪我をして……村のみんなは、よく戻ってこれたものだと言ってましたけど。それが精いっぱいだったようです」

「つまり、君は父さんの敵討ちに来たと、そういうわけなんだね」

「はい」


 それを聞いて、突然、布の塊……いや、布にくるまっていた赤い髪の美女が立ち上がった。


「そういう事なら喜んで力を貸そう」


 鞘に収まった〈厳之霊いかづちの剣〉を高々と掲げて見せる。


「この剣にかけて、その魔物は私が滅ぼす」


 秩序を守る雷神ゾーガの戦闘神官としての誓約を告げてシンはヘブロを見つめた。

 一方の少年も、赤い髪の美女を見つめ返していた。

 もっとも、その視線はかなり下の方を向いている。

 今まで膝を抱えて落ち込んでいた状態から、そのままに立ち上がった為か、伸縮性の高い銀龍の皮でできた短衣の裾は捲れ上がった状態で、彼女の引き締まった腹部が露わになっていた。

 むろん、その下も丸見えである。

 火をおこす為に座っていたヘブロはそれを見上げる恰好となったわけで、その鼻から、再び赤いものが流れ出した事は言うまでもない。


「後ろからも前からも……丁寧というか、徹底しているというか」


 妙に感心した口ぶりでフィールが感想を述べたが、固まってしまったシンの耳には届いていないようだった。



             ◇



 翌朝、森の中を進む三人の姿があった。

 たっぷりと睡眠をとったらしく、金髪の少女の歩みは元気そのものであったが、他の二人は妙に精彩を欠いていた。

 あの後、再び布の塊となったシンは、その野性的な美貌に覇気の無い表情を浮かべていたし、ヘブロの方もよく眠れなかったようにも見受けられた。


「いや~、この当たりまで標高があると夜は寒いものだけれど、君が暖かかったから、おかげでよく眠れたよ」


 少年を抱き枕兼暖房具代わりにした金髪の少女がにこやかに語り掛ける。

 一方の少年は、呪文入りの布越しとは言え、素裸の少女に抱き付かれた恰好となった為、眠るどころではなかったようだ。

 赤い髪の美女も、二度も「やらかして」しまった為か、未だに立ち直れない様子である。

 自然に弾むような足取りのフィールが先行し、ヘブロとシンがその後をトボトボとついていくといった様子になった。


「あ、あの……」


 不意に少年が、赤い髪の美女に声をかける。


「ええと、その……初めて見た……んですけど、き……綺麗だったと思います」


 顔を真っ赤にして俯きながら、それでも元気のないシンを慰めようとしたのか、必死に言葉を選びながら語り掛けてくる。

 それにしても「綺麗だった」とは、よく言ったものである。

 まぁ、確かに他に言いようもないな、と考えたながらシンは噴き出してしまった。


「ありがとう……と、言うのもおかしな話だが、おかげで元気が出たよ」

「ええ、その、ごめんなさい」

「あやまる事はないさ。うっかりした……というか、色々と不慣れなもので迷惑をかけたかもしれないな」

「いえ、迷惑だなんて……いえ、何というか」


 必死で言葉を紡ごうとする幼い少年の様子は、いじらしいとしか言いようがなかった。

 穏やかな青年騎士だった頃……と言っても、たった数日前の話なのだが……シンは子供に懐かれる事が多かった。

 その雰囲気は野性的で精悍な美女となった今でも変わらないようだ。

 あるいは、精神的な波長に一致するところがあったのかもしれない。

 それから、しばらく黙ったままで歩みを進める二人の間には、穏やかな空気が満ちているような感じだった。


「……君は、何も聞かないのだな」


 ややあって、今度はシンの方から語り掛けた。


「え?」

「こんな山奥に、若い女が……その、あんまり相応しくない恰好で、二人連れでいるんだ」


 素裸に布だけ被った少女と、際どい服装……いや、服装と言う以前の短衣に下着もつけていない若い女。

 山奥でなくても、この恰好が相応しい場所と言うのはあまり無いと言う事実はさておき、普通は不審に思うものだ。


「だけど、君は理由を尋ねてこない。逆にそれが気になってね」


 それを聞いた少年は、少し寂しそうに笑った。


「この山道を通る人は、みんな、人には言えない事情があるって父さんが言っていたんです」


 ウルネシアは豊かで住みやすい国だが、それでも、何もかもを捨てて他所へと逃げなければならない人々はいる。

 この山道は、そうした逃亡者が人目を避けて国外へ行くのに使われる事が多いのだと、少年の父親は語ったそうだ。


「父さんも、本当はぼくを連れて遠くへ行きたかったみたいです。でも、あの村には母さんの墓があるから」


 父親の弔いの時、ヘブロが村長に当たる老人に聞いた話では、十年ほど前に、父と身重だった母の二人だけで村に現れたと言う事だった。

 母親は、その晩に産気づき、ヘブロを産むのと引き換えに命を失った。

 まだ若い、少女の域を出てからさほどの歳月もたっていないような娘だったらしい。

 つまり、父親を亡くしたと言う少年は天涯孤独になったばかりと言う事になる。


「ううむ」


 シンは歩きながらも、考え込んでしまった。

 事情を知った以上は捨て置くわけにはいかないと言う思いはあるが、これから主君と共に逃亡と探索の旅をしなければならない身の上でもある。

 悩んでいる赤い髪の美女に、少年は微笑んでみせた。


「お気持ちはありがたいのですが、ぼくは大丈夫です。村のみんなもよくしてくれますし、父さんから習った狩りや薬草の知識もあります」


 まったく、よくできた少年である。

 自分の主君に爪の垢でも煎じて飲ませたいくらいだ、などと思う一方で、シンは少年の父親に興味を覚えた。

 鄙びた辺境の村で育った割には、この少年の言葉遣いや振舞は出来すぎていた。

 おそらくは父親の薫陶を受けた結果だろうが、しかし、ただの猟師がそのような教育を施せるものだろうか。

 そう思って尋ねてみると、果たして少年は次のように答えた。


「ええ、父さんは元々近衛騎士だったと、そんな事を言った事があります」

「やはり、そうか」


 話を聞く限りでは、まだ若いと言ってよい年齢だったようなので、十年前は青年の域に達したばかりと言う事になる。

 そんな若さで近衛騎士だったとなれば、平民出身ではあり得ない。

 再び考え込むシンだったが、先を歩むフィールが足を止めたのに気付き、警戒するように剣の柄に手をかけた。


「見つけたよ。この先に魔物がいる」


 二人の元へと戻ったフィールは、真剣な表情でそう言った。

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